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蟲獣皇帝ゼロ  作者: 伝説の男前
第二部 大いなるものの影

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9/20

第九話 大いなるものの影

蟲獣皇帝の就任から、三ヶ月が経った。


三ヶ月は、長くもあり、短くもあった。


長かった理由は——やることが、山積みだったから。

三勢力の監視体制の調整。北方村落の復興支援の調整。各勢力の「同盟」に向けた水面下の交渉。カラス・クロウが「一歩進んで半歩下がる」と表現した、膨大な根回しの日々。

短かった理由は——北の動きが、着実に変わっていたから。


先遣が「もう少し見る」と言った期間は、悠真の感覚より早く終わろうとしていた。


北の空の赤みが、濃くなっている。

カラスの観測では、赤黒い領域の境界が、一ヶ月前より二割広がっていた。

悠真が先遣のもとを再度訪れると——前回よりも声が遠く、言葉が短くなっていた。


「……大いなるものが、近い。小さなことからコツコツと——もう、間もなくじゃ」


それだけ言って、声は消えた。


悠真は出汁を置いて帰ってきた。

先遣は「悪くない匂いじゃ」とも、もう言わなかった。



問題は外だけではなかった。


三ヶ月の間に、内側でも何かが動き始めていた。


害虫連邦の北方国境付近で、正体不明の偵察部隊が確認された。害獣でも人類でもない——外骨格を持つが、既存の害虫種とは異なる形態。撃退しようとした斥候が、三名、重傷を負った。


カラスが報告を持ってきた時、その目が珍しく、わずかに揺れていた。


「……これは、害神軍の前衛です。大いなるものの本体ではなく——先に送り込まれた侵略部隊」


「先遣とは別の、ということですか」


「先遣は偵察です。こちらは——戦闘部隊。意味が違う。そして——」


カラスは地図の一点を指した。


「前衛部隊の気配の中に——別格の何かが混じっています。規模が違う。前衛部隊を束ねる司令官クラスと見られます」


「害神軍の司令官、というのは」


「害神軍には四柱の最高司令官が存在すると、古い文献に記録されています。四天害と呼ばれます。その一柱が——近づいている可能性があります」


「四天害」


「詳細は不明です。ただ——前衛部隊の気配とは次元が違う。G・クリムゾンさん、何か知っていますか」


G・クリムゾンは腕を組んだ。全部。しばらく黙っていた。


「……知っとる。一柱だけ——ワシには、気配でわかる存在がいる。蟑神カルディアや」


「G・クリムゾンさんが知っている存在、ということは」


「……昔の話や。今は言わん。ただ——来るとしたら、そいつだと思う」


それ以上、G・クリムゾンは語らなかった。

しかし触覚の動きが、いつもより遅かった。


「つまり、もう始まっとる、ということか」


「始まりかけています。本格的な侵攻前の、陣地確保の動きかと」


セイリオスが書状を持ってきた。人類王国の北方でも同様の報告が上がっている。

シビシネアが無言で地図に印を打ち始めた。各勢力から届いた報告の位置。


印が増えるにつれて、全員が黙った。


地図の上で、三勢力の国境を無視して、北から南へ——印が広がっていた。


「……包囲されかけています」とカラスが言った。「今はまだ、隙間がある。でも」


「でも、放っておけば塞がる」と悠真は言った。


「はい」


悠真は地図を見た。

三ヶ月前、ここに集まった全員の顔を思い出した。料理を食べて、話し合いを始めた、あの場所。


(やれることをやるしかない)


悠真は立ち上がった。


「全員を集めてください。三勢力全部。今夜、方針を決めます」


「夕食の準備もありますか」とイタチが聞いた。


「もちろん」


イタチはすでに立ち上がっていた。食材を調達しに行くつもりだった。



その夜の会議は、これまでで一番、静かだった。


誰も怒鳴らなかった。センディアも、レオンも。

地図の印が、言葉より雄弁だった。


方針は三つに絞られた。


一——包囲の隙間を維持する。前衛部隊の侵攻を阻止し、三勢力の連絡線を確保する。

二——大いなるものの本体が来る前に、先遣との対話を続ける。悠真が担当する。

三——万一、本体が来た場合の対処を今から準備する。


三番目の議論が始まった時、カラスが言った。


「本体が来た場合、私の試算では——戦闘による撃退は、不可能です」


沈黙。


「断言するのか」とG・クリムゾン。


「確率論的に。害神軍の本体は銀河規模の文明です。私たちは惑星一つの三勢力に過ぎない。正面から当たれば、数日と持たない」


「じゃあどうする」


「戦闘以外の手段が必要です。ただ——それが何かは、私にはわからない」


全員がわからなかった。

悠真もわからなかった。


会議が止まりかけた時。


G・クリムゾンが、ゆっくりと立ち上がった。


「……一席、いいか」


全員が G・クリムゾンを見た。

今この状況で落語か、という顔をする者が数名いた。センディアが「総司令」と言いかけた。


悠真が言った。


「聞きましょう」


全員が悠真を見た。


「G・クリムゾンさんが一席やりたい時は、やる理由があります。聞きましょう」


センディアは黙った。


G・クリムゾンは六本腕を構えた。独特の、落語体勢。

そして——語り始めた。



話は、百年前のことだった。


害虫と害獣と人間が、初めて同じ場所で戦った日のこと。お互いを敵として。お互いの言葉を理解しようともせずに。

そしてその日、戦場の真ん中で、一匹のゴキブリが何を思ったか——落語の形を借りて、G・クリムゾンは語った。


笑えない話だった。

オチはなかった。

脂っこくもなかった。


静かな、静かな話だった。


百年間、戦い続けて、誰も勝てなくて、自分が落語を覚えたのは「話を聞いてもらいたかったから」で、でも誰も聞かなかった。スキルがあれば戦える。魔力があれば戦える。でも——話を聞いてもらうことは、誰も教えてくれなかった。


「せやから——」


G・クリムゾンは六本腕を下ろした。


「あいつが来た時——あいつだけは、最後まで聞いてくれた。笑わんかったけど」


全員が悠真を見た。

悠真は少し下を向いた。


「……ワシはな、百年間、ずっと間違えとったと思う。強いことが正しいと思っとった。でも——北から来る何かは、ワシらより強い。正面から当たれば負ける」


G・クリムゾンは、会議の場を見渡した。


「じゃあ、ワシらに何が残っとるか。——話すことや。百年かけてやっとわかったことを、大いなるものにも、やってみるしかない」


沈黙。


「それをできるのは、悠真しかおらん。ワシらにはできん。でも——あいつが行く時に、ワシらがついて行くことはできる」


G・クリムゾンは悠真を見た。


「これが、ワシの一席や。オチはない。笑わんでええ」


また、長い沈黙があった。


レグナスが、静かに言った。


「……笑えんな。でも——ええ話やった。ワシも、そう思う」


センディアは何も言わなかった。しかし、毒液が、今夜は一度も滲まなかった。

レオンが「んだな」と言った。短く、しかし真剣に。

イタチが「……同じく」とぼそりと言った。


カラスが、計算の目ではなく、少し遠くを見る目で言った。


「……戦闘以外の手段が必要、と言いました。落語家の総司令が、その答えを持っていたようです」


九尾は何も言わなかった。

ただ、細い目をさらに細くして、G・クリムゾンを見ていた。

その目に——何かが、あった。



会議が終わった後、全員が散った。


G・クリムゾンが外に出たのを見て、悠真は後を追った。


迎賓館の裏庭。G・クリムゾンは空を見上げていた。北の空は、今夜も赤みを帯びている。


「G・クリムゾンさん」


「なんや」


「一席——ありがとうございます」


「礼を言うな。言いたかっただけや」


「でも言います。あの一席で——全員の方向が、決まった気がします」


G・クリムゾンは触覚をぴくりと動かした。


「……今夜は、笑わんかっただけやなくて——泣かんかったか、お前」


悠真は少し考えた。


「泣きそうでした」


「なんで泣かんかった」


「泣いたら、G・クリムゾンさんが困りそうだったので」


G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。

しかし今回の「なんでやねん」は——いつもと少し、声が低かった。


悠真はそれに気づいて、少しだけ、空を見上げた。


「……北から、何かが来た時。G・クリムゾンさんはどうしますか」


「決まっとる。戦う」


「勝てなくても」


「勝てるかどうかより——お前が話しに行く間、時間を稼ぐ。それがワシにできることや。落語と、戦いと。どっちも、最後まで続けることが大事やから」


悠真は黙った。

何かを言いたかったが、言葉が追いつかなかった。


G・クリムゾンが言った。


「……悠真。お前、今、何か言いたそうな顔をしとる」


「言いたいことはあるんですが、うまく言えなくて」


「ええ。言えん時は無理に言わんでいい。落語もそうや——言葉がまとまらん時は、語らん方がいい」


G・クリムゾンは北の空を見た。


「ただ——一つだけ聞いといてくれ」


「はい」


「北から何かが来て、全部が終わった後——生きとったら、また温泉に行こうや。ワシ、北の温泉に行きたかったんや。封じが解けたのに、まだ行けとらんから」


悠真は、少し笑った。


「行きましょう。絶対に」


「一席も打つ」


「聞きます。最後まで」


「笑わんやろ」


「でも面白いです。本当に」


G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。

今夜最後の「なんでやねん」は——穏やかだった。


二人はしばらく、北の空を見た。

赤みが、少し濃くなっていた。

でも——今夜は、それでいいと思えた。



その夜遅く、九尾が悠真の部屋に来た。


珍しいことだった。九尾から訪ねてくることは、ほとんどなかった。


「G・クリムゾンと話したか」


「はい。裏庭で」


「……そうか」


九尾は窓際に座った。部屋の中に、九本の尾が静かに収まった。


「今夜、また見えた」


「未来視ですか」


「ぼんやりとだ。ただ——今夜のは、少し、はっきりしておった」


悠真は九尾を見た。


「何が見えましたか」


九尾はしばらく黙った。

尾が、一本ずつ、ゆっくりと揺れていた。


「……G・クリムゾンが、北の空の下に立っておった。一人で。その後ろに、お前たちがいた。G・クリムゾンの前に——赤黒い何かが、来ておった」


悠真は何も言わなかった。


「ぼんやりしておるから、意味はわからん。後でわかるかもしれん。わからんかもしれん」


「九尾さん」


「なんじゃ」


「……その映像の続きは、見えましたか」


九尾はしばらく黙った。

今夜一番長い沈黙だった。


「……見えた。ぼんやりとだが」


「どうなっていましたか」


九尾は北の空を見た。


「……空が、一筋だけ——緑だった


悠真はそれを聞いて、少し息を吐いた。


緑の空。この世界の「普通」の空の色。

赤黒い空の中に、一筋だけ残る緑。

第四話で見えた映像と——同じだった。


「……九尾さんの未来視は、外れない、と言っていましたね」


「外れたことは——あまりない。ぼんやりしておるが」


悠真は少し考えた。


「じゃあ——一筋の緑が残る、ということは」


「ワシにはわからん。意味は後でわかる。ただ——見えた、ということは伝えておきたかった」


九尾は立ち上がった。


「寝ろ。明日からまた忙しくなる」


「九尾さんも」


「ワシは年寄りじゃ。あまり眠れん」


扉の前で、九尾は立ち止まった。


「……悠真。一つだけ言っておく」


「はい」


「ワシは長く生きておるが——こんなに、先が気になる時期は、なかった。それだけじゃ」


それだけ言って、九尾は出ていった。


悠真は部屋に一人残って、しばらく窓の外を見た。

北の空が赤い。でも、一筋の緑が——どこかにあるはずだと、今は思えた。


悠真は目を閉じた。

明日の出汁の材料を、頭の中で確認しながら、眠った。



〈第九話 了〉

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