第十二話 大いなるものが来る
それは、夜明け前に来た。
音は、なかった。
地鳴りも、爆発も、叫び声も——何もなかった。
ただ、北の空が——一瞬で、完全に赤黒くなった。
星が、消えた。
月が、消えた。
夜明けの光が、消えた。
赤黒い天蓋が、地平線の端から端まで広がった。
その色は——霧でも、雲でも、煙でもなかった。生き物の色だった。呼吸している色だった。
悠真は窓から外を見て、しばらく動けなかった。
(来た)
来た、と思った。それだけだった。怖い、とも、どうする、とも思う前に——来た、という事実だけが体に入った。
廊下が騒がしくなった。伝令が走る音。扉が開く音。誰かが叫んでいる声。
悠真は厨房に向かった。
◇
G・クリムゾンが厨房の入り口で待っていた。
「……お前、こんな時に何をするつもりや
「料理を作ります
「今、北の空が——
「見ました。だから作ります
G・クリムゾンはしばらく悠真を見た。
触覚が、ゆっくり動いた。
「……手伝えることはないか
「火を起こしておいてください
「なんでやねん——わかった
G・クリムゾンは厨房に入った。
続いてイタチ・ライアが来た。無言で食材を並べ始めた。
カラス・クロウが来て「状況を整理しながら手伝います」と言った。
シビシネアが来て、無言で水を汲んだ。
六尾が来た。少し目が赤かった。
「……私も、手伝えますか
「六尾さんは出汁の苔を刻んでください
「わかりました
レグナスが厨房に顔を出した。
「神代悠真。お前は今、何を作っとるんや
「全員分の朝食です
「……北の空が真っ赤になっとる時に、朝食か
「腹が減った状態で大事なことはできないので
レグナスはしばらく悠真を見た。
それから、
「……ワシも何かするか。まぁ、気楽に行こうや
「では陛下に香草を刻んでいただけますか
「王様に香草を刻ませるか、普通
「お願いします
レグナスは「なんやねん」と言いながら、包丁を持った。
セイリオスが「陛下……」という顔で後ろに立った。
レオンが「んだ、ワシも何かするべ」と言って厨房に入ってきた。
センディアが入り口で腕を組んだまま、しかし離れなかった。
悠真は鍋をかき混ぜながら、厨房の中を見回した。
害虫連邦の総司令が火を起こしている。
害獣帝国の剣聖が食材を並べている。
人類王国の国王が香草を刻んでいる。
参謀総長が状況整理をしながら鍋の番をしている。
六尾が苔を刻んでいる。
北の空は赤黒い。
でも——厨房の中は、温かかった。
◇
朝食ができた頃、六尾が厨房に来た。
出汁の器を受け取りながら、六尾は北の空を一度見た。
「……今朝、ちらっと見えました
「未来視ですか
「はい。悠真さんが——赤黒い霧の中で、何かに向かって話しかけている映像でした。倒れていなかった。立っていました
悠真は少し間を置いた。
「後でわかりますね
「……はい。後でわかります
六尾は器を両手で包んだ。いつの間に覚えたのか、九尾と同じ持ち方だった。
◇
出発前に、全員が広間に集まった。
害虫連邦。害獣帝国。人類王国。
三勢力の幹部が、全員、広間に入った。
こんなに多くの人間と非人間が一つの場所にいたのは——これが初めてだった。
悠真は全員の前に立った。
何を言うか、考えていなかった。
考えていなかったが——言葉は、出てきた。
「今日、俺は北へ行きます。大いなるものに話しかけに行きます。スキルなし、魔力なし、戦闘力Fです。勝算はありません。でも——先遣と話せたので、本体とも話せるかもしれない。たぶん。運が良ければ
少し、笑い声がした。G・クリムゾンだった。
「その間——G・クリムゾンさんたちが時間を稼いでくれます。俺が話している間、誰も死なないでください。俺が帰ってきた時に、全員いてください
誰も何も言わなかった。
「それだけです。朝食は食べましたか
数名が「食べた」と言った。センディアが「食べた」と言った——それが少し、意外だった。
「では、行きます
G・クリムゾンが前に出た。
「悠真。一つだけ聞かせてくれ
「はい
「帰ってきたら——温泉、行けるか
悠真は少し笑った。
「行きましょう。絶対に
「一席も打つ
「聞きます。最後まで
G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。
温かい「なんでやねん」だった。
六尾が前に出た。少し緊張した顔で。
「……今朝、ちらっと見えました。未来視です
「何が見えましたか
「出汁の湯気です。何の出汁かはわかりません。ただ——湯気が、上に向かっていました。消えずに
悠真は少し考えた。
出汁の湯気が、消えずに上に向かう。
それが何を意味するのか——今はわからない。
でも六尾が「見えた」と言った。それで十分だった。
「ありがとうございます。後でわかります、きっと
「……祖母もそう言っていました
六尾は不器用に笑った。
レグナスが言った。
「神代悠真。一つだけ言うとくわ
「はい
「帰ってきたら、また料理を作れ。三者の食材を全部入れた、あの出汁をもう一回食べたい
「作ります
「約束やで
「約束です
セイリオスが「とりあえず、ご武運を」と言った。
レオンが「んだ、絶対帰ってこいべ」と言った。
イタチが「食材は俺が調達しておく」とぼそりと言った。
センディアが何も言わずに、しかし一度だけ、うなずいた。
カラスが「確率論的に——お前が最も可能性を持っている。それだけは計算できた」と言った。
悠真は全員を見た。
害虫の幹部。害獣の将軍。人類の王と騎士と魔導師。
全員が、悠真を見ていた。
転生してから、一年と少し。
スキルなし、魔力なし、戦闘力Fのまま。
のり塩ポテチがまだ食べたい。
それでも——ここまで来た。
悠真は頭を下げた。
それから、北へ向けて歩き出した。
◇
北の空の下、悠真は一人で歩いた。
赤黒い天蓋が、頭の上を覆っている。
前回の霧とは、規模が違った。空気が——重かった。一歩ごとに、何かが肩に乗ってくるような感覚がある。
でも——記憶は消えない。
今朝の出汁の味を覚えている。
G・クリムゾンの「なんでやねん」を覚えている。
六尾の不器用な笑いを覚えている。
六尾が「立っていた」と言ってくれた言葉を覚えている。
ユグドラの管理外だから、消えない。
でも——それだけではない気がした。
消えないのは、覚えていたいから覚えている。
そういう気持ちが、ある。
一時間ほど歩いた頃。
前回の「空き地」より遥かに大きな、異質な空間が現れた。
直径は——見渡せないほど広かった。
地面は黒く、空は赤黒く、しかしその中心に——光があった。
光というより、密度だった。存在の密度。前回の先遣が「小さな塊」だったとすれば、これは——惑星だった。
大きさは測れない。形は不定形。しかし——「ある」という感覚が、圧倒的だった。
悠真は立ち止まった。
籠を下ろした。
火を起こした。
鍋を出した。
今日の出汁は、全員が関わった食材で作るつもりだった。
苔——六尾が刻んだもの。
根菜——イタチが調達したもの。
香草——レグナスが刻んだもの。
干し肉——G・クリムゾンが火で炙ったもの。
全部、入れた。
湯気が上がった。
そして——声が来た。
◇
「……また来たか、地球の者
前回より、声が近かった。
近く——しかし、巨大だった。声の一粒一粒が、大気を揺らすほどの質量を持っていた。
「来ました。また話しに来ました
「先遣から聞いておる。出汁の匂いをわかる者、と
「はい
「……今日の匂いは——前と違う
「何人かが手伝ってくれました。みんなの食材が入っています
沈黙。
「……みんな、とは
「害虫と害獣と人間、全員です。あと——六尾という、若いキツネも
「それらは——お前の敵ではなかったか
「最初は、そういう状況でした。今は、そうではない
「なぜ変わった
悠真は少し考えた。
「一緒に食べたからだと思います。あと、話を聞いたり、聞いてもらったり。それだけです
長い沈黙があった。
「……小さなことから、コツコツと
「そうかもしれません
「ワシもそう思うて、ここまで来た。銀河を、コツコツと。しかし——お前のコツコツとは、違う
「先遣にも、同じことを言いました
「先遣から聞いた。誰かのためか、どうか——じゃったな
「はい
「ワシには——誰かがおらん。銀河がある。星がある。生命がある。しかし——誰か、ではない
悠真は鍋をかき混ぜた。
出汁の匂いが、赤黒い空気の中に広がっていく。
「この出汁を作ってくれた人たちは——今、北で時間を稼いでいます。俺が話している間に、何かあれば全員死ぬかもしれない。それでも、ここに来てくれた
「なぜ
「俺が帰ってきた時に、出汁を食べさせてやりたいから、だと思います。レグナスさんは『また作れ』と言っていました。G・クリムゾンさんは温泉に行こうと言っていました。イタチさんは食材を調達しておくと言っていました
沈黙。
「それが——誰かのため、ということです。俺が帰ってくることを前提に、動いている。そういう人たちが、いる
「……お前が帰ってこなければ、それらは無駄になる
「そうです。だから俺は帰ります
また、沈黙があった。
今回の沈黙は——前回より、長かった。
大いなるものの密度が、わずかに揺れた。
「……ワシは、この星を害星にしようとしてきた。それがワシの目的じゃ。小さなことからコツコツと、長い時間をかけて
「知っています
「じゃが——先遣が戻ってきた時、何かが変わっておった。先遣は——匂いがわかる、と言った。出汁の匂いが、わかると。ワシにも——今、わかる
悠真は黙って聞いた。
「害星には、匂いがない。臓器に変えた星には、何も残らん。ワシが今まで変えてきた星には——何も残っておらん
「そうですか
「この星には——残っておる。先遣が見続けた、数千年の間に積み上がったものが。お前たちが、コツコツと積み上げたものが
悠真は出汁を器に盛った。
自分の分と、もう一つ——前回と同じように、大いなるものの前に置いた。
「食べられなくても、匂いはわかると言ってくれましたよね、先遣が
「……わかる
「今日の出汁は、みんなの食材が入っています。その匂いが——害星になった星には残らないものです
長い。長い沈黙があった。
赤黒い空が——ほんのわずかだけ、薄くなった気がした。
大いなるものが、何かを言おうとした。
しかしその時——
◇
空が、裂けた。
北の方角から、赤黒い天蓋の中に——何かが走った。光ではなく、圧力の線。銀河規模の存在が、何かに反応した波紋。
大いなるものの声が、変わった。
「……ユグドラが、動いた
「ユグドラ?
「この星の管理者じゃ。今まで眠っておったが——今、目覚めた。お前が動かしたのかもしれん。お前はユグドラの管理外じゃが——お前の行動が、ユグドラを刺激した
悠真は空を見上げた。
赤黒い天蓋の向こうに——何かが、ある。大いなるものとは別の、もっと古い、もっと静かな何かが、目を開けようとしている。
「……地球の者。ワシとお前の話は——まだ終わっておらん
「はい
「しかし、続きは——後になる。ユグドラが目覚めれば、この状況は変わる。お前にとって良い変化かどうかは——わからん
「わかりました
「一つだけ言う
「はい
「……今日の出汁の匂いは——今まで変えてきた星の中で、一番、複雑な匂いじゃった。複雑で——深かった。それだけじゃ
悠真は少し頭を下げた。
「ありがとうございます
「礼は無用じゃ。ただ——小さなことから、コツコツと。お前のコツコツを——ワシはもう少し、見る
大いなるものの密度が、少しだけ——引いた。
完全には消えない。しかし——今日は、これ以上来ない。
赤黒い天蓋の中に、一筋だけ——緑の空が見えた。
悠真は、それを見て——動けなかった。
一筋の緑。
九尾が最初に見た映像。六尾が「緑の空」と言った空。
これが——そういうことか。
(後でわかる、か)
悠真は出汁の残りを見た。
まだ温かかった。
片付けをして、南へ向けて歩き始めた。
ユグドラが目覚めた。
大いなるものはまだいる。
話は、終わっていない。
でも——今日は、帰れる。
G・クリムゾンの温泉の約束が、ある。
レグナスの「また作れ」が、ある。
イタチが調達しておく食材が、ある。
六尾の不器用な笑いが、待っている。
六尾が作ってくれた出汁の温かさが、まだ体に残っている。
悠真は歩いた。
赤黒い空の下、一筋の緑を見上げながら。
〈第十二話 了〉




