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蟲獣皇帝ゼロ  作者: 伝説の男前
第一部 運が良ければ

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7/20

第七話 赤黒い霧の中で

国境を越えるまでは、普通の旅だった。


シビシネアが「ここまでだ」と言って立ち止まった国境の石標から先、道は続いているが空気が変わった。

音が、薄くなった。

鳥の声が消えた。風の音が消えた。三人の足音だけが、やけに大きく聞こえた。


「……ここからじゃな」


九尾が鼻を上げた。何かを嗅いでいる。しかし表情は変わらなかった。


G・クリムゾンの触覚が、ぴんと張っていた。戦闘態勢ではなく——警戒の態勢。違いは微妙だが、悠真にはわかるようになっていた。


三人は北へ進んだ。


一時間歩いた頃、霧が出始めた。

最初は白い霧だった。朝の低地によくある、普通の霧。しかしそれが少しずつ——色を帯び始めた。

赤。

黒。

二色が混ざった、血と煤の中間のような色の霧が、足元から這い上がってくる。


G・クリムゾンが足を止めた。


「……意識が、少し」


「大丈夫ですか」


「大丈夫や。ただ、さっきまで考えとったことが——なんやったか、少しわからんようになった」


斥候の報告通りだった。記憶と意識の侵食。境界を越えると始まる。


九尾が言った。


「ワシも同じじゃ。幻術で抵抗しておるが——じわじわと来る。お前は」


「俺は——」


悠真は自分の頭を確認した。

おかしくない。

いつも通り、今朝食べた出汁の味を覚えている。G・クリムゾンの落語の脂っこさを覚えている。九尾が二杯目を受け取った時の、静かな顔を覚えている。


「俺は——何も変わっていないみたいです」


九尾と G・クリムゾンが、同時に悠真を見た。


「ユグドラに記録されていないから、か」と九尾が言った。「この霧は、ユグドラを通じて認識を消しておる。お前はその管理外じゃから——効かない」


「……じゃあ、俺だけが前に進める」


「そういうことになる」


G・クリムゾンが言った。


「ワシらはここで待つ。お前一人で行けるか」


悠真は少し考えた。

一人で、赤黒い霧の中へ。スキルなし、魔力なし、戦闘力F。持っているのは、背中の籠と、その中の食材と、調理道具だけ。


(運が良ければ——)


「行きます」


G・クリムゾンは何も言わなかった。ただ触覚を、一度だけ、前に向けた。

九尾は尾を一本、悠真の肩に触れさせた。一瞬だけ。


悠真は霧の中へ、一人で歩いていった。



霧が濃くなるにつれて、景色が変わった。


木が、赤黒い何かに覆われていた。枝から根元まで、びっしりと。生きているのか死んでいるのか判別できない。葉はなかった。ただ、覆われていた。

地面は黒かった。踏むと、わずかに沈んだ。土ではなく、何か生き物のようなものが絨毯のように広がっているのかもしれない。


音は完全に消えていた。

自分の足音も、聞こえなかった。


(怖い)


正直に思った。

怖かった。スキルも魔力も武器もない人間が、記憶と意識を消す霧の中を、一人で歩いている。怖くない方がおかしい。

膝が少し震えていた。


でも——足は前に出た。

なぜかと言われれば、G・クリムゾンの触覚が向いた方向と、九尾の尾が触れた感触が、まだ残っていたからだと思う。


三十分ほど歩いた頃。


霧が晴れた。


正確には、霧の中に「空間」があった。

直径二十メートルほどの、円形の空き地。霧がそこだけ、壁のように周囲を囲んでいる。中は——静かだった。赤黒い覆いもない。地面は普通の土だった。


そしてその中心に、何かがいた。


「何か」としか言えなかった。

大きさは——悠真の腰ほど。形は不定形。赤黒い霧が凝縮したような、輪郭のない塊。しかし、確かに「そこにいる」という存在感があった。

目はない。口もない。しかし——見ている。悠真を、見ている。


悠真は立ち止まった。


何も起きなかった。

記憶が消えない。意識が侵食されない。ただ、見られている。


悠真は籠を下ろした。



火を起こした。


この世界では、特定の石を打ち合わせると火花が出る。三週間で覚えた技術だった。赤黒い静寂の中で、小さな火が生まれた。


鍋を出した。水を張った。食材を入れた。

苔の出汁。根菜。干し肉。香草。

いつもと同じ手順で、煮込みを作り始めた。


「何か」は動かなかった。

ただ、見ていた。


湯気が上がった。出汁の匂いが広がった。静寂の中に、食べ物の匂いが満ちていくのは——奇妙なほど、普通だった。


悠真は煮込みをかき混ぜながら、話しかけた。


「食べますか」


返事はなかった。


「食べなくてもいいです。ただ、俺は腹が減っていたので作りました」


「何か」は動かない。


「俺は神代悠真といいます。スキルなし、戦闘力F、魔力なし。この世界に来て約一ヶ月半です。あなたのことを知りたくて来ました」


沈黙。


「斥候を引き返させましたよね。殺さずに。それは——来るなというメッセージだと思いました。でも、来るなと言うということは、誰かに向けてそれを言っている。ということは、こちらを認識している。認識しているなら——話せるかもしれないと思って」


煮込みが沸いてきた。悠真は火を少し弱めた。


「話したくないならそれでも構いません。ただ、北の何かが全部の村を覆い始めている。このまま広がると、みんなが困る。あなたが何をしたいのかがわからないと——こちらも、どうすればいいかわからない」


悠真は煮込みを器に盛った。

自分の分と——もう一つ。


もう一つの器を、「何か」の前に置いた。


そして自分は少し離れて、自分の器を持って、食べ始めた。


美味かった。

怖くて、膝が震えていて、一人で霧の中を歩いてきたのに——美味かった。出汁の旨味が、体の芯まで沁みた。


しばらく、悠真が食べる音だけがした。


そして。



声が、した。


声、と呼んでいいかわからなかった。音というより、意味が直接、頭の中に届くような——感覚。


「……小さなことから、コツコツと」


悠真は器を持ったまま、動かなかった。


「そちが、ここに来た最初の者じゃ。記憶を消さずに来た者は——初めてじゃ」


「記憶が消えないのは——さっき九尾さんが言っていたユグドラという存在の、管理外だからかもしれません。地球から直接転生してきたので、その記録がないのだと思います」


少し間があった。


「……地球、か。知っておる。あの星は——妙な場所じゃ。法則の外にある」


「あなたは、何者ですか」


また間があった。今度は長かった。


「……名はない。強いて言えば、先遣じゃ。大いなるものが来る前に——土地を確かめに来た」


「大いなるもの、というのは」


「そちらで言う害神軍、と呼ばれるものじゃ。ワシはその一部に過ぎぬ」


悠真は器を地面に置いた。


「斥候を殺さずに引き返させたのは、なぜですか」


「殺す意味がない。土地を調べておるだけじゃ。邪魔をされると困る。じゃから、来るなと伝えた」


「土地を調べて、どうするつもりですか」


「大いなるものが来た時に、この土地が——繁殖に適しておるかを確かめる。適しておれば、ここは害星となる」


害星。

カラスから聞いた言葉だった。惑星を丸ごと「臓器」に変える。海が消化器官になり、大陸が神経節になる。


悠真は少し考えた。


「あなたは——この土地のことを、どう思いますか」


「……どう思う、とは」


「調べているということは、見ているということです。ここに来てどれくらいになりますか」


「……長い。この星の時間で言えば、数千年は見ておる」


「数千年、見て——何か感じましたか」


また、長い沈黙。


「何か」の輪郭が、わずかに揺れた。


「……妙な者どもじゃ、と思った。害虫と害獣と人間が殺し合いをしておるのに——それでも食い、笑い、眠る。絶滅しかけても、また増える。大いなるものが来ても、おそらく同じことをする。そういう者どもじゃ、と」


「それは——悪い意味で言っていますか」


「……わからぬ。ワシには、良い悪いという概念がない。ただ——妙じゃと思った。それだけじゃ」


悠真はもう一つの器——「何か」の前に置いた器——を見た。


「数千年、見ていて——この星の食べ物を、食べたことはありますか」


沈黙。


「……食べる、という概念は、ワシにはない。ただ」


また間があった。


「……今、そちが作ったものの匂いは——わかる。何かを引き出しておる匂いじゃ。外から加えるのではなく、中にあったものを出す。それが——妙じゃ、と思った」


悠真は静かに言った。


「それを、出汁と言います。食材の中にあった旨味を、引き出す料理の仕方です」


「……出汁」


「あなたの中にも——何か、あると思います。数千年この星を見てきた中で、蓄積したものが。それが何なのかは、俺にはわかりません。でも——あるはずです」


「何か」は、しばらく動かなかった。


悠真は続けた。声が、少し震えていた。怖かった。でも、言わなければいけない気がした。


「大いなるものが来て、この星が害星になったら——数千年あなたが見てきたものは、全部なくなります。害虫も害獣も人間も、みんなが食い笑い眠るのも、全部。出汁の匂いも」


沈黙。


「それで——いいと思いますか」



長い、長い沈黙があった。


赤黒い霧が、少しだけ——薄くなった気がした。


「何か」の輪郭が、また揺れた。今度は大きく。まるで、内側から何かが動いているように。


「……小さなことから、コツコツと」


また、同じ言葉だった。

しかし今回は——最初とトーンが違った。最初は「確認」するような声だった。今回は——もっと、内省するような。


「ワシは、ずっとそう思っておった。大いなるものの意思に従い、小さなことからコツコツと——土地を確かめ、封じ、準備をする。それがワシの役目じゃ」


「でも」


「……でも——数千年見ておって。この星の者どもが、小さなことをコツコツと積み上げておるのも——見た。害虫が巣を作り、害獣が道を拓き、人間が火を起こし、料理を作る。コツコツと。死んでも、また次の者がコツコツと続ける」


声が——少し、変わった。


「……ワシのコツコツと、こやつらのコツコツは——同じ言葉じゃ。じゃが、違うものじゃ。なぜ違うのか、ワシにはわからなんだ」


悠真は、静かに言った。


「違いは——たぶん、誰かのためかどうか、だと思います。俺がさっき料理を作ったのは、自分が腹減っていたのもありますが——G・クリムゾンさんと九尾に、帰ってきたら食べさせたいと思ったからでもある。誰かのために作るものは、変わります。匂いが変わる。味が変わる」


沈黙。


「あなたが数千年見てきたものは——誰かのためでしたか」


また、長い間があった。


今度の沈黙は、答えを出すための沈黙ではなかった。

答えを、初めて考えている——そういう沈黙だった。


「……ワシには、答えがない」


「それで、いいと思います」


「なぜ」


「答えがないから、考えられる。俺も、なぜ料理を作るのか、なぜ話を聞くのか、ちゃんとした答えはないです。ただ、やっています。やっているうちに、少しずつわかってくる」


「何か」の輪郭が、また揺れた。


赤黒い霧が——また、少し薄くなった。


「……そちが置いた器の中のものを——ワシは、食べることができぬ。形がないから」


「知っています」


「じゃが——匂いは、わかる。さっきから、ずっとわかる」


「そうですか」


「……悪くない、匂いじゃ」


悠真は、少しだけ笑った。


「ありがとうございます。出汁は、引き出すほどに深くなるので」


長い沈黙があった。


「……大いなるものが来るまでに、まだ時がある。ワシは——もう少し、見る。その間は——封じるのを、止めよう。村に戻れるようにする。斥候も、通す」


「ありがとうございます」


「礼は無用じゃ。ワシが、そうしたいと思っただけじゃ」


悠真は器を片付けながら、聞いた。


「また——来てもいいですか」


沈黙。


「……小さなことから、コツコツと。来るなとは——言わぬ」


それが答えだった。



霧の中を引き返すと、G・クリムゾンと九尾が待っていた。


二人とも、霧の影響で少し眠そうな顔をしていた。しかし——悠真の顔を見て、何かを読み取った。


「……どうやった」とG・クリムゾンが言った。


「話せました」


「話せた、か」


「村の封じが解ける。斥候も通してもらえます。しばらくは——時間がある」


G・クリムゾンは触覚を長い時間、動かしていた。


「……お前、何をしてきたんや」


「料理を作って、話を聞いてきました」


「それだけか」


「それだけです」


G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。

今回の「なんでやねん」は、今まで聞いた中で最も複雑なトーンだった。呆れと、驚きと、何か——安堵のような、感情が混ざっていた。


九尾が静かに言った。


「立っておったな」


「え」


「霧の中で、お前が立っておった。倒れてもいない、消えてもいない。予知の通りじゃ」


悠真は少し考えた。


「口を動かしていましたか、俺」


「ずっと動いておった」


「そうですか。じゃあ予知通りです」


九尾は細い目をさらに細くした。


「……ちょろいん」


「今回は誰のことですか」


「お前と——あの霧の中の何か、両方じゃ」


悠真はそれを聞いて、少し笑った。

「何か」が悠真の料理の匂いを「悪くない」と言った瞬間を、思い出した。


(ちょろいん、か)


もしかしたらそうかもしれない、と悠真は思った。


三人は南へ向けて歩いた。

霧が、少しずつ薄くなっていった。

足元の赤黒い地面が、少しずつ、普通の土に戻っていった。


悠真は歩きながら、今夜の夕食の献立を考えた。

帰ったら、また出汁を取ろう。

今日よりも、もっと深い出汁を。



〈第七話 了〉

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