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蟲獣皇帝ゼロ  作者: 伝説の男前
第二部 大いなるものの影

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第十話 師匠

それは、予告なしに来た。


三勢力の包囲阻止作戦が動き出して五日目の朝。北方の害虫連邦国境付近に、単体の気配が現れた。

前衛部隊ではなかった。

たった一体。しかし——斥候が感知した瞬間に全員が動けなくなった。恐怖ではなく、圧力。重力のように、ただそこにある圧力。


カラス・クロウの伝令が、夜明け前に悠真の部屋に飛び込んできた。


「蟑神カルディア——害神軍四天害の一柱が、単騎で国境に現れました」


悠真は跳び起きた。


「G・クリムゾンさんは」


「すでに現地に向かっています。止める間がありませんでした」


悠真は外に飛び出した。



国境の石標から北へ一キロ。

そこに、カルディアはいた。


大きさは、G・クリムゾンの三倍はあった。

形はゴキブリに近い——しかし、ゴキブリのどこかに残っている「虫らしさ」が、カルディアには欠けていた。外骨格は黒を超えて、光を吸い込む色だった。複眼は赤く、大きく、何も映さない鏡のように光っている。

八本の脚が、地面に触れるたびに、そこだけ枯れていった。


G・クリムゾンはカルディアの前に、一人で立っていた。


悠真が駆けつけた時、九尾とシビシネアもすでに来ていた。しかし誰も前に出なかった。出られなかった。カルディアの圧力が、半径五十メートルを支配していた。


G・クリムゾンだけが、その中心に立っていた。


「……久しいな、G・クリムゾン」


声は、低かった。威圧ではなく——ただ重かった。


「そうやな、カルディア」


G・クリムゾンの声は、いつもより静かだった。怖じていない。しかし——いつもの軽さもなかった。


「お前が蟲獣皇帝の側についたと聞いた。変異派の生き残りが、人間の皇帝の参謀になったと」


「調停者の側についた、が正しいな。皇帝の参謀というより、友人に近い。まぁ、ワシが言う友人がどんなものかは、お前もわかるやろ」


「……友人。お前は昔から、そういう言い方をする。師匠も、そうだった」


G・クリムゾンの触覚が、ぴくりと動いた。


「師匠、か。その言葉をお前が使うとは思わんかった」


「使ってはならないか」


「……いや。ただ——懐かしい」


悠真は息を殺して聞いていた。

九尾が悠真の隣に寄ってきて、耳元で囁いた。


「カルディアとG・クリムゾンは、元は同じ存在じゃ。害神軍の変異の際に分岐した。カルディアは侵略派を選び、G・クリムゾンは変異派に残った」


同じ存在から分かれた二つ。一方は師匠と呼ばれる落語家になり、一方は四天害の一柱・蟑神になった。


「お前に聞きたいことがある」


「なんや」


「落語を——まだ、やっているか」


G・クリムゾンは少し間を置いた。


「やっとる。誰も笑わんけどな。一人だけ、最後まで聞いてくれる奴がおる」


「……そうか」


カルディアの声が、わずかに変わった。

圧力は変わらない。しかし——声の奥に、何かが混じった。


「ワシは——落語をやめた。師匠の名を捨てた。宇宙を統一するためには、語ることより、支配することの方が重要だと思った。お前も、そうすべきだと思っていた」


「でもワシは続けた」


「そうだ。なぜ続けた」


G・クリムゾンは答えた。即座に。


「聞いてくれる奴がいたから、や。たった一人でも——最後まで聞いてくれたら、続けられる。落語はそういうもんや。一人のために語れる」


「……一人のために」


カルディアの複眼が、G・クリムゾンから——少しだけ、悠真の方に向いた。

悠真は視線を受けた。身動きできなかった。しかし——消されなかった。


「あの人間か。最後まで聞く、というのは」


「そうや。笑わんけどな。でも面白いと言う。不思議な奴や」


「……スキルなし、戦闘力F。ユグドラの管理外。北の先遣と話した、という話も聞いた」


「よう知っとるな」


「四天害として、情報は集める。ただ——」


カルディアは少し止まった。


「そのような者が、なぜ先遣と話せたのか——ワシには理解できなかった。理解できないものは、排除するのが筋だ。しかし」


また止まった。


「お前が側についている、と聞いて——少し、待った。お前が認めるものを、ワシは簡単には排除できない。それだけは、変わっていない」


G・クリムゾンの触覚が、ゆっくり動いた。


「カルディア。お前は今——宇宙を統一したいと思っとるか」


「思っている。それがワシの目的だ」


「なぜ統一したい」


「……なぜ、とは」


「理由を聞いとる。宇宙を統一して、どうする。何が残る」


カルディアは答えなかった。

答えるまでに、長い時間がかかった。


「……秩序が、残る」


「秩序のために、今あるものを全部なくす。それで——満足か」


沈黙。


「……満足、という概念は」


「お前にはないか。ワシにはある。落語を一席打って、最後まで聞いてもらえた時——満足する。それだけでええと思っとる」


G・クリムゾンは六本腕を、ゆっくりと構えた。

落語の体勢、ではなかった。

戦闘の体勢、でもなかった。

ただ——立っていた。真っ直ぐに。


「カルディア。一つだけ頼みがある」


「なんだ」


「今日は——引いてくれ。大いなるものが来る前に、まだやることがある。お前とワシの話も、まだ終わっとらんし——あいつの話も、まだ聞かせたい」


「……あいつ、というのは」


「悠真や。あいつに一席聞かせたい。お前にも聞かせたい。それだけや」


長い、長い沈黙があった。


カルディアの八本の脚が、地面に触れるたびに枯れていく。その音だけが聞こえた。


「……落語を、ワシに聞かせる気か」


「いつか、な。今日は無理でも——いつか。まだ、時がある」


カルディアはしばらく動かなかった。

赤い複眼が、G・クリムゾンを見た。G・クリムゾンを見て——その奥の、悠真を見た。


そして。


「……今日は、引く。ただし——次は引かない。それだけは覚えておけ」


「わかっとる。せやから——早めに一席打ちに行く」


カルディアは踵を返した。

八本の脚が、北へ向けて動いた。

行くたびに、地面が枯れていく。しかし——歩き去る背中は、どこか、悠真には「疲れた者の背中」に見えた。


カルディアの姿が霧の中に消えた後、G・クリムゾンの六本腕が、ゆっくりと下がった。



悠真が駆け寄ると、G・クリムゾンはその場に座り込んでいた。

怪我はなかった。しかし——体が、小さく震えていた。


「G・クリムゾンさん」


「……ちょっと待て。少しだけ」


悠真は黙って隣に座った。

北の空。赤い霧の向こうに、カルディアが消えた方向。


しばらくして、G・クリムゾンが言った。


「……あいつは、ワシやったかもしれん存在や。ワシは、あいつやったかもしれん」


「そうですね」


「ワシが侵略派を選んでいたら、あいつがワシやったかもしれん。ワシが変異派に残ったから——こうなった」


「G・クリムゾンさんは、なぜ変異派に残ったんですか」


G・クリムゾンは少し考えた。


「……わからん。その時は、残りたかった。ただそれだけや。理由はなかった。あいつは行きたかった。理由はなかった。ただ——その違いが、百年経って、こんなにも大きくなった


悠真は黙っていた。


「あいつはもう——師匠とは呼ばれとらん。カルディアになった。落語もやめた。宇宙統一の野望を持って、暴走気味になっとる。でも——」


G・クリムゾンは北の空を見た。


「今日——あいつは、引いた。落語を聞きたかったから、とは言わんかった。でも——聞いてほしかったんやと、ワシには思えた


「俺もそう思います」


「なんでや」


「G・クリムゾンさんが一席打てば、誰かが最後まで聞く——それを、カルディアさんはまだ覚えていると思うので」


G・クリムゾンは長い間、何も言わなかった。

触覚が、ゆっくりと動いていた。


「……悠真」


「はい」


「今日の一席——お前に聞かせたい。今夜でもいいか」


「もちろんです。喜んで」


「長い。脂っこい。オチが何回あるかはわからん」


「最後まで聞きます」


「笑わんやろ」


「でも面白いです。本当に」


G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。

今回の「なんでやねん」は——少しだけ、湿っていた。



その夜、G・クリムゾンは一席打った。


場所は迎賓館の広間。

聴衆は——悠真だけだった。


話は長かった。脂っこかった。オチが五回あった。

最初の三回は、悠真には意味がよくわからなかった。四回目でなんとなく見えてきた。五回目で——ああ、そういうことか、と思った。


語り終えたG・クリムゾンは、六本腕を下ろして、悠真を見た。


「どうやった


「面白かったです。五回目のオチで——ああ、と思いました」


「なにが『ああ』やったんや」


「カルディアさんの話でしたよね、今日の一席」


G・クリムゾンは少し止まった。


「……気づいとったか」


「気づきました。G・クリムゾンさんが、カルディアさんのことをどう思っているか——落語にしていた。だから面白かったです」


G・クリムゾンはしばらく黙った。

やがて、


「……笑わんかったな」


「笑えませんでした。でも——よかったです。聞けて」


「ワシも——よかった。語れて」


二人はしばらく、広間に座っていた。

外では、北の空が赤い。

でも——広間の中は、静かで、温かかった。


悠真は言った。


「G・クリムゾンさん。いつか——カルディアさんに、一席打ってください。俺も一緒に聞きます


G・クリムゾンは長い間、触覚を動かしていた。


「……いつか、な。大いなるものが来て、全部終わった後——温泉で打とうかな」


「温泉落語ですか」


「ええと思わんか。湯に浸かりながら落語を聞く。カルディアも——湯に浸かれるかどうかはわからんが、まあ、考えてみる


悠真は笑った。声を出して笑った。

G・クリムゾンが「なんでやねん」と言った。しかし触覚が、はずんでいた。



深夜、九尾が悠真の部屋に来た。


「G・クリムゾンの一席を聞いたか」


「はい」


「どうだった」


「カルディアさんの話でした。笑えなかったけど——よかったです


九尾は少し目を細めた。


「……今日、カルディアが引いた理由——わかるか」


「G・クリムゾンさんの言葉が届いたんだと思います」


「それだけか」


悠真は少し考えた。


「……カルディアさんは、落語を聞きたかったのかもしれないです。誰かに最後まで聞いてもらう、という経験を——ずっと、していなかったから


九尾は窓の外を見た。


「……今日、また見えた」


「未来視ですか」


「ぼんやりとだが——カルディアが、湯の中にいた。温泉のような場所に。その表情が——ワシには読めなかった。害神軍の四天害の表情など、ワシには読めん。ただ」


九尾は尾を一本揺らした。


「動いていない、とは言えない顔だった。何かが——あった


「温泉落語、という話をG・クリムゾンさんとしていました」


「……そうか。ちょろいん


「今回は誰ですか


「カルディアかもしれん。まだわからんが


九尾は立ち上がった。


「寝ろ。明日も続く


「九尾さん


「なんじゃ


「今日——G・クリムゾンさんが一人でカルディアの前に立った時。怖かったです、俺


九尾は扉の前で止まった。


「……ワシもじゃ


「え


「ワシも——怖かった。長く生きておると、怖いという感覚が薄れる。じゃが今日は——あった。それだけ、あの者が大事ということじゃ


九尾はそれだけ言って、出ていった。


悠真は部屋に一人残った。

窓の外、北の空はまだ赤い。


でも——今夜の一席が、頭の中に残っていた。

長くて、脂っこくて、オチが五回あって、笑えなかった。

でも——よかった。


悠真は目を閉じた。

温泉落語のことを考えながら、眠った。

カルディアが湯に浸かれるかどうかは、まだわからない。

でも——考えてみる価値は、ある。



〈第十話 了〉

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