第十一話 九尾の最期
異変に気づいたのは、悠真だった。
朝食の出汁を取り終えて、九尾の分を届けに行くと——いつも座っている窓際の縁側に、九尾がいなかった。
珍しいことだった。九尾は朝、必ずそこにいた。北の空を見ながら、悠真の持ってくる出汁を待っていた。それが習慣だった。
悠真は迎賓館の中を探した。部屋にいない。浴場にいない。庭にもいない。
裏門の番兵に聞くと——夜明け前に、一人で出ていったと言った。
悠真は走った。
◇
九尾は北の森の入り口にいた。
国境の石標の少し手前。霧がうっすらと漂い始める、その境界に。
九本の尾を広げて、北の空を見上げていた。
悠真が駆けつけると、九尾は振り返らずに言った。
「……来るのが早いな」
「探しました。どこにいるかと思って」
「ここじゃ。見ての通り」
悠真は九尾の隣に立った。
北の空が、今朝は特に赤かった。地平線の向こうから、赤黒い色が滲み出るように広がっている。
「九尾さん。昨日、何か見えましたか」
九尾は少し間を置いた。
「……見えた。はっきりと、今まで一番はっきりと」
「何が」
九尾は答えなかった。
代わりに、悠真の方をゆっくりと向いた。
その顔を見て——悠真は、何かを理解した。言葉にする前に、体が理解した。
「……九尾さん」
「お前には正直に言う。今日——大きな戦いが来る。前衛部隊の本格侵攻じゃ。カルディアが引いた分、向こうも本腰を入れてきた」
「カラスからも報告が——」
「報告より、ワシの目の方が早い。今朝の未来視で見えた。今日の戦いは——三勢力が束になっても、押し切れない規模じゃ」
悠真は息を吐いた。
「じゃあ、どうするんですか」
「ワシが——行く」
静かな言葉だった。
しかし悠真の腹に、重く落ちた。
「九尾さんが、一人で」
「一人でなければ意味がない。ワシの幻術は——相手の数が多いほど、広く効く。前衛部隊全体を幻術の中に入れれば、今日一日は止められる。お前たちが態勢を整える時間ができる」
「でも——それは」
「わかっとる」
九尾は静かに言った。
「九尾の幻術は、使う数に比例して消耗する。今日の規模なら——全力以上を使わなければ止められん。それだけの力を使えば——ワシは、戻れない」
悠真は、九尾を見た。
「戻れない、というのは」
「死ぬ、ということじゃ。お前には正直に言う」
悠真は——何も言えなかった。
止めようとした。言葉が、出なかった。
九尾の目が——覚悟を決めた目だった。長く生きた者の、最後の目だった。
「泣くな。まだ死んでおらん」
「……泣いていません」
「目が赤い」
「朝が早かったので」
「嘘をつけ」
九尾は小さく、声を出さずに笑った。
それから、真剣な目で悠真を見た。
「一つだけ、頼みがある」
「なんですか」
「ワシの孫が——一人いる。六尾という。まだ若い。ワシの半分も生きておらん。幻術も未来視も、まだ不安定じゃ」
「六尾さん」
「ワシが死んだ後——あいつを、お前の参謀にしてやってくれ。ワシの代わりにはならん。ぜんぜんならん。不器用で、正直すぎて、嘘がつけん。ワシとは似ても似つかん」
九尾は少し笑った。
「じゃが——そういう者も、必要じゃ。ワシのような老獪な者ばかりでは、お前の周りが息苦しくなる」
「九尾さんの周りは息苦しくないです」
「ちょろいんと言われ続けた一年じゃったろ」
「それは愛情表現だと思っていました」
「……半分は、そうじゃ」
九尾は悠真から視線を外して、北の空を見た。
「悠真。ワシはお前の参謀になって——よかった。餌で釣られたが、それだけではなかった。最初にお前が北の霧の中で立っておった映像を見た時から——もう決めておった。餌は後付けじゃ」
「……後付けだったんですか」
「ちょろいんじゃろ、ワシが」
九本の尾が、一本ずつ、ゆっくりと動いた。
風もないのに、尾が揺れた。まるで、別れを告げるように。
「……行ってくる。止めるな」
悠真は——止めなかった。
止めたかった。手を伸ばしかけた。でも——九尾の目が、止めることを許さなかった。
九尾は北へ向けて歩いた。
銀白色の毛並みが、朝の光の中で、一瞬だけ輝いた。
九本の尾が、霧の中へ消えた。
悠真は、その場で動けなかった。
◇
G・クリムゾンが来たのは、しばらくしてからだった。
悠真がまだ境界の手前に立っているのを見て、触覚をぴんと立てた。
「……九尾が行ったか」
「はい」
「止めなかったのか」
「……止められませんでした」
G・クリムゾンは悠真の隣に来た。
二人で、霧の向こうを見た。
何も見えない。しかし——何かが、あの奥で動いている気配があった。
「ワシは……気づいとった。昨夜から、九尾の様子がおかしかった。でも——聞けなかった」
「G・クリムゾンさんは」
「ワシが聞いたら、止めようとする。それを九尾はわかっとったはずや。だから——誰にも言わんかった」
悠真は黙った。
「……待ちましょう。戻ってくるかもしれない」
G・クリムゾンは触覚を動かした。
しかし何も言わなかった。
二人は霧の前で、待った。
◇
九尾の幻術が前衛部隊全体を覆ったのは、昼前だった。
斥候の報告が次々と届いた。前衛部隊が森の中で迷走している。方向を失っている。同士討ちを始めている。幻術だ——全員がそれを理解した。
G・クリムゾンが作戦指揮に加わった。カラスが防衛ラインを固め直した。三勢力が動いた。
悠真は境界の前を離れなかった。
「悠真さん」とイタチが食材を持ってきた。「食べてください」
悠真は受け取ったが、手をつけなかった。
夕方になった。
前衛部隊が——引き始めた。幻術の中で疲弊し、戦う力を失っていた。
全員が「今日は退いた」と判断した、その夕方——
幻術が、消えた。
前衛部隊が北へ引いた。
そして——
霧の中から、何かが出てきた。
銀白色の何かが、ゆっくりと、地面を這うように出てきた。
九本の尾が——七本になっていた。
しかし。
その体は——動かなかった。
◇
ディア・ルミナが飛びつくように駆け寄った。
九尾の体を診た。長い時間、診た。
その間、誰も近づかなかった。
悠真も、動けなかった。
やがて——ディアが顔を上げた。
目が赤かった。
「……二本の尾を、幻術の燃料に使い切った。二度と戻らへん」
声が震えていた。
「もう——」
ディアは続けられなかった。
G・クリムゾンが、静かに言った。
「……逝ったか」
ディアが、小さくうなずいた。
悠真は——その場に、崩れ落ちた。
膝をついた。
手が、地面についた。
声が、出なかった。
ただ——息が、できなかった。
七本になった尾が、夕暮れの光の中で、静かに広がっていた。
もう揺れなかった。
G・クリムゾンが悠真の隣に来た。
六本腕を、ゆっくりと下げたまま、黙っていた。
「なんでやねん」と、G・クリムゾンが言った。
今まで聞いた中で、一番静かで、一番重い「なんでやねん」だった。
悠真には——何も言えなかった。
◇
九尾を迎賓館に運んだ。
全員が、静かだった。
誰も何も言わなかった。
料理は誰も作らなかった。誰も食べなかった。
悠真は九尾の部屋の隅に座って、ずっとそこにいた。
夜になった。
七本の尾が、静かに広がっている。
銀白色の毛並みは変わっていない。でも——動かない。
悠真は九尾の顔を見た。
目が、閉じていた。
細い目が——静かに、閉じていた。
(ちょろいんじゃろ、ワシが)
昨夜の声が、頭の中で繰り返された。
最後に聞いた言葉が、それだった。
悠真は声を出さずに泣いた。
止められなかった。
止めようとしなかった。
九尾が「ちょろいん、ワシが」と笑った、あの声。
出汁を両手で包んで飲んでいた、あの持ち方。
「今夜は、あった。その感覚が」と言った、あの目。
全部が——来た。
悠真は、九尾の部屋の隅で、長い時間、泣いた。
◇
翌朝。
悠真は出汁を取った。
誰かのためではなく、ただ取った。
取りながら、泣いた。
出汁の匂いが、また来た。
九尾が毎朝ここで待っていた匂いだった。
G・クリムゾンが厨房に来た。
「……お前、昨日から何も食べてないやろ」
「……はい」
「食え。九尾も——お前が食わんのは、嫌がる」
悠真は器に出汁を盛った。
飲んだ。
九尾の分も、盛った。
九尾の部屋の縁側に、置きに行った。
七本の尾が、静かに広がっている。
出汁の湯気が、朝の光の中で、上に向かって消えていった。
悠真はそれを見ながら、一口だけ飲んだ。
(九尾さん)
言葉は出なかった。
それでいいと思った。
G・クリムゾンが後ろから来て、悠真の隣に立った。
「……カラスが言っとった。九尾の孫が、知らせを受けて向かっているらしい」
「六尾さんが」
「ああ。着くのは——明日か、明後日か。お前、迎えてやれるか」
悠真は少し間を置いた。
「……迎えます。ちゃんと迎えます」
「そうか」
G・クリムゾンは触覚を一度だけ動かした。
それから、出汁を一口飲んだ。
「……うまいな。九尾が毎朝飲んどったのが、わかる気がする
悠真は何も言わなかった。
ただ——自分の器を、両手で包んだ。
温かかった。
◇
六尾が来たのは、二日後だった。
迎賓館の門に現れた六尾を見て、悠真は少し驚いた。
若かった。
九尾が「老い」を纏っていたのに対して——六尾は、まだ「若さ」の中にいた。毛並みは九尾と同じ銀白色だが、少し明るい。尾は七本。目は——九尾の細い目ではなく、少し丸い。
緊張していた。しかし——その奥に、悲しみがあった。
「……神代悠真、という方ですか」
「そうです。六尾さんですね」
「はい。祖母は——」
六尾は続けられなかった。
「……会いに行きましょう」
悠真は六尾を、九尾の部屋に連れて行った。
六尾は部屋に入った。悠真は外で待った。
しばらく、声も物音も聞こえなかった。
やがて六尾が出てきた。目が赤かった。しかし——泣き終えた顔だった。
「……祖母らしいです。こういう逝き方が」
「そうですか」
「誰にも止めさせず、最後まで自分で決める。昔から——そういう人でした」
悠真はうなずいた。
「……あなたに、頼みがあると言っていました。手紙が残っていました」
六尾は折りたたんだ紙を取り出した。
悠真が受け取った。
九尾の字だった。細くて、しかし力のある字。
「六尾をよろしく頼む。ちょろいんと言えなくなるのが——少しだけ惜しい。ただ、お前が六尾にちょろいんと言われる日が来ると思う。ぼんやりとだが、見えた」
それだけだった。
悠真は紙を折り直して、胸のポケットにしまった。
「六尾さん。一つ聞いていいですか」
「はい」
「お腹、空いていませんか」
六尾は少し止まった。
「……空いています」
「料理を作ります。食べながら話しましょう」
六尾はまた止まった。
「……祖母から聞いていました。あなたはいつも、料理で始めると」
「入り口として、一番わかりやすいので」
六尾は、今度こそ——小さく笑った。
不器用な、しかし素直な笑い方だった。
悠真には、それがとても良かった。
◇
その夜、悠真は六尾に出汁を作った。
苔の出汁。根菜。干し肉。
九尾に作ったのと、同じものだった。
六尾は一口飲んで、少し目を大きくした。
「……これを、祖母はいつも飲んでいたんですか」
「毎朝。窓際で、北の空を見ながら」
「……そうですか」
六尾はもう一口飲んだ。
「おいしいです」
「ありがとうございます」
「祖母が——毎朝これを飲んでいた理由が、わかった気がします」
「どんな理由だと思いますか」
六尾は少し考えた。
「……温かいから、だと思います。中から、温まる感じがする。祖母は——いつも冷静に見えるけど、体は冷えやすい。長く生きると、そうなるらしくて」
悠真は少し驚いた。
九尾がそんなことを話したことはなかった。しかし——言われてみれば、真冬でも縁側に出ていた九尾が、出汁を両手で包むように持っていたことを思い出した。
「……知りませんでした」
「祖母は、弱いところを見せません。でも——孫にはたまに、見せてくれます」
六尾は器を両手で包んだ。
九尾と同じ持ち方だった。
「あの——一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「祖母の未来視は——ぼんやりしていると言っていましたが、外れることは少ないと聞きました。私の未来視は——ほとんど見えない。たまに、ちらっと見える程度で、何の映像かもわからない。役に立てるかどうか」
「九尾さんの未来視も、最初はぼんやりしていて、後でわかる、と言っていました。六尾さんの未来視がちらっとしか見えないなら——見えた時に、そのまま教えてください。わからなくてもいい。後でわかることがある」
六尾は少し考えた。
「……それでいいんですか」
「それでいいです。ぼんやりでも、ちらっとでも——見えたことは価値があります」
六尾はまた、不器用に笑った。
「……祖母が、あなたの参謀になりたがった理由が——少しわかった気がします」
「どんな理由ですか」
「あなたと話すと——自分が少し、大丈夫な気がしてくる。祖母もそうだったんじゃないかと」
悠真は少し考えた。
「九尾さんに、同じことを言いたいです」
「え」
「九尾さんと話すと——俺も、少し大丈夫な気がしていたので」
六尾は止まった。
そして——今夜一番、素直な顔で笑った。
◇
深夜、悠真は一人で廊下を歩いた。
九尾の部屋の前で、立ち止まった。
七本の尾が、扉の向こうに、静かにある。
悠真は扉に、静かに手を当てた。
「……ちょろいんじゃろ、ワシが」
声に出して、言ってみた。
誰も答えない。
当たり前だった。
「俺もです」
それだけ言って、扉から手を離した。
明日——六尾に、苔の刻み方を教えよう。
九尾の持ち方で、出汁を一緒に飲もう。
悠真は自分の部屋に戻った。
窓の外、北の空が赤い。
しかし今夜は——見上げる気になれなかった。
布団に横になった。
「ちょろいん」という声が、また頭に来た。
悠真は目を閉じた。
それを聞きながら、眠った。
〈第十一話 了〉




