第六話 北へ
三者会議から十日が経った。
悠真は害獣帝国の迎賓館に留まっていた。帰る場所、というほどの場所でもないが、害虫連邦の物置小屋よりは広かった。イタチ・ライアが「いろいろと調達しやすい」という理由で、ここを拠点にすることを勧めた。無口な世話焼きの、これが精一杯の気遣いだった。
各勢力からの北方調査の報告が、少しずつ届き始めていた。
害虫連邦:北の森の境界付近で「音が消える領域」を確認。斥候が二名、境界の手前で引き返してきたが、記憶の一部が欠落していた。
害獣帝国:北方の村落との通信が依然途絶。遠方から観測したところ、村を中心に「赤黒いもや」が広がっており、生物の気配がない。
人類王国:北の国境を越えた騎士団が、二日後に全員引き返してきた。「進めない」とだけ報告して、それ以上を語れなかった。語ろうとすると、言葉が出てこなくなるらしい。
カラス・クロウがこれらを整理して悠真に見せた。
「音が消える。記憶が欠落する。言葉が出なくなる。これは——物理的な障壁ではない」
「情報を消している、ということですか」
「情報、あるいは認識そのものを。見ることができない、記憶できない、語ることができない——段階的に、認識を封鎖している」
悠真は少し考えた。
「そういう能力を持つ存在が、北にいる」
「あるいは、そういう能力を持つ何かが、北から来ている」
カラスは地図を広げた。各勢力の報告を重ねた地図。北方に、赤い印がいくつも打たれている。
「この領域が、一ヶ月前と比べて——ここまで広がっています」
赤い印の範囲が、三勢力の国境を越えて広がっていた。
悠真は地図を見た。広がり方が、均等だった。一点から同心円状に。
「中心はどこですか」
「北の森の、ここ」
カラスが指した場所に、一つの印があった。
「かつて、変異派が封印されたと言われる場所です」
悠真とカラスは、しばらく地図を見ていた。
その夜、斥候が帰ってきた。
◇
三勢力合同の斥候隊——カラスの提案で三日前から組まれていた——が、予定より一日早く戻ってきた。
五名のうち、四名だった。
迎賓館の広間に運ばれてきた四名は、全員が意識を保っていた。しかし——表情がなかった。目が開いているが、焦点が合っていない。声をかけると反応するが、返答に時間がかかる。
ディア・ルミナが駆け寄った。害獣帝国の治癒巫女。シカの外見を持つ、慈愛の気配を纏った女性だった。
「大したことあらへん——と言いたいところやけど」
ディアは四名を順番に診た。
「身体には傷がない。魔力も枯渇していない。ただ——記憶の中に、何かで塗りつぶされた部分がある。北で見たもの、感じたもの、すべてが……消されとる」
「消された」
「上書きやなくて、消去。空白になっとる。こういう状態、初めて見た」
G・クリムゾンが腕を組んだ。六本全部。
「一名は、どうした」
四名のうち最も意識がはっきりしていた害獣兵——タヌキのラクーン・ルカだった——が、ゆっくりと口を開いた。
「……アカンかった。一名、向こうに残してきてしまった」
「戦闘か」
「違う。境界を越えた瞬間に——消えた。音も、気配も、何もなく。ただ、おらんようになった」
沈黙が落ちた。
ラクーン・ルカは続けた。声が、普段の陽気さをすべて失っていた。
「境界の手前までは覚えとる。越えた瞬間のことは……ぼんやりしとる。気づいたら、ここに向かって走っとった。なんで走っとるのか、自分でもわからんかった」
九尾が静かに言った。
「記憶だけではなく、意思も消しておる」
「意思を」
「境界を越えようとする意思。北へ向かう意思。それ自体を消して、引き返させた。おそらく——殺すつもりはない。ただ、来るなと言っておる」
誰も言葉を返さなかった。
悠真は、四名に温かいスープを用意した。
誰も「こんな時に料理など」とは言わなかった。
◇
深夜、悠真は一人で外に出た。
迎賓館の庭から、北の空が見えた。
今は普通の、星の出た夜空だった。しかし——ずっと見ていると、地平線のあたりが、わずかに赤みを帯びているような気がした。
(殺すつもりはない、か)
九尾の言葉を反芻した。来るなと言っている。意思を消して引き返させる。それは——コミュニケーションの一形態ではないか。
悠真は、自分がこの世界でやってきたことを思い返した。
センディアにスープを渡した。シビシネアに煮込みを作った。九尾に苔を分けた。イタチに料理を約束した。レグナスと三者の食材を合わせた鍋を食べた。
すべての入り口が、「食べること」だった。
(じゃあ、北にいる何かにも——)
馬鹿げた考えだと自分でもわかった。
斥候の意思を消して、一名を消滅させた存在に、料理を持っていくのか。
「……考えておるな」
九尾がいつの間にか隣にいた。
「わかりますか」
「お前の考えることはだいたい顔に出る。ぼんやりしておっても、それくらいはわかる」
九尾は北の空を見た。
「行くつもりか」
「……考えています」
「意思を消されるぞ。記憶も消されるかもしれん」
「それはそうなんですが——一つ、気になっていることがあって」
「なんじゃ」
「斥候が記憶と意思を消される、とカラスさんが言っていました。あの霧は、ユグドラを通じて認識を消す、と九尾さんも言っていた。でも——俺はユグドラの管理外です。ステータス画面にも記録されなかった。だとすれば……霧の影響を受けないかもしれない」
九尾は少し間を置いた。
「……なるほど。筋は通っておる。ただ、確証はない」
「確証はないです。でも——話しかけなければ、何もわからないので」
九尾はしばらく沈黙した。
北の空を見たまま、動かなかった。
やがて、
「……今朝、また見えた」
「未来視ですか」
「ぼんやりとだ。お前が、北の赤黒い霧の中に立っておった。ただ——倒れておるわけでも、消えておるわけでもなかった。立っておった」
「立っていた」
「それだけじゃ。何をしておるかは見えんかった。何かに向かって、口を動かしておるようだったが」
九尾は尾を一本揺らした。
「ワシの未来視は当てにならん。ぼんやりしておる。でも——外れたことも、あまりない
悠真は北の空を見た。
「……同行しますか」
「当たり前じゃ。最強主義と言ったじゃろ。お前が行くなら、ワシも行く」
「G・クリムゾンさんにも話します」
「あいつも来ると言うじゃろ。止めても来る」
「そうですね」
二人はしばらく、北の空を見ていた。
悠真は言った。
「出発前に、また料理を作ります。腹が減った状態で行くのは嫌なので」
「……ちょろいん」
「今回は誰のことですか」
「お前じゃ。いつも食い気が先に来る」
「大事なことなので」
九尾は何も言わなかった。
しかし、九本の尾が、静かに、穏やかに揺れていた。
◇
翌朝、G・クリムゾンに話した。
「北へ行く」
「……やっぱりか」
「止めますか」
「止めへん。ワシも行く」
九尾の予言通りだった。
イタチ・ライアが朝食を持ってきた時に話すと、無言で食材を追加で調達してきた。
カラス・クロウは「確率論的に成功率は低い」と言いながら、北方の詳細な地図を用意した。
シビシネアは「俺も行く」と言い、G・クリムゾンが「人数が多すぎると目立つ」と止め、シビシネアが「ではせめて国境まで」と引いた。
誰も「やめろ」とは言わなかった。
それぞれが、それぞれのやり方で、準備を手伝った。
悠真は出発前に、朝食を作った。
苔の出汁に、害獣帝国の根菜、害虫連邦から持ってきた香草、イタチが追加で調達した干し肉。全部入れた。
今まで作った中で、一番の出汁だった。
全員で食べた。
G・クリムゾンが「なんでやねん」と言った——今回は、美味すぎて言葉が追いつかない「なんでやねん」だった。
九尾が静かに二杯目を受け取った。
イタチが「……もう一杯」とぼそりと言った。
悠真は全員の器に出汁を注ぎながら、思った。
(運が良ければ——帰ってきたら、また作ろう)
北へ向かう一行が、迎賓館を出たのは、朝の光が地平線に差し始めた頃だった。
〈第六話 了〉




