第九話 大いなるものの影
蟲獣皇帝の就任から、三ヶ月が経った。
三ヶ月は、長くもあり、短くもあった。
長かった理由は——やることが、山積みだったから。
三勢力の監視体制の調整。北方村落の復興支援の調整。各勢力の「同盟」に向けた水面下の交渉。カラス・クロウが「一歩進んで半歩下がる」と表現した、膨大な根回しの日々。
短かった理由は——北の動きが、着実に変わっていたから。
先遣が「もう少し見る」と言った期間は、悠真の感覚より早く終わろうとしていた。
北の空の赤みが、濃くなっている。
カラスの観測では、赤黒い領域の境界が、一ヶ月前より二割広がっていた。
悠真が先遣のもとを再度訪れると——前回よりも声が遠く、言葉が短くなっていた。
「……大いなるものが、近い。小さなことからコツコツと——もう、間もなくじゃ」
それだけ言って、声は消えた。
悠真は出汁を置いて帰ってきた。
先遣は「悪くない匂いじゃ」とも、もう言わなかった。
◇
問題は外だけではなかった。
三ヶ月の間に、内側でも何かが動き始めていた。
害虫連邦の北方国境付近で、正体不明の偵察部隊が確認された。害獣でも人類でもない——外骨格を持つが、既存の害虫種とは異なる形態。撃退しようとした斥候が、三名、重傷を負った。
カラスが報告を持ってきた時、その目が珍しく、わずかに揺れていた。
「……これは、害神軍の前衛です。大いなるものの本体ではなく——先に送り込まれた侵略部隊」
「先遣とは別の、ということですか」
「先遣は偵察です。こちらは——戦闘部隊。意味が違う。そして——」
カラスは地図の一点を指した。
「前衛部隊の気配の中に——別格の何かが混じっています。規模が違う。前衛部隊を束ねる司令官クラスと見られます」
「害神軍の司令官、というのは」
「害神軍には四柱の最高司令官が存在すると、古い文献に記録されています。四天害と呼ばれます。その一柱が——近づいている可能性があります」
「四天害」
「詳細は不明です。ただ——前衛部隊の気配とは次元が違う。G・クリムゾンさん、何か知っていますか」
G・クリムゾンは腕を組んだ。全部。しばらく黙っていた。
「……知っとる。一柱だけ——ワシには、気配でわかる存在がいる。蟑神カルディアや」
「G・クリムゾンさんが知っている存在、ということは」
「……昔の話や。今は言わん。ただ——来るとしたら、そいつだと思う」
それ以上、G・クリムゾンは語らなかった。
しかし触覚の動きが、いつもより遅かった。
「つまり、もう始まっとる、ということか」
「始まりかけています。本格的な侵攻前の、陣地確保の動きかと」
セイリオスが書状を持ってきた。人類王国の北方でも同様の報告が上がっている。
シビシネアが無言で地図に印を打ち始めた。各勢力から届いた報告の位置。
印が増えるにつれて、全員が黙った。
地図の上で、三勢力の国境を無視して、北から南へ——印が広がっていた。
「……包囲されかけています」とカラスが言った。「今はまだ、隙間がある。でも」
「でも、放っておけば塞がる」と悠真は言った。
「はい」
悠真は地図を見た。
三ヶ月前、ここに集まった全員の顔を思い出した。料理を食べて、話し合いを始めた、あの場所。
(やれることをやるしかない)
悠真は立ち上がった。
「全員を集めてください。三勢力全部。今夜、方針を決めます」
「夕食の準備もありますか」とイタチが聞いた。
「もちろん」
イタチはすでに立ち上がっていた。食材を調達しに行くつもりだった。
◇
その夜の会議は、これまでで一番、静かだった。
誰も怒鳴らなかった。センディアも、レオンも。
地図の印が、言葉より雄弁だった。
方針は三つに絞られた。
一——包囲の隙間を維持する。前衛部隊の侵攻を阻止し、三勢力の連絡線を確保する。
二——大いなるものの本体が来る前に、先遣との対話を続ける。悠真が担当する。
三——万一、本体が来た場合の対処を今から準備する。
三番目の議論が始まった時、カラスが言った。
「本体が来た場合、私の試算では——戦闘による撃退は、不可能です」
沈黙。
「断言するのか」とG・クリムゾン。
「確率論的に。害神軍の本体は銀河規模の文明です。私たちは惑星一つの三勢力に過ぎない。正面から当たれば、数日と持たない」
「じゃあどうする」
「戦闘以外の手段が必要です。ただ——それが何かは、私にはわからない」
全員がわからなかった。
悠真もわからなかった。
会議が止まりかけた時。
G・クリムゾンが、ゆっくりと立ち上がった。
「……一席、いいか」
全員が G・クリムゾンを見た。
今この状況で落語か、という顔をする者が数名いた。センディアが「総司令」と言いかけた。
悠真が言った。
「聞きましょう」
全員が悠真を見た。
「G・クリムゾンさんが一席やりたい時は、やる理由があります。聞きましょう」
センディアは黙った。
G・クリムゾンは六本腕を構えた。独特の、落語体勢。
そして——語り始めた。
◇
話は、百年前のことだった。
害虫と害獣と人間が、初めて同じ場所で戦った日のこと。お互いを敵として。お互いの言葉を理解しようともせずに。
そしてその日、戦場の真ん中で、一匹のゴキブリが何を思ったか——落語の形を借りて、G・クリムゾンは語った。
笑えない話だった。
オチはなかった。
脂っこくもなかった。
静かな、静かな話だった。
百年間、戦い続けて、誰も勝てなくて、自分が落語を覚えたのは「話を聞いてもらいたかったから」で、でも誰も聞かなかった。スキルがあれば戦える。魔力があれば戦える。でも——話を聞いてもらうことは、誰も教えてくれなかった。
「せやから——」
G・クリムゾンは六本腕を下ろした。
「あいつが来た時——あいつだけは、最後まで聞いてくれた。笑わんかったけど」
全員が悠真を見た。
悠真は少し下を向いた。
「……ワシはな、百年間、ずっと間違えとったと思う。強いことが正しいと思っとった。でも——北から来る何かは、ワシらより強い。正面から当たれば負ける」
G・クリムゾンは、会議の場を見渡した。
「じゃあ、ワシらに何が残っとるか。——話すことや。百年かけてやっとわかったことを、大いなるものにも、やってみるしかない」
沈黙。
「それをできるのは、悠真しかおらん。ワシらにはできん。でも——あいつが行く時に、ワシらがついて行くことはできる」
G・クリムゾンは悠真を見た。
「これが、ワシの一席や。オチはない。笑わんでええ」
また、長い沈黙があった。
レグナスが、静かに言った。
「……笑えんな。でも——ええ話やった。ワシも、そう思う」
センディアは何も言わなかった。しかし、毒液が、今夜は一度も滲まなかった。
レオンが「んだな」と言った。短く、しかし真剣に。
イタチが「……同じく」とぼそりと言った。
カラスが、計算の目ではなく、少し遠くを見る目で言った。
「……戦闘以外の手段が必要、と言いました。落語家の総司令が、その答えを持っていたようです」
九尾は何も言わなかった。
ただ、細い目をさらに細くして、G・クリムゾンを見ていた。
その目に——何かが、あった。
◇
会議が終わった後、全員が散った。
G・クリムゾンが外に出たのを見て、悠真は後を追った。
迎賓館の裏庭。G・クリムゾンは空を見上げていた。北の空は、今夜も赤みを帯びている。
「G・クリムゾンさん」
「なんや」
「一席——ありがとうございます」
「礼を言うな。言いたかっただけや」
「でも言います。あの一席で——全員の方向が、決まった気がします」
G・クリムゾンは触覚をぴくりと動かした。
「……今夜は、笑わんかっただけやなくて——泣かんかったか、お前」
悠真は少し考えた。
「泣きそうでした」
「なんで泣かんかった」
「泣いたら、G・クリムゾンさんが困りそうだったので」
G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。
しかし今回の「なんでやねん」は——いつもと少し、声が低かった。
悠真はそれに気づいて、少しだけ、空を見上げた。
「……北から、何かが来た時。G・クリムゾンさんはどうしますか」
「決まっとる。戦う」
「勝てなくても」
「勝てるかどうかより——お前が話しに行く間、時間を稼ぐ。それがワシにできることや。落語と、戦いと。どっちも、最後まで続けることが大事やから」
悠真は黙った。
何かを言いたかったが、言葉が追いつかなかった。
G・クリムゾンが言った。
「……悠真。お前、今、何か言いたそうな顔をしとる」
「言いたいことはあるんですが、うまく言えなくて」
「ええ。言えん時は無理に言わんでいい。落語もそうや——言葉がまとまらん時は、語らん方がいい」
G・クリムゾンは北の空を見た。
「ただ——一つだけ聞いといてくれ」
「はい」
「北から何かが来て、全部が終わった後——生きとったら、また温泉に行こうや。ワシ、北の温泉に行きたかったんや。封じが解けたのに、まだ行けとらんから」
悠真は、少し笑った。
「行きましょう。絶対に」
「一席も打つ」
「聞きます。最後まで」
「笑わんやろ」
「でも面白いです。本当に」
G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。
今夜最後の「なんでやねん」は——穏やかだった。
二人はしばらく、北の空を見た。
赤みが、少し濃くなっていた。
でも——今夜は、それでいいと思えた。
◇
その夜遅く、九尾が悠真の部屋に来た。
珍しいことだった。九尾から訪ねてくることは、ほとんどなかった。
「G・クリムゾンと話したか」
「はい。裏庭で」
「……そうか」
九尾は窓際に座った。部屋の中に、九本の尾が静かに収まった。
「今夜、また見えた」
「未来視ですか」
「ぼんやりとだ。ただ——今夜のは、少し、はっきりしておった」
悠真は九尾を見た。
「何が見えましたか」
九尾はしばらく黙った。
尾が、一本ずつ、ゆっくりと揺れていた。
「……G・クリムゾンが、北の空の下に立っておった。一人で。その後ろに、お前たちがいた。G・クリムゾンの前に——赤黒い何かが、来ておった」
悠真は何も言わなかった。
「ぼんやりしておるから、意味はわからん。後でわかるかもしれん。わからんかもしれん」
「九尾さん」
「なんじゃ」
「……その映像の続きは、見えましたか」
九尾はしばらく黙った。
今夜一番長い沈黙だった。
「……見えた。ぼんやりとだが」
「どうなっていましたか」
九尾は北の空を見た。
「……空が、一筋だけ——緑だった
悠真はそれを聞いて、少し息を吐いた。
緑の空。この世界の「普通」の空の色。
赤黒い空の中に、一筋だけ残る緑。
第四話で見えた映像と——同じだった。
「……九尾さんの未来視は、外れない、と言っていましたね」
「外れたことは——あまりない。ぼんやりしておるが」
悠真は少し考えた。
「じゃあ——一筋の緑が残る、ということは」
「ワシにはわからん。意味は後でわかる。ただ——見えた、ということは伝えておきたかった」
九尾は立ち上がった。
「寝ろ。明日からまた忙しくなる」
「九尾さんも」
「ワシは年寄りじゃ。あまり眠れん」
扉の前で、九尾は立ち止まった。
「……悠真。一つだけ言っておく」
「はい」
「ワシは長く生きておるが——こんなに、先が気になる時期は、なかった。それだけじゃ」
それだけ言って、九尾は出ていった。
悠真は部屋に一人残って、しばらく窓の外を見た。
北の空が赤い。でも、一筋の緑が——どこかにあるはずだと、今は思えた。
悠真は目を閉じた。
明日の出汁の材料を、頭の中で確認しながら、眠った。
〈第九話 了〉




