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蟲獣皇帝ゼロ  作者: 伝説の男前
第二部 大いなるものの影

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第十一話 九尾の最期

異変に気づいたのは、悠真だった。


朝食の出汁を取り終えて、九尾の分を届けに行くと——いつも座っている窓際の縁側に、九尾がいなかった。

珍しいことだった。九尾は朝、必ずそこにいた。北の空を見ながら、悠真の持ってくる出汁を待っていた。それが習慣だった。


悠真は迎賓館の中を探した。部屋にいない。浴場にいない。庭にもいない。


裏門の番兵に聞くと——夜明け前に、一人で出ていったと言った。


悠真は走った。



九尾は北の森の入り口にいた。


国境の石標の少し手前。霧がうっすらと漂い始める、その境界に。

九本の尾を広げて、北の空を見上げていた。


悠真が駆けつけると、九尾は振り返らずに言った。


「……来るのが早いな」


「探しました。どこにいるかと思って」


「ここじゃ。見ての通り」


悠真は九尾の隣に立った。

北の空が、今朝は特に赤かった。地平線の向こうから、赤黒い色が滲み出るように広がっている。


「九尾さん。昨日、何か見えましたか」


九尾は少し間を置いた。


「……見えた。はっきりと、今まで一番はっきりと」


「何が」


九尾は答えなかった。

代わりに、悠真の方をゆっくりと向いた。


その顔を見て——悠真は、何かを理解した。言葉にする前に、体が理解した。


「……九尾さん」


「お前には正直に言う。今日——大きな戦いが来る。前衛部隊の本格侵攻じゃ。カルディアが引いた分、向こうも本腰を入れてきた」


「カラスからも報告が——」


「報告より、ワシの目の方が早い。今朝の未来視で見えた。今日の戦いは——三勢力が束になっても、押し切れない規模じゃ」


悠真は息を吐いた。


「じゃあ、どうするんですか」


「ワシが——行く」


静かな言葉だった。

しかし悠真の腹に、重く落ちた。


「九尾さんが、一人で」


「一人でなければ意味がない。ワシの幻術は——相手の数が多いほど、広く効く。前衛部隊全体を幻術の中に入れれば、今日一日は止められる。お前たちが態勢を整える時間ができる」


「でも——それは」


「わかっとる」


九尾は静かに言った。


「九尾の幻術は、使う数に比例して消耗する。今日の規模なら——全力以上を使わなければ止められん。それだけの力を使えば——ワシは、戻れない」


悠真は、九尾を見た。


「戻れない、というのは」


「死ぬ、ということじゃ。お前には正直に言う」


悠真は——何も言えなかった。


止めようとした。言葉が、出なかった。

九尾の目が——覚悟を決めた目だった。長く生きた者の、最後の目だった。


「泣くな。まだ死んでおらん」


「……泣いていません」


「目が赤い」


「朝が早かったので」


「嘘をつけ」


九尾は小さく、声を出さずに笑った。


それから、真剣な目で悠真を見た。


「一つだけ、頼みがある」


「なんですか」


「ワシの孫が——一人いる。六尾という。まだ若い。ワシの半分も生きておらん。幻術も未来視も、まだ不安定じゃ」


「六尾さん」


「ワシが死んだ後——あいつを、お前の参謀にしてやってくれ。ワシの代わりにはならん。ぜんぜんならん。不器用で、正直すぎて、嘘がつけん。ワシとは似ても似つかん」


九尾は少し笑った。


「じゃが——そういう者も、必要じゃ。ワシのような老獪な者ばかりでは、お前の周りが息苦しくなる」


「九尾さんの周りは息苦しくないです」


「ちょろいんと言われ続けた一年じゃったろ」


「それは愛情表現だと思っていました」


「……半分は、そうじゃ」


九尾は悠真から視線を外して、北の空を見た。


「悠真。ワシはお前の参謀になって——よかった。餌で釣られたが、それだけではなかった。最初にお前が北の霧の中で立っておった映像を見た時から——もう決めておった。餌は後付けじゃ」


「……後付けだったんですか」


「ちょろいんじゃろ、ワシが」


九本の尾が、一本ずつ、ゆっくりと動いた。

風もないのに、尾が揺れた。まるで、別れを告げるように。


「……行ってくる。止めるな」


悠真は——止めなかった。

止めたかった。手を伸ばしかけた。でも——九尾の目が、止めることを許さなかった。


九尾は北へ向けて歩いた。

銀白色の毛並みが、朝の光の中で、一瞬だけ輝いた。

九本の尾が、霧の中へ消えた。


悠真は、その場で動けなかった。



G・クリムゾンが来たのは、しばらくしてからだった。


悠真がまだ境界の手前に立っているのを見て、触覚をぴんと立てた。


「……九尾が行ったか」


「はい」


「止めなかったのか」


「……止められませんでした」


G・クリムゾンは悠真の隣に来た。

二人で、霧の向こうを見た。

何も見えない。しかし——何かが、あの奥で動いている気配があった。


「ワシは……気づいとった。昨夜から、九尾の様子がおかしかった。でも——聞けなかった」


「G・クリムゾンさんは」


「ワシが聞いたら、止めようとする。それを九尾はわかっとったはずや。だから——誰にも言わんかった」


悠真は黙った。


「……待ちましょう。戻ってくるかもしれない」


G・クリムゾンは触覚を動かした。

しかし何も言わなかった。


二人は霧の前で、待った。



九尾の幻術が前衛部隊全体を覆ったのは、昼前だった。


斥候の報告が次々と届いた。前衛部隊が森の中で迷走している。方向を失っている。同士討ちを始めている。幻術だ——全員がそれを理解した。


G・クリムゾンが作戦指揮に加わった。カラスが防衛ラインを固め直した。三勢力が動いた。


悠真は境界の前を離れなかった。


「悠真さん」とイタチが食材を持ってきた。「食べてください」

悠真は受け取ったが、手をつけなかった。


夕方になった。

前衛部隊が——引き始めた。幻術の中で疲弊し、戦う力を失っていた。


全員が「今日は退いた」と判断した、その夕方——


幻術が、消えた。


前衛部隊が北へ引いた。


そして——


霧の中から、何かが出てきた。


銀白色の何かが、ゆっくりと、地面を這うように出てきた。


九本の尾が——七本になっていた。


しかし。


その体は——動かなかった。



ディア・ルミナが飛びつくように駆け寄った。


九尾の体を診た。長い時間、診た。

その間、誰も近づかなかった。

悠真も、動けなかった。


やがて——ディアが顔を上げた。

目が赤かった。


「……二本の尾を、幻術の燃料に使い切った。二度と戻らへん」


声が震えていた。


「もう——」


ディアは続けられなかった。


G・クリムゾンが、静かに言った。


「……逝ったか」


ディアが、小さくうなずいた。


悠真は——その場に、崩れ落ちた。


膝をついた。

手が、地面についた。

声が、出なかった。


ただ——息が、できなかった。


七本になった尾が、夕暮れの光の中で、静かに広がっていた。

もう揺れなかった。


G・クリムゾンが悠真の隣に来た。

六本腕を、ゆっくりと下げたまま、黙っていた。


「なんでやねん」と、G・クリムゾンが言った。

今まで聞いた中で、一番静かで、一番重い「なんでやねん」だった。


悠真には——何も言えなかった。



九尾を迎賓館に運んだ。


全員が、静かだった。

誰も何も言わなかった。

料理は誰も作らなかった。誰も食べなかった。


悠真は九尾の部屋の隅に座って、ずっとそこにいた。


夜になった。


七本の尾が、静かに広がっている。

銀白色の毛並みは変わっていない。でも——動かない。


悠真は九尾の顔を見た。

目が、閉じていた。

細い目が——静かに、閉じていた。


(ちょろいんじゃろ、ワシが)


昨夜の声が、頭の中で繰り返された。

最後に聞いた言葉が、それだった。


悠真は声を出さずに泣いた。

止められなかった。

止めようとしなかった。


九尾が「ちょろいん、ワシが」と笑った、あの声。

出汁を両手で包んで飲んでいた、あの持ち方。

「今夜は、あった。その感覚が」と言った、あの目。


全部が——来た。


悠真は、九尾の部屋の隅で、長い時間、泣いた。



翌朝。


悠真は出汁を取った。


誰かのためではなく、ただ取った。

取りながら、泣いた。

出汁の匂いが、また来た。

九尾が毎朝ここで待っていた匂いだった。


G・クリムゾンが厨房に来た。


「……お前、昨日から何も食べてないやろ」


「……はい」


「食え。九尾も——お前が食わんのは、嫌がる」


悠真は器に出汁を盛った。

飲んだ。

九尾の分も、盛った。

九尾の部屋の縁側に、置きに行った。


七本の尾が、静かに広がっている。

出汁の湯気が、朝の光の中で、上に向かって消えていった。


悠真はそれを見ながら、一口だけ飲んだ。


(九尾さん)


言葉は出なかった。

それでいいと思った。


G・クリムゾンが後ろから来て、悠真の隣に立った。


「……カラスが言っとった。九尾の孫が、知らせを受けて向かっているらしい」


「六尾さんが」


「ああ。着くのは——明日か、明後日か。お前、迎えてやれるか」


悠真は少し間を置いた。


「……迎えます。ちゃんと迎えます」


「そうか」


G・クリムゾンは触覚を一度だけ動かした。

それから、出汁を一口飲んだ。


「……うまいな。九尾が毎朝飲んどったのが、わかる気がする


悠真は何も言わなかった。

ただ——自分の器を、両手で包んだ。

温かかった。



六尾が来たのは、二日後だった。


迎賓館の門に現れた六尾を見て、悠真は少し驚いた。


若かった。

九尾が「老い」を纏っていたのに対して——六尾は、まだ「若さ」の中にいた。毛並みは九尾と同じ銀白色だが、少し明るい。尾は七本。目は——九尾の細い目ではなく、少し丸い。

緊張していた。しかし——その奥に、悲しみがあった。


「……神代悠真、という方ですか」


「そうです。六尾さんですね」


「はい。祖母は——」


六尾は続けられなかった。


「……会いに行きましょう」


悠真は六尾を、九尾の部屋に連れて行った。


六尾は部屋に入った。悠真は外で待った。


しばらく、声も物音も聞こえなかった。


やがて六尾が出てきた。目が赤かった。しかし——泣き終えた顔だった。


「……祖母らしいです。こういう逝き方が」


「そうですか」


「誰にも止めさせず、最後まで自分で決める。昔から——そういう人でした」


悠真はうなずいた。


「……あなたに、頼みがあると言っていました。手紙が残っていました」


六尾は折りたたんだ紙を取り出した。

悠真が受け取った。


九尾の字だった。細くて、しかし力のある字。


「六尾をよろしく頼む。ちょろいんと言えなくなるのが——少しだけ惜しい。ただ、お前が六尾にちょろいんと言われる日が来ると思う。ぼんやりとだが、見えた」


それだけだった。


悠真は紙を折り直して、胸のポケットにしまった。


「六尾さん。一つ聞いていいですか」


「はい」


「お腹、空いていませんか」


六尾は少し止まった。


「……空いています」


「料理を作ります。食べながら話しましょう」


六尾はまた止まった。


「……祖母から聞いていました。あなたはいつも、料理で始めると」


「入り口として、一番わかりやすいので」


六尾は、今度こそ——小さく笑った。

不器用な、しかし素直な笑い方だった。

悠真には、それがとても良かった。



その夜、悠真は六尾に出汁を作った。


苔の出汁。根菜。干し肉。

九尾に作ったのと、同じものだった。


六尾は一口飲んで、少し目を大きくした。


「……これを、祖母はいつも飲んでいたんですか」


「毎朝。窓際で、北の空を見ながら」


「……そうですか」


六尾はもう一口飲んだ。


「おいしいです」


「ありがとうございます」


「祖母が——毎朝これを飲んでいた理由が、わかった気がします」


「どんな理由だと思いますか」


六尾は少し考えた。


「……温かいから、だと思います。中から、温まる感じがする。祖母は——いつも冷静に見えるけど、体は冷えやすい。長く生きると、そうなるらしくて」


悠真は少し驚いた。

九尾がそんなことを話したことはなかった。しかし——言われてみれば、真冬でも縁側に出ていた九尾が、出汁を両手で包むように持っていたことを思い出した。


「……知りませんでした」


「祖母は、弱いところを見せません。でも——孫にはたまに、見せてくれます」


六尾は器を両手で包んだ。

九尾と同じ持ち方だった。


「あの——一つ、聞いていいですか」


「どうぞ」


「祖母の未来視は——ぼんやりしていると言っていましたが、外れることは少ないと聞きました。私の未来視は——ほとんど見えない。たまに、ちらっと見える程度で、何の映像かもわからない。役に立てるかどうか」


「九尾さんの未来視も、最初はぼんやりしていて、後でわかる、と言っていました。六尾さんの未来視がちらっとしか見えないなら——見えた時に、そのまま教えてください。わからなくてもいい。後でわかることがある」


六尾は少し考えた。


「……それでいいんですか」


「それでいいです。ぼんやりでも、ちらっとでも——見えたことは価値があります」


六尾はまた、不器用に笑った。


「……祖母が、あなたの参謀になりたがった理由が——少しわかった気がします」


「どんな理由ですか」


「あなたと話すと——自分が少し、大丈夫な気がしてくる。祖母もそうだったんじゃないかと」


悠真は少し考えた。


「九尾さんに、同じことを言いたいです」


「え」


「九尾さんと話すと——俺も、少し大丈夫な気がしていたので」


六尾は止まった。

そして——今夜一番、素直な顔で笑った。



深夜、悠真は一人で廊下を歩いた。


九尾の部屋の前で、立ち止まった。

七本の尾が、扉の向こうに、静かにある。


悠真は扉に、静かに手を当てた。


「……ちょろいんじゃろ、ワシが」


声に出して、言ってみた。

誰も答えない。

当たり前だった。


「俺もです」


それだけ言って、扉から手を離した。


明日——六尾に、苔の刻み方を教えよう。

九尾の持ち方で、出汁を一緒に飲もう。


悠真は自分の部屋に戻った。


窓の外、北の空が赤い。

しかし今夜は——見上げる気になれなかった。


布団に横になった。


「ちょろいん」という声が、また頭に来た。


悠真は目を閉じた。

それを聞きながら、眠った。



〈第十一話 了〉

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