第十話 師匠
それは、予告なしに来た。
三勢力の包囲阻止作戦が動き出して五日目の朝。北方の害虫連邦国境付近に、単体の気配が現れた。
前衛部隊ではなかった。
たった一体。しかし——斥候が感知した瞬間に全員が動けなくなった。恐怖ではなく、圧力。重力のように、ただそこにある圧力。
カラス・クロウの伝令が、夜明け前に悠真の部屋に飛び込んできた。
「蟑神カルディア——害神軍四天害の一柱が、単騎で国境に現れました」
悠真は跳び起きた。
「G・クリムゾンさんは」
「すでに現地に向かっています。止める間がありませんでした」
悠真は外に飛び出した。
◇
国境の石標から北へ一キロ。
そこに、カルディアはいた。
大きさは、G・クリムゾンの三倍はあった。
形はゴキブリに近い——しかし、ゴキブリのどこかに残っている「虫らしさ」が、カルディアには欠けていた。外骨格は黒を超えて、光を吸い込む色だった。複眼は赤く、大きく、何も映さない鏡のように光っている。
八本の脚が、地面に触れるたびに、そこだけ枯れていった。
G・クリムゾンはカルディアの前に、一人で立っていた。
悠真が駆けつけた時、九尾とシビシネアもすでに来ていた。しかし誰も前に出なかった。出られなかった。カルディアの圧力が、半径五十メートルを支配していた。
G・クリムゾンだけが、その中心に立っていた。
「……久しいな、G・クリムゾン」
声は、低かった。威圧ではなく——ただ重かった。
「そうやな、カルディア」
G・クリムゾンの声は、いつもより静かだった。怖じていない。しかし——いつもの軽さもなかった。
「お前が蟲獣皇帝の側についたと聞いた。変異派の生き残りが、人間の皇帝の参謀になったと」
「調停者の側についた、が正しいな。皇帝の参謀というより、友人に近い。まぁ、ワシが言う友人がどんなものかは、お前もわかるやろ」
「……友人。お前は昔から、そういう言い方をする。師匠も、そうだった」
G・クリムゾンの触覚が、ぴくりと動いた。
「師匠、か。その言葉をお前が使うとは思わんかった」
「使ってはならないか」
「……いや。ただ——懐かしい」
悠真は息を殺して聞いていた。
九尾が悠真の隣に寄ってきて、耳元で囁いた。
「カルディアとG・クリムゾンは、元は同じ存在じゃ。害神軍の変異の際に分岐した。カルディアは侵略派を選び、G・クリムゾンは変異派に残った」
同じ存在から分かれた二つ。一方は師匠と呼ばれる落語家になり、一方は四天害の一柱・蟑神になった。
「お前に聞きたいことがある」
「なんや」
「落語を——まだ、やっているか」
G・クリムゾンは少し間を置いた。
「やっとる。誰も笑わんけどな。一人だけ、最後まで聞いてくれる奴がおる」
「……そうか」
カルディアの声が、わずかに変わった。
圧力は変わらない。しかし——声の奥に、何かが混じった。
「ワシは——落語をやめた。師匠の名を捨てた。宇宙を統一するためには、語ることより、支配することの方が重要だと思った。お前も、そうすべきだと思っていた」
「でもワシは続けた」
「そうだ。なぜ続けた」
G・クリムゾンは答えた。即座に。
「聞いてくれる奴がいたから、や。たった一人でも——最後まで聞いてくれたら、続けられる。落語はそういうもんや。一人のために語れる」
「……一人のために」
カルディアの複眼が、G・クリムゾンから——少しだけ、悠真の方に向いた。
悠真は視線を受けた。身動きできなかった。しかし——消されなかった。
「あの人間か。最後まで聞く、というのは」
「そうや。笑わんけどな。でも面白いと言う。不思議な奴や」
「……スキルなし、戦闘力F。ユグドラの管理外。北の先遣と話した、という話も聞いた」
「よう知っとるな」
「四天害として、情報は集める。ただ——」
カルディアは少し止まった。
「そのような者が、なぜ先遣と話せたのか——ワシには理解できなかった。理解できないものは、排除するのが筋だ。しかし」
また止まった。
「お前が側についている、と聞いて——少し、待った。お前が認めるものを、ワシは簡単には排除できない。それだけは、変わっていない」
G・クリムゾンの触覚が、ゆっくり動いた。
「カルディア。お前は今——宇宙を統一したいと思っとるか」
「思っている。それがワシの目的だ」
「なぜ統一したい」
「……なぜ、とは」
「理由を聞いとる。宇宙を統一して、どうする。何が残る」
カルディアは答えなかった。
答えるまでに、長い時間がかかった。
「……秩序が、残る」
「秩序のために、今あるものを全部なくす。それで——満足か」
沈黙。
「……満足、という概念は」
「お前にはないか。ワシにはある。落語を一席打って、最後まで聞いてもらえた時——満足する。それだけでええと思っとる」
G・クリムゾンは六本腕を、ゆっくりと構えた。
落語の体勢、ではなかった。
戦闘の体勢、でもなかった。
ただ——立っていた。真っ直ぐに。
「カルディア。一つだけ頼みがある」
「なんだ」
「今日は——引いてくれ。大いなるものが来る前に、まだやることがある。お前とワシの話も、まだ終わっとらんし——あいつの話も、まだ聞かせたい」
「……あいつ、というのは」
「悠真や。あいつに一席聞かせたい。お前にも聞かせたい。それだけや」
長い、長い沈黙があった。
カルディアの八本の脚が、地面に触れるたびに枯れていく。その音だけが聞こえた。
「……落語を、ワシに聞かせる気か」
「いつか、な。今日は無理でも——いつか。まだ、時がある」
カルディアはしばらく動かなかった。
赤い複眼が、G・クリムゾンを見た。G・クリムゾンを見て——その奥の、悠真を見た。
そして。
「……今日は、引く。ただし——次は引かない。それだけは覚えておけ」
「わかっとる。せやから——早めに一席打ちに行く」
カルディアは踵を返した。
八本の脚が、北へ向けて動いた。
行くたびに、地面が枯れていく。しかし——歩き去る背中は、どこか、悠真には「疲れた者の背中」に見えた。
カルディアの姿が霧の中に消えた後、G・クリムゾンの六本腕が、ゆっくりと下がった。
◇
悠真が駆け寄ると、G・クリムゾンはその場に座り込んでいた。
怪我はなかった。しかし——体が、小さく震えていた。
「G・クリムゾンさん」
「……ちょっと待て。少しだけ」
悠真は黙って隣に座った。
北の空。赤い霧の向こうに、カルディアが消えた方向。
しばらくして、G・クリムゾンが言った。
「……あいつは、ワシやったかもしれん存在や。ワシは、あいつやったかもしれん」
「そうですね」
「ワシが侵略派を選んでいたら、あいつがワシやったかもしれん。ワシが変異派に残ったから——こうなった」
「G・クリムゾンさんは、なぜ変異派に残ったんですか」
G・クリムゾンは少し考えた。
「……わからん。その時は、残りたかった。ただそれだけや。理由はなかった。あいつは行きたかった。理由はなかった。ただ——その違いが、百年経って、こんなにも大きくなった
悠真は黙っていた。
「あいつはもう——師匠とは呼ばれとらん。カルディアになった。落語もやめた。宇宙統一の野望を持って、暴走気味になっとる。でも——」
G・クリムゾンは北の空を見た。
「今日——あいつは、引いた。落語を聞きたかったから、とは言わんかった。でも——聞いてほしかったんやと、ワシには思えた
「俺もそう思います」
「なんでや」
「G・クリムゾンさんが一席打てば、誰かが最後まで聞く——それを、カルディアさんはまだ覚えていると思うので」
G・クリムゾンは長い間、何も言わなかった。
触覚が、ゆっくりと動いていた。
「……悠真」
「はい」
「今日の一席——お前に聞かせたい。今夜でもいいか」
「もちろんです。喜んで」
「長い。脂っこい。オチが何回あるかはわからん」
「最後まで聞きます」
「笑わんやろ」
「でも面白いです。本当に」
G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。
今回の「なんでやねん」は——少しだけ、湿っていた。
◇
その夜、G・クリムゾンは一席打った。
場所は迎賓館の広間。
聴衆は——悠真だけだった。
話は長かった。脂っこかった。オチが五回あった。
最初の三回は、悠真には意味がよくわからなかった。四回目でなんとなく見えてきた。五回目で——ああ、そういうことか、と思った。
語り終えたG・クリムゾンは、六本腕を下ろして、悠真を見た。
「どうやった
「面白かったです。五回目のオチで——ああ、と思いました」
「なにが『ああ』やったんや」
「カルディアさんの話でしたよね、今日の一席」
G・クリムゾンは少し止まった。
「……気づいとったか」
「気づきました。G・クリムゾンさんが、カルディアさんのことをどう思っているか——落語にしていた。だから面白かったです」
G・クリムゾンはしばらく黙った。
やがて、
「……笑わんかったな」
「笑えませんでした。でも——よかったです。聞けて」
「ワシも——よかった。語れて」
二人はしばらく、広間に座っていた。
外では、北の空が赤い。
でも——広間の中は、静かで、温かかった。
悠真は言った。
「G・クリムゾンさん。いつか——カルディアさんに、一席打ってください。俺も一緒に聞きます
G・クリムゾンは長い間、触覚を動かしていた。
「……いつか、な。大いなるものが来て、全部終わった後——温泉で打とうかな」
「温泉落語ですか」
「ええと思わんか。湯に浸かりながら落語を聞く。カルディアも——湯に浸かれるかどうかはわからんが、まあ、考えてみる
悠真は笑った。声を出して笑った。
G・クリムゾンが「なんでやねん」と言った。しかし触覚が、はずんでいた。
◇
深夜、九尾が悠真の部屋に来た。
「G・クリムゾンの一席を聞いたか」
「はい」
「どうだった」
「カルディアさんの話でした。笑えなかったけど——よかったです
九尾は少し目を細めた。
「……今日、カルディアが引いた理由——わかるか」
「G・クリムゾンさんの言葉が届いたんだと思います」
「それだけか」
悠真は少し考えた。
「……カルディアさんは、落語を聞きたかったのかもしれないです。誰かに最後まで聞いてもらう、という経験を——ずっと、していなかったから
九尾は窓の外を見た。
「……今日、また見えた」
「未来視ですか」
「ぼんやりとだが——カルディアが、湯の中にいた。温泉のような場所に。その表情が——ワシには読めなかった。害神軍の四天害の表情など、ワシには読めん。ただ」
九尾は尾を一本揺らした。
「動いていない、とは言えない顔だった。何かが——あった
「温泉落語、という話をG・クリムゾンさんとしていました」
「……そうか。ちょろいん
「今回は誰ですか
「カルディアかもしれん。まだわからんが
九尾は立ち上がった。
「寝ろ。明日も続く
「九尾さん
「なんじゃ
「今日——G・クリムゾンさんが一人でカルディアの前に立った時。怖かったです、俺
九尾は扉の前で止まった。
「……ワシもじゃ
「え
「ワシも——怖かった。長く生きておると、怖いという感覚が薄れる。じゃが今日は——あった。それだけ、あの者が大事ということじゃ
九尾はそれだけ言って、出ていった。
悠真は部屋に一人残った。
窓の外、北の空はまだ赤い。
でも——今夜の一席が、頭の中に残っていた。
長くて、脂っこくて、オチが五回あって、笑えなかった。
でも——よかった。
悠真は目を閉じた。
温泉落語のことを考えながら、眠った。
カルディアが湯に浸かれるかどうかは、まだわからない。
でも——考えてみる価値は、ある。
〈第十話 了〉




