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蟲獣皇帝ゼロ  作者: 伝説の男前
第二部 大いなるものの影

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8/20

第八話 時間が、ある

北から帰った翌日、三勢力に報告を送った。


害虫連邦へ。害獣帝国の幹部たちへ。そして人類王国へ。

内容は短かった。


「北の封じが解けた。村落との通信が回復するはず。斥候も通る。ただし——大いなるものが来るまでの猶予であり、恒久的な解決ではない。時間を使って、準備が必要」


カラス・クロウが悠真の書いた文面を読んで、一度目をつぶった。


「……北の何かと、交渉したということですか」


「交渉というより、話しました」


「その違いは」


「交渉は条件を出し合う。俺は出汁の匂いを嗅いでもらっただけです」


カラスはしばらく悠真を見た。計算の目が、珍しく止まっていた。


「……確率論的に、理解不能です」


「俺もです」


それ以上、カラスは何も言わなかった。


報告から三日後、北方の村落との通信が回復した。

消えていた斥候が、一名を除いて戻ってきた。一名は——結局、戻らなかった。それだけが、取り返せないものとして残った。


悠真は一人で、その夜少しだけ、泣いた。

自分が北に来るのがもう少し早ければ、と思った。でも、早く来られたかどうかもわからなかった。

泣いた後で、出汁を取った。誰かに出すわけではなく、ただ取った。匂いが、少し、落ち着かせてくれた。



三者会議の第二回が開かれたのは、北から帰って二週間後だった。


今回は、前回より人数が多かった。

害虫連邦からはG・クリムゾン、センディア、ハニー・ヴェスパ、テルミナ。

害獣帝国からはカラス・クロウ、イタチ・ライア、シビシネア、九尾。

人類王国からはレグナス、セイリオス、レオン、そして——魔導師ミレイナと処刑官ガルドも来ていた。


ミレイナは入るなり厨房の位置を確認し、「またおいでやす」と言いながら悠真の料理を品定めするような目で見た。

ガルドは無表情のまま全員を一度見回し、何かを計算している顔をした。


悠真は料理を作りながら、会議の流れを外から聞いていた。


今回は紛糾しなかった。

北の封じが解けた、という事実が——百年の感情的な壁に、初めて「共通の経験」という楔を打ち込んでいた。

話し合いは具体的な話になった。北方の監視体制をどう分担するか。各勢力の斥候ルートをどう調整するか。「大いなるものが来る」その時に向けて、何ができるか。


レグナスが言った。


「まぁ、正式な同盟というのは、ワシの一存では決められんな。王国議会を通さんといかん。時間がかかる」


「うちも幹部会議がいる」とG・クリムゾン。


「こちらも同様です」とカラス。


三者がそれぞれの事情を述べた後、少しの沈黙があった。


セイリオスが言った。「とりあえず——形の上で、誰かが三者を束ねる立場が必要ではないか。実権は各々が持ったまま、表向きの調停役でいい。でないと話が進まん」


また沈黙。


レグナスが、ゆっくりと悠真の方を見た。


「……神代悠真」


悠真は厨房から顔を出した。


「はい」


「お前、調停役をやれるか」


悠真は少し考えた。


「調停役というのは、具体的に何をするんですか」


「三者の間で話がまとまらん時に、間に入る。あと、北の何かとまた話す必要が出た時に、行ける人間がお前しかおらん」


「それは確かに俺しかできないですが——調停役という名前がついていなくてもできます」


「名前がついておらんと、周りが動きにくい。特にうちの議会がうるさい。『誰の指示で動くのか』と言い出す。そういう時に、肩書きが必要なんや」


レグナスは苦笑した。


「ワシも長年王様やっとるからわかる。形というのは、馬鹿にできん。内実が同じでも、形があるとないとでは、人の動き方が変わる」


G・クリムゾンが言った。


「ワシも、うちの幹部に説明する時に、『G・クリムゾンが認めた調停者』と言えた方が話が早い。センディアみたいなのは、特に」


センディアが「巻き込むな」という顔をした。しかし否定しなかった。


九尾が静かに言った。


「……肩書きより、名前の方がよかろう。調停役では弱い。もっと——重みのある名前を」


沈黙。


カラス・クロウが言った。


「害虫と害獣を束ねる、という意味で——『蟲獣』。そして、三勢力の頂点という意味で、『皇帝』。スキルなし戦闘力Fの転生者には、過分な名かもしれませんが」


「過分やな」とG・クリムゾン。「でも——それがええと思う」


「んだ」とレオン。「なんか、しっくり来るべ」


「またおいでやす」とミレイナが言った。全員が「それは違う」という顔をした。


「……失礼しました。賛成、という意味どす」


ガルドは無言で一度うなずいた。


悠真は厨房の入り口に立ったまま、全員の顔を見た。


害虫の幹部たち。害獣の将軍たち。人類の王と騎士と魔導師。

全員が、悠真を見ていた。


悠真は少し考えた。長く考えた。


それから言った。


「……わかりました。ただし、一つだけ条件があります」


「なんや」


「料理は続けさせてください。皇帝になっても、厨房には入ります」


沈黙。


レグナスが「あははは」と笑った。


「ちっさい条件やな」


「大事なことなので」


「ええわ、それで。まぁ、気楽に行こうや」


G・クリムゾンが「なんでやねん」と言った。今回は、温かい「なんでやねん」だった。


九尾が窓際で、静かに尾を揺らした。


こうして——蟲獣皇帝ゼロが、誕生した。


就任の宴の料理は、悠真が一人で作った。



宴の夜が深くなった頃、悠真は一人で外に出た。


いつもの習慣だった。温泉があれば入りたかったが、迎賓館には浴場しかない。悠真は浴場に入って、湯の中でぼんやり考えた。


(皇帝、か)


スキルなし、魔力なし、戦闘力F。のり塩ポテチが食べたい二十六歳の元無職が、蟲獣皇帝。


おかしな話だと思った。でも——おかしくもなかった。

誰も動かせなかった場所に、少しずつ動いた痕跡がある。その痕跡が積み重なって、形になった。それだけのことだった。


湯の中で目を閉じると、これまでの場面が浮かんだ。

G・クリムゾンの落語を最後まで聞いた夜。センディアにスープを渡した訓練場。シビシネアのスライディング土下座。九尾が苔を受け取った時の遠い目。イタチの全裸土下座と、その後の「食材は俺が調達する」。カラスが「料理も頼めますか」と言った声。レグナスの「ちっさいけど——ええな」。


そして——赤黒い霧の中の、「悪くない匂いじゃ」という声。


(まだ、始まったばかりだ)


大いなるものは、まだ来ていない。

三勢力の統合は、形の上でできただけで、百年の感情的な壁はまだある。

北の先遣は「もう少し見る」と言った。それがいつまでかはわからない。


でも——時間が、ある。


悠真は湯の中で、天井を見上げた。


(運が良ければ——なんとかなる)


口癖を心の中で言ってみた。

最初にこの世界に来た日から、ずっと言い続けてきた言葉。


今は少し——意味が変わっていた。

「運が良ければ」は、何もしなくても良くなる、という意味ではなかった。

やれることをやった上で、それでも足りない部分を、運に預ける。そういう言葉だと、今はわかっていた。


悠真は湯船から出た。


廊下に戻ると、G・クリムゾンが壁に寄りかかって待っていた。


「温泉か」


「浴場でした。温泉があればよかったんですが」


「温泉……ワシも行ったことがあるな。昔」


「どこにあるんですか」


「北の方に、いい温泉があるんやが——ここ最近は行けんかったな。封じがあって」


悠真は少し考えた。


「封じが解けたので、そのうち行けるかもしれないですね」


「……そうやな」


G・クリムゾンは触覚をゆっくり動かした。


「なあ、悠真」


初めて、名前で呼ばれた。

G・クリムゾンは悠真のことを今まで「お前」とか「人間」と呼んでいた。


「はい」


「……皇帝になっても、落語を聞いてくれるか」


悠真は少し笑った。


「もちろんです。喜んで」


「また笑わんやろ」


「でも面白いです。本当に」


G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。

その「なんでやねん」は——最初の夜、牢屋で聞いた困惑の「なんでやねん」とは、全く違っていた。


悠真にはその違いが、今はちゃんとわかった。



宴が終わって、全員が休んだ後。


九尾だけが、まだ起きていた。

迎賓館の縁側で、北の空を見ていた。


悠真は隣に座った。


しばらく、二人で空を見た。


「九尾さん」


「なんじゃ」


「また見えましたか、未来視」


九尾は少し間を置いてから、


「……今夜は見えん。見えない夜もある」


「そうですか」


「ただ——見えなくても、わかることがある」


「何が」


九尾は北の空を見たまま、言った。


「餌につられて参謀になったが——今は、それだけではないな、と思っておる」


悠真は何も言わなかった。


「お前が皇帝になる時、ワシは——少し、誇らしかった。おかしなことじゃ。ワシはお前の何でもない。ただの参謀じゃ」


「参謀は大事です」


「そういう話をしておるのではない」


九尾は尾を一本、ゆっくりと揺らした。


「……ワシは長く生きておる。長く生きると、誰かのことを誇らしいと思う感覚が——なくなっていくものじゃ。自分のことしか残らなくなる。じゃが」


九尾は悠真を見た。細い目で、しかし——真っ直ぐに。


「今夜は、あった。その感覚が」


悠真はしばらく黙っていた。

何かを言うより、黙っている方が正しい気がした。


やがて、悠真は言った。


「俺も——九尾さんが参謀でよかったと思っています。苔を渡した時から、ずっと」


「……ちょろいん」


「今回は?」


「今回は——ワシじゃ」


九尾は静かに笑った。

声を出さない、細い目がさらに細くなるだけの笑い方。それが九尾の笑い方だと、悠真は知っていた。


二人は、しばらく北の空を見ていた。

星が出ていた。この世界の星は、地球のものより少し大きく見える。


悠真は思った。

(のり塩ポテチが食べたい)


皇帝になっても、それは変わらなかった。

それでいいと思った。



翌朝、悠真は早く起きて出汁を取った。


苔と、根菜と、干し肉。

いつもと同じ材料。いつもと同じ手順。


でも——今朝は、少し違う気がした。

何が違うか、言葉にはできなかった。ただ、手が、いつもより丁寧に動いた。


全員が起きてくると、悠真は出汁を配った。

G・クリムゾン。九尾。イタチ。カラス。シビシネア。レグナス。セイリオス。レオン。センディア。ミレイナ。ガルド。

一人ずつ、器に注いだ。


全員が飲んだ。

誰も何も言わなかった。


それが——一番の返事だった。


蟲獣皇帝ゼロの最初の仕事は、就任の翌朝に全員分の出汁を作ることだった。

スキルなし、魔力なし、戦闘力F。

それでも——誰も、文句を言わなかった。



〈第八話 了〉

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