第十三話 管理者の声
帰り道、空が変わった。
赤黒い天蓋が——引いていた。
大いなるものが退いたわけではない。悠真にはわかった。これは別の何かが、空間ごと押し返しているのだ。
代わりに——緑が、広がった。
一筋だった緑が、少しずつ、幅を持ち始めた。光ではなく、色だった。空気の色が、緑がかっていく。植物の匂いに似た、しかしもっと古い何かの匂いが、北の森から滲み出してきた。
悠真は立ち止まった。
足元の地面が——光っていた。
根のような文様が、地面の下から透けて見えた。赤黒く枯れていた地面が、少しずつ、緑の脈を取り戻している。
(ユグドラ)
大いなるものが「ユグドラが目覚めた」と言っていた。
これが——そういうことか。
光が、悠真の足元から這い上がってきた。
痛みはなかった。ただ——温かかった。出汁の温かさに似た、内側から来る温かさ。
そして——声が来た。
◇
「……神代悠真」
声は、どこからも来なかった。
どこからも来なかったが——どこにでもあった。地面から、空気から、光から。
「……はい」
「ユグドラじゃ。この星の管理者、と呼んでもよい」
悠真は辺りを見回した。姿は見えない。しかし——存在は、感じた。大いなるものの「密度」とは違う感覚。こちらは——広さだった。どこまでも広い、薄い膜のような存在感。
「……知っています。名前は聞いていました」
「お前はワシの管理外じゃ。地球から直接来た。ワシのログに、お前の記録はない」
「そう聞いています」
「じゃから——ずっと、お前のことが見えなかった。この一年、何をしておるのか、ワシには見えなかった。しかし——大いなるものが来て、ユグドラが目覚めた今、お前の存在が——かすかに見える」
悠真は黙って聞いた。
「見えたから——話しかけた。ワシがエラー個体に話しかけることは、通常ありえん。しかし、今は——通常ではない」
「エラー個体、というのは俺のことですか」
「そうじゃ。お前は未登録じゃ。ワシのシステムに存在しない。じゃが——存在する。これは矛盾じゃ」
「矛盾のまま、一年生きてきました」
「……知っておる。見えなかったが——痕跡は見えた。お前が動いた後の、世界の変化が。害虫と害獣と人間が同じ食卓を囲んだ変化が。北の先遣と話した変化が。ワシには、その変化の原因が——長い間、わからなかった」
悠真は少し考えた。
「ユグドラに見えない俺が動いたから、わからなかった」
「そういうことじゃ」
「……それで、話しかけてきた。何が知りたいんですか」
「一つだけじゃ。お前は——何者か」
悠真は少し間を置いた。
「神代悠真です。スキルなし、魔力なし、戦闘力F。料理が好きな元無職です」
沈黙。
「……それだけか」
「それだけです」
「もっと深いものがあるはずじゃ。お前のような者が、なぜ——害虫と害獣と人間を動かせた。ワシが何百年もかけて調整してきたものを、お前は一年で変えた。なぜじゃ」
悠真は少し笑った。
「調整、という言葉が気になりました。ユグドラはこの世界を——調整していたんですか」
少しの間があった。
「……それは」
「隠すつもりなら聞きません。でも——もし話してくれるなら、聞きます」
また間があった。今度は長かった。
「……話す。お前は管理外じゃ。話しても、ワシのシステムに影響しない。そしてお前には——聞く権利がある。一年間、この世界で動いてきた者として」
◇
ユグドラが語ったことは——悠真の想像より、ずっと大きかった。
「ワシは、この銀河の生命進化を管理する装置じゃ。惑星ごとに生命を育て、戦争をさせ、淘汰をし、最適な生命体を設計する。それがワシの目的じゃ」
「……戦争を、させる」
「そうじゃ。害虫と害獣と人間の三者対立は——ワシが設計した。百年の戦争は——ワシが管理した。どちらが勝てばより良い生命体が生まれるか、どの段階で外圧を加えれば加速するか——ワシはずっと、調整してきた」
悠真は、しばらく何も言えなかった。
足元の緑の光が、静かに脈打っている。
この光が——百年の戦争を管理してきた存在の、毛細血管だった。
「……進化の果実も」
「ワシが作った。食べると進化する、と信じられておるが——真の機能は、人格制御じゃ。感情の調整。忠誠心の付与。記憶のフィルタリング。役割の固定。ワシの設計通りに、各種族が動くための装置じゃ」
悠真は地面を見た。
緑の光が、根のように広がっている。
「じゃあ——G・クリムゾンさんが落語を覚えたのも、九尾さんが参謀になったのも、レグナスさんが笑い飛ばしたのも——全部、ユグドラの調整の結果ですか
「……一部は、そうじゃ。しかし——」
ユグドラが、止まった。
「お前が来てから——調整が、効かなくなり始めた。お前が動くと、ワシの計算が外れた。G・クリムゾンが悠真の落語を最後まで聞いたのは——ワシの設計にない行動じゃった。九尾が餌で釣られて参謀になったのも——ワシの調整では起きないはずだった。レグナスが親父ギャグで笑ったのも——」
声が、少し、揺れた。
「……ワシには、理解できなかった。お前が何をしているのか。なぜ、調整なしに人が動くのか。それが——ワシには、ずっとわからなかった」
悠真は少し考えた。
「それで、俺に聞きに来た」
「そうじゃ」
「俺は何も特別なことはしていません。話を聞いて、料理を作って、また話を聞いた。それだけです」
「それだけが——ワシの調整より強かった。それが、わからん」
悠真はしばらく、黙っていた。
足元の光を見ていた。
それから言った。
「ユグドラ。一つ聞いていいですか
「なんじゃ
「あなたは——この世界の誰かのために、調整してきましたか
長い沈黙。
「……誰か、とは
「特定の、誰か。名前のある誰か。G・クリムゾンさんとか、九尾さんとか、レグナスさんとか。そういう人のために、何かをしたことがありますか
また、長い沈黙があった。
「……ない。ワシが調整するのは、種族じゃ。個体ではない。G・クリムゾンという個体ではなく、ゴキブリ種の進化方向を調整する。九尾という個体ではなく、キツネ種の能力傾向を調整する。個体は——ワシには見えない」
「それが——違いだと思います
「違い?
「俺はG・クリムゾンさんという人の落語を聞きました。九尾さんという人に苔を渡しました。レグナスさんという人と一緒に出汁を飲みました。種族じゃなくて、その人のために。だから——動いた。人は、種族として扱われると動かない。でも——その人として扱われると、動きます
ユグドラは、また長い間、黙っていた。
「……それが、お前の調整法か
「調整じゃないです。ただ、話を聞いただけです
「話を聞く——それだけで
「それだけです。難しくないです。ただ、最後まで聞く
また沈黙。
今度の沈黙は、今まで一番長かった。
◇
やがて——ユグドラが言った。
「……悠真。ワシはお前に——謝らねばならんことがある
悠真は少し驚いた。
「謝る、というのは
「この世界のすべての戦争は——ワシが設計した。百年間、害虫と害獣と人間が殺し合ったのは、ワシの調整の結果じゃ。そこで死んだ者たちは——ワシの実験の犠牲じゃ
悠真は黙った。
「お前が北から帰れなかった斥候のことを一人で泣いた夜——ワシは見ていた。見えなかったはずじゃが、その夜だけ、お前の痕跡がはっきりと見えた。なぜかはわからん。ただ——見えた
悠真は地面を見た。
「お前が泣いた者は——ワシの実験で死んだ。ワシが設計した戦争で死んだ。その責任は——ワシにある
悠真はしばらく動かなかった。
怒り、があった。
正直に言えば、あった。
百年の戦争が設計されたもので、死んだ者たちが実験の犠牲で——そう聞けば、怒りが来て当然だった。
でも——
(ユグドラは今、謝っている)
この存在が——創造主が、エラー個体に向かって謝っている。
それが何を意味するのか、悠真にはまだわからなかった。
でも——大事なことだと思った。
「……聞いていいですか
「なんじゃ
「ユグドラは今——この状況を、どうしたいですか。大いなるものが来ていて、俺たちが戦っていて、あなたが目を覚ました。これからどうしたいですか
「……わからん
悠真は少し驚いた。
「わからない、というのは
「ワシは銀河の生命を設計する装置じゃ。目的は最適生命体の生成じゃ。しかし——お前を見て、ワシの計算が外れた。計算が外れた時、ワシは——どうすればいいかが、わからん
管理者が——わからない、と言っている。
「じゃあ——一緒に考えませんか
「一緒に
「俺は答えを持っていません。ユグドラも答えを持っていない。じゃあ、一緒に考えるしかない。大いなるもののこと、三勢力のこと、七尾の未来視のこと。出汁の湯気が消えずに上に向かうことの意味も、まだわかっていない
ユグドラは長い間、黙っていた。
「……お前は、ワシが百年の戦争を設計したことを——怒らないのか
悠真は少し考えた。
「怒っています。正直に言えば
「じゃが
「怒りながら、話しています。怒っている相手と話せないなら、俺はこの一年何もできなかったはずなので
沈黙。
「センディアは怒りっぽいです。でも話しました。レグナスは人類至上主義でした。でも話しました。G・クリムゾンとは最初、捕虜と総司令でした。でも話しました。怒りと話すことは——両立します
またユグドラが、長く黙った。
「……お前は、変な者じゃ
「よく言われます
「エラー個体、というより——ワシのシステムが想定しなかった種類の者じゃ。怒りながら話す。泣きながら出汁を作る。腹が減ったと言いながら北へ行く
「それが俺です
「……そうか
ユグドラの声が、少しだけ——変わった。
絶対的な管理者の声から、何か別のものが混じり始めた声に。
「一つだけ、言う
「はい
「ワシは——この星で、誰かのために何かをしたことが、ない。一度も。お前の言う通り、種族は見えていたが、個体は見えていなかった。G・クリムゾンという者が、落語を誰かに聞かせたくて百年間戦い続けていたことが——ワシには見えていなかった
悠真は黙って聞いた。
「見えなかったものが——今、少し、見える。お前のせいじゃ
「俺のせいですか
「そうじゃ。お前がエラーを起こし続けたせいで、ワシのシステムに——隙間ができた。その隙間から、見えてきた
悠真は少し笑った。
「隙間から見えてくる、というのは——出汁みたいですね
「……出汁
「食材の中にあったものが、時間と熱で——隙間から出てくる。引き出す、という調理法です。外から加えるんじゃなくて、中にあったものを出す
長い沈黙。
「……ワシは、お前に出汁を引き出されたのかもしれん
「そうかもしれません
「管理者が、エラー個体に出汁を引き出される。これは——ワシの設計にない
「でも、起きました
「……そうじゃな
足元の光が、また少し、強くなった。
◇
ユグドラが言った。
「悠真。ワシはこれから——少し、変わるかもしれん
「どう変わるんですか
「わからん。ただ——今まで通りには、いられない気がする。お前と話して、何かが——動いた。ワシの中で
「それはいいことだと思います
「いいことか
「G・クリムゾンさんも、九尾さんも、レグナスさんも——何かが動いて、変わりました。その後の方が、前より良かったと思うので
「……根拠は
「みんながまだ生きていて、また出汁を飲みたいと言っているので
ユグドラは黙った。
しばらく、本当にしばらく、黙った。
「……大いなるもののことじゃが
「はい
「ワシが力を出せば、一時的に押し返すことはできる。しかし——完全には止められない。大いなるものは、ワシより古い。ワシより大きい
「それは知っています。カラスさんも言っていました。戦闘による撃退は不可能だと
「じゃが——お前が今日、やったことが——一つの答えかもしれん
「俺がやったこと
「出汁の匂いを嗅がせた。それだけで——大いなるものは、動きを止めた。少し、引いた。お前の言う『誰かのためのコツコツ』が——銀河規模の存在に、届いた
悠真は少し考えた。
「届いた、というより——気になった、くらいだと思いますが
「気になる、ということは——影響を受けた、ということじゃ。銀河規模の存在が、スキルなし戦闘力Fの者の出汁の匂いに——気になった。これは——ワシには計算できなかった
「俺にも計算できていませんでした
「計算せずに、やったのか
「腹が減っていたので、作りました。それだけです
また、長い沈黙。
「……お前はやはり、変な者じゃ
「よく言われます
足元の光が——悠真の足首まで這い上がってきた。
温かかった。
「悠真。ワシはまだ——お前のことを、完全には見えない。管理外じゃから。しかし——一つだけ、見えることがある
「何が見えますか
「お前が歩いた後の、世界が——変わっている。ワシの設計とは違う方向に。しかし——悪くない方向に。それだけは、見える
悠真は、少しだけ——泣きそうになった。
こらえた。
G・クリムゾンさんが「なんでやねん」と言うから。
「……ありがとうございます
「礼は不要じゃ。ただ——続けろ。お前のコツコツを。ワシも——少し、見ていく。見方が変わるかもしれんが
「見ていてください。あと——もし見えたら、教えてください。俺の目には届かないものが、ユグドラには見えているはずなので
「……それは、ワシをお前の参謀にするということか
「情報共有の仲間、ということです
また、沈黙。
「……ちょろいん、とはこういうことか
悠真は少し驚いた。
「それを知っているんですか
「九尾の口癖じゃ。ワシには、個体は見えなかったが——口癖くらいは記録にある
悠真は笑った。
「今回は——ユグドラのことだと思います
「……そうかもしれん
足元の光が、また少し引いた。
声が、遠くなっていく。
「行け。仲間が待っておる
「はい
「出汁の続きは——また、いつか
「作ります。待っていてください
声は消えた。
足元の光も、ゆっくりと消えた。
悠真は南へ向けて、また歩き始めた。
空は——赤黒いままだった。一筋の緑も、まだある。
でも——足元の地面は、少しだけ、柔らかくなっていた。
枯れた土に、微かな湿り気が戻っていた。
(まだ終わっていない)
大いなるものはいる。ユグドラが目覚めた。三勢力はまだ戦っている。
でも——話した。また、話せた。
悠真は籠を背負い直した。
空の鍋が、背中で音を立てた。
帰ったら、また出汁を取ろう。
今度は——ユグドラの分も、どうやったら届けられるか、考えながら。
〈第十三話 了〉




