第2話
午後六時を回る頃には、空は一段と夕焼け色に染まっていた。
最寄りのインターから高速に乗って東京へ向けてひた走る。
途中でサービスエリアに寄ったとしても、午後九時前には家に帰れる計算だった。
「それにしても、一つだけ心残りがある」
拓己がハンドルを握りながら真剣な顔つきで言う。
「もっと現地の人との交流を楽しみたかった」
「楽しんだろ。焼きまんじゅう屋のおばちゃんと群馬ネタで盛り上がってたじゃないか」
「ばかお前。現地の人っていうのは群馬の女の子に決まってるだろ」
「そっちかよ。でも焼きまんじゅうはうまかったろ?」
「あぁ、それは認める」
そんな他愛もない話をしながら高速道路を走る。行きと変わらない景色のはずなのに、薄暗くなってきた車内には帰りの道中特有の緩んだ空気が漂っていた。
それから二十分ほど走った頃だった。
「あれ?」
拓己が小さく首をかしげる。
「どうした?」
「いや……あの看板」
俺も拓己が指さす方へ視線を向けた。
道路脇に立つ緑の案内標識には 『ようこそ 群馬県へ』とある。
「……群馬?」
思わず声が漏れた。
「おかしくないか?」
「あぁ、埼玉県に入ったんじゃないのか」
「だよな」
慌ててナビを見てみると、画面には東京方面へのルートが表示されたままで、現在地も県境付近を示している。
「標識の立て間違いじゃね?」
俺は笑いながら言ったが、自分でも苦しい言い訳だと思った。
「県境標識を?」
「……ないか」
拓己も苦笑しつつそのまま車を走らせる。
「まぁ、そのうち東京に着くだろ」
「そうだな」
俺もそう思った。
違和感を感じつつも高速道路を降りるつもりはなくそのまま走り続ける。
途中のサービスエリアで缶コーヒーを買い、十分ほど休憩してから再び本線へ戻った。
ところが、高速へ合流して間もなく――。
『ようこそ 群馬県へ』
俺たちはまた同じ標識を見ることになる。
今度は二人とも何も言えなかった。
拓己はゆっくりアクセルを緩めると、最寄りのインターチェンジで高速道路を降りた。
「高速はやめて一般道で帰るとするか」
「あぁ、その方がいいかもな」
ナビは相変わらず東京への最短ルートを案内している。画面の矢印どおりに交差点を曲がり、しばらく走ると大きな橋が見えてきた。
「この橋を渡れば埼玉のはずだ……」
拓己が独り言のように呟く。
橋を渡り切った先に県境を示す標識が立っていた。
俺は無意識にその文字を目で追い、思わず息を飲んだ。
『ようこそ 群馬県へ』
「……またか」
車内の空気が一変した。
拓己は路肩へ車を停めると、ナビとスマホを交互に見比べる。
ナビでは車は埼玉県との境に位置しているし、俺のスマホで開いた地図アプリも同じ場所を示していた。それなのに窓の外には、何事もなかったかのように『ようこそ 群馬県へ』の標識が立っている。
「スマホのGPSまで狂うことなんてあるか?」
「聞いたことない」
「じゃあ何なんだよ、これ」
拓己は舌打ちすると車を発進させ、今度はナビを無視して走り始めた。
県境へ向かう道ではなく、一旦大きく迂回するルートを選ぶ。
知らない交差点を曲がり、静かな住宅街を通り、だだっ広い田んぼ道を抜けてひたすら東の方へ向かって走り続けた。
そうして一時間近く走った頃。前方に県境標識が見えた瞬間、嫌な予感が背筋を走った。
そして、その予感は外れなかった。
『ようこそ 群馬県へ』
拓己はゆっくり車を停めると、ハンドルに両手を置いたまま動かなくなった。俺も何と言えばいいのか分からず、ただ標識を見つめることしかできない。
長い沈黙のあと、拓己がぼそっと口を開いた。
「……なあ、一樹」
「何だよ」
「お前、本当に群馬パスポート持ってないんだよな?」
「だから持ってないって。あんなの観光用の冊子だろ?」
「最初は俺も冗談のつもりだった。でも、ここまでくるとさ……」
拓己は言葉を切り、深く息を吐いた。
「もしかしたら、本当に関係あるのかもしれない」
俺はそんな馬鹿なと笑い飛ばそうとした。
しかし窓の外には、車のヘッドライトに照らし出された『ようこそ 群馬県へ』の標識が静かに立っている。
その光景を前にすると、どうしても笑うことができなかった。




