第八話 時間が、ある
北から帰った翌日、三勢力に報告を送った。
害虫連邦へ。害獣帝国の幹部たちへ。そして人類王国へ。
内容は短かった。
「北の封じが解けた。村落との通信が回復するはず。斥候も通る。ただし——大いなるものが来るまでの猶予であり、恒久的な解決ではない。時間を使って、準備が必要」
カラス・クロウが悠真の書いた文面を読んで、一度目をつぶった。
「……北の何かと、交渉したということですか」
「交渉というより、話しました」
「その違いは」
「交渉は条件を出し合う。俺は出汁の匂いを嗅いでもらっただけです」
カラスはしばらく悠真を見た。計算の目が、珍しく止まっていた。
「……確率論的に、理解不能です」
「俺もです」
それ以上、カラスは何も言わなかった。
報告から三日後、北方の村落との通信が回復した。
消えていた斥候が、一名を除いて戻ってきた。一名は——結局、戻らなかった。それだけが、取り返せないものとして残った。
悠真は一人で、その夜少しだけ、泣いた。
自分が北に来るのがもう少し早ければ、と思った。でも、早く来られたかどうかもわからなかった。
泣いた後で、出汁を取った。誰かに出すわけではなく、ただ取った。匂いが、少し、落ち着かせてくれた。
◇
三者会議の第二回が開かれたのは、北から帰って二週間後だった。
今回は、前回より人数が多かった。
害虫連邦からはG・クリムゾン、センディア、ハニー・ヴェスパ、テルミナ。
害獣帝国からはカラス・クロウ、イタチ・ライア、シビシネア、九尾。
人類王国からはレグナス、セイリオス、レオン、そして——魔導師ミレイナと処刑官ガルドも来ていた。
ミレイナは入るなり厨房の位置を確認し、「またおいでやす」と言いながら悠真の料理を品定めするような目で見た。
ガルドは無表情のまま全員を一度見回し、何かを計算している顔をした。
悠真は料理を作りながら、会議の流れを外から聞いていた。
今回は紛糾しなかった。
北の封じが解けた、という事実が——百年の感情的な壁に、初めて「共通の経験」という楔を打ち込んでいた。
話し合いは具体的な話になった。北方の監視体制をどう分担するか。各勢力の斥候ルートをどう調整するか。「大いなるものが来る」その時に向けて、何ができるか。
レグナスが言った。
「まぁ、正式な同盟というのは、ワシの一存では決められんな。王国議会を通さんといかん。時間がかかる」
「うちも幹部会議がいる」とG・クリムゾン。
「こちらも同様です」とカラス。
三者がそれぞれの事情を述べた後、少しの沈黙があった。
セイリオスが言った。「とりあえず——形の上で、誰かが三者を束ねる立場が必要ではないか。実権は各々が持ったまま、表向きの調停役でいい。でないと話が進まん」
また沈黙。
レグナスが、ゆっくりと悠真の方を見た。
「……神代悠真」
悠真は厨房から顔を出した。
「はい」
「お前、調停役をやれるか」
悠真は少し考えた。
「調停役というのは、具体的に何をするんですか」
「三者の間で話がまとまらん時に、間に入る。あと、北の何かとまた話す必要が出た時に、行ける人間がお前しかおらん」
「それは確かに俺しかできないですが——調停役という名前がついていなくてもできます」
「名前がついておらんと、周りが動きにくい。特にうちの議会がうるさい。『誰の指示で動くのか』と言い出す。そういう時に、肩書きが必要なんや」
レグナスは苦笑した。
「ワシも長年王様やっとるからわかる。形というのは、馬鹿にできん。内実が同じでも、形があるとないとでは、人の動き方が変わる」
G・クリムゾンが言った。
「ワシも、うちの幹部に説明する時に、『G・クリムゾンが認めた調停者』と言えた方が話が早い。センディアみたいなのは、特に」
センディアが「巻き込むな」という顔をした。しかし否定しなかった。
九尾が静かに言った。
「……肩書きより、名前の方がよかろう。調停役では弱い。もっと——重みのある名前を」
沈黙。
カラス・クロウが言った。
「害虫と害獣を束ねる、という意味で——『蟲獣』。そして、三勢力の頂点という意味で、『皇帝』。スキルなし戦闘力Fの転生者には、過分な名かもしれませんが」
「過分やな」とG・クリムゾン。「でも——それがええと思う」
「んだ」とレオン。「なんか、しっくり来るべ」
「またおいでやす」とミレイナが言った。全員が「それは違う」という顔をした。
「……失礼しました。賛成、という意味どす」
ガルドは無言で一度うなずいた。
悠真は厨房の入り口に立ったまま、全員の顔を見た。
害虫の幹部たち。害獣の将軍たち。人類の王と騎士と魔導師。
全員が、悠真を見ていた。
悠真は少し考えた。長く考えた。
それから言った。
「……わかりました。ただし、一つだけ条件があります」
「なんや」
「料理は続けさせてください。皇帝になっても、厨房には入ります」
沈黙。
レグナスが「あははは」と笑った。
「ちっさい条件やな」
「大事なことなので」
「ええわ、それで。まぁ、気楽に行こうや」
G・クリムゾンが「なんでやねん」と言った。今回は、温かい「なんでやねん」だった。
九尾が窓際で、静かに尾を揺らした。
こうして——蟲獣皇帝ゼロが、誕生した。
就任の宴の料理は、悠真が一人で作った。
◇
宴の夜が深くなった頃、悠真は一人で外に出た。
いつもの習慣だった。温泉があれば入りたかったが、迎賓館には浴場しかない。悠真は浴場に入って、湯の中でぼんやり考えた。
(皇帝、か)
スキルなし、魔力なし、戦闘力F。のり塩ポテチが食べたい二十六歳の元無職が、蟲獣皇帝。
おかしな話だと思った。でも——おかしくもなかった。
誰も動かせなかった場所に、少しずつ動いた痕跡がある。その痕跡が積み重なって、形になった。それだけのことだった。
湯の中で目を閉じると、これまでの場面が浮かんだ。
G・クリムゾンの落語を最後まで聞いた夜。センディアにスープを渡した訓練場。シビシネアのスライディング土下座。九尾が苔を受け取った時の遠い目。イタチの全裸土下座と、その後の「食材は俺が調達する」。カラスが「料理も頼めますか」と言った声。レグナスの「ちっさいけど——ええな」。
そして——赤黒い霧の中の、「悪くない匂いじゃ」という声。
(まだ、始まったばかりだ)
大いなるものは、まだ来ていない。
三勢力の統合は、形の上でできただけで、百年の感情的な壁はまだある。
北の先遣は「もう少し見る」と言った。それがいつまでかはわからない。
でも——時間が、ある。
悠真は湯の中で、天井を見上げた。
(運が良ければ——なんとかなる)
口癖を心の中で言ってみた。
最初にこの世界に来た日から、ずっと言い続けてきた言葉。
今は少し——意味が変わっていた。
「運が良ければ」は、何もしなくても良くなる、という意味ではなかった。
やれることをやった上で、それでも足りない部分を、運に預ける。そういう言葉だと、今はわかっていた。
悠真は湯船から出た。
廊下に戻ると、G・クリムゾンが壁に寄りかかって待っていた。
「温泉か」
「浴場でした。温泉があればよかったんですが」
「温泉……ワシも行ったことがあるな。昔」
「どこにあるんですか」
「北の方に、いい温泉があるんやが——ここ最近は行けんかったな。封じがあって」
悠真は少し考えた。
「封じが解けたので、そのうち行けるかもしれないですね」
「……そうやな」
G・クリムゾンは触覚をゆっくり動かした。
「なあ、悠真」
初めて、名前で呼ばれた。
G・クリムゾンは悠真のことを今まで「お前」とか「人間」と呼んでいた。
「はい」
「……皇帝になっても、落語を聞いてくれるか」
悠真は少し笑った。
「もちろんです。喜んで」
「また笑わんやろ」
「でも面白いです。本当に」
G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。
その「なんでやねん」は——最初の夜、牢屋で聞いた困惑の「なんでやねん」とは、全く違っていた。
悠真にはその違いが、今はちゃんとわかった。
◇
宴が終わって、全員が休んだ後。
九尾だけが、まだ起きていた。
迎賓館の縁側で、北の空を見ていた。
悠真は隣に座った。
しばらく、二人で空を見た。
「九尾さん」
「なんじゃ」
「また見えましたか、未来視」
九尾は少し間を置いてから、
「……今夜は見えん。見えない夜もある」
「そうですか」
「ただ——見えなくても、わかることがある」
「何が」
九尾は北の空を見たまま、言った。
「餌につられて参謀になったが——今は、それだけではないな、と思っておる」
悠真は何も言わなかった。
「お前が皇帝になる時、ワシは——少し、誇らしかった。おかしなことじゃ。ワシはお前の何でもない。ただの参謀じゃ」
「参謀は大事です」
「そういう話をしておるのではない」
九尾は尾を一本、ゆっくりと揺らした。
「……ワシは長く生きておる。長く生きると、誰かのことを誇らしいと思う感覚が——なくなっていくものじゃ。自分のことしか残らなくなる。じゃが」
九尾は悠真を見た。細い目で、しかし——真っ直ぐに。
「今夜は、あった。その感覚が」
悠真はしばらく黙っていた。
何かを言うより、黙っている方が正しい気がした。
やがて、悠真は言った。
「俺も——九尾さんが参謀でよかったと思っています。苔を渡した時から、ずっと」
「……ちょろいん」
「今回は?」
「今回は——ワシじゃ」
九尾は静かに笑った。
声を出さない、細い目がさらに細くなるだけの笑い方。それが九尾の笑い方だと、悠真は知っていた。
二人は、しばらく北の空を見ていた。
星が出ていた。この世界の星は、地球のものより少し大きく見える。
悠真は思った。
(のり塩ポテチが食べたい)
皇帝になっても、それは変わらなかった。
それでいいと思った。
◇
翌朝、悠真は早く起きて出汁を取った。
苔と、根菜と、干し肉。
いつもと同じ材料。いつもと同じ手順。
でも——今朝は、少し違う気がした。
何が違うか、言葉にはできなかった。ただ、手が、いつもより丁寧に動いた。
全員が起きてくると、悠真は出汁を配った。
G・クリムゾン。九尾。イタチ。カラス。シビシネア。レグナス。セイリオス。レオン。センディア。ミレイナ。ガルド。
一人ずつ、器に注いだ。
全員が飲んだ。
誰も何も言わなかった。
それが——一番の返事だった。
蟲獣皇帝ゼロの最初の仕事は、就任の翌朝に全員分の出汁を作ることだった。
スキルなし、魔力なし、戦闘力F。
それでも——誰も、文句を言わなかった。
〈第八話 了〉




