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蟲獣皇帝ゼロ  作者: 伝説の男前
第一部 運が良ければ

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3/20

第三話 北の気配

一週間、と言われていた。


G・クリムゾンが「一週間だけ置いといたる」と言ったのが、もう十四日前だった。

延長の話は特になかった。ただ誰も追い出さなかった。G・クリムゾンは一度だけ「料理がうまいから、もうちょっとでええ」と言いかけて、「なんでもない」と口をつぐんだ。それ以来、誰も期限の話をしなかった。悠真は毎日三食を作り、物置小屋で寝て、G・クリムゾンの話し相手をした。それだけの日々が続いていた。


今日も今日とて、悠真は朝から食材の調達に出ていた。

害虫連邦の基地の周囲には、独特の生態系が広がっている。人間の感覚では「不気味」な森だが、慣れてくると食材の宝庫だった。苔の一種が旨味を持つこと、特定の昆虫の幼虫が良質な脂肪分を持つこと——こういった発見が積み重なって、悠真の料理の幅はじわじわと広がっていた。


「……ほう」


声がした。


悠真は振り返った。


木の上に、キツネがいた。

正確には、キツネの外見を持つ何かが、太い枝の上に座って悠真を見下ろしていた。銀白色の毛並み。細い目。そして尾が——九本あった。


尾の一本一本が、ゆっくりと、意思を持つように揺れている。


「……お前が、料理をする人間か」


声は老いていた。しかし老衰の老いではなく、長い時間を生きた者特有の、重さのある老い方だった。


「そうです。神代悠真といいます」


「知っておる。G・クリムゾンから話は聞いた」


悠真はキツネを見上げた。九尾。害獣帝国の最高参謀。戦闘力S+。カラス・クロウからそれとなく聞いていた——「うちの参謀は、めったに人前に出ない」と。


「なんで俺のことを」


「ちょろいん」


そう言って、キツネは枝から飛び降りた。

音もなく着地した。体は小さかった——人間の老婆ほどの体躯。しかし九本の尾が広がると、それだけで森の空気が変わった。


「お前のことは少し前から見えておった。ぼんやりとだがな」


「見える、というのは」


「未来視と言えば聞こえはよいが……霧の中に映る影のようなもの、と言った方が正確じゃ。ほとんど役に立たん」


キツネはそう言いながら、悠真の持つ籠の中をのぞいた。食材が詰まっている。


「……その苔、どうするつもりじゃ」


「出汁に使います。旨味が強くて。あとこっちの幼虫は油で揚げると——」


「待て」


キツネが悠真の腕をつかんだ。細い指だった。しかし力は——ない。ただ、引き止めているだけだった。


「……その苔から出汁を取る前に、少しだけワシに分けてもらえんか」


悠真はキツネを見た。


「食べたいんですか」


「……違う。ただ、匂いが」


キツネは言いかけてやめた。そして、少し間を置いてから言った。


「昔、似たような苔を食べたことがある。ずっと昔の話じゃ。今は自分では取れん」


悠真は籠から苔を一掴み取り出して、キツネに差し出した。


「どうぞ。出汁に使う分は残ってますので」


キツネは受け取った。鼻を近づけて、長い時間、匂いを嗅いだ。

それから、一口食べた。


何も言わなかった。

しかし目が、少しだけ遠くを見ていた。



物置小屋に帰ると、G・クリムゾンが待っていた。


「九尾と話したか」


「会いました。森で」


「……あいつが自分から人間に話しかけるなんて、珍しいな」


G・クリムゾンは触覚をぴくぴくさせた。


「あいつは最強主義でな。強い者の側につくのが信条なんや。だから普段はどこかで様子を見とって、めったに動かん」


「それが俺に会いに来た理由はわかりますか」


「さあな。ただ……あいつの未来視に何か見えたんかもしれんな、お前のことが」


悠真は出汁の準備をしながら、北の話を切り出した。


「G・クリムゾンさん、北の気配というのは、具体的にどんな感じのものですか」


G・クリムゾンは少し間を置いてから答えた。


「……斥候が三組、消えた。北の森の奥に入ったまま戻らんかった。生死不明や」


「それは最近の話ですか」


「ここ一ヶ月の話や。害獣側でも同じことが起きとるらしい。シビシネアが不可侵協定の後でこっそり教えてくれた」


悠真は手を止めた。


「害虫と害獣、両方の斥候が消えている」


「そういうことや。人類王国側はどうかわからんが……北の国境付近で、空が変な色になることがあると旅商人から聞いた。赤黒い、虫の群れのような何かが、空を覆うらしい」


悠真は窓の外を見た。緑色の空。この世界の「普通」の空の色。


赤黒い群れ。


(これは……まずいな)


根拠があるわけではなかった。ただ、三勢力全員の斥候が消える、という事実の重さが腹に落ちた。これは普通の脅威ではない。


「G・クリムゾンさん。一つ聞いていいですか」


「なんや」


「もし北の脅威が本当に大きいものだとして——害虫連邦単独で対処できますか」


沈黙。


G・クリムゾンは長い間、答えなかった。

答えないこと自体が、答えだった。



夜になった。


悠真が夕食の片付けをしていると、物置小屋の入り口に影が差した。


九尾だった。


「……夕食は余っておるか」


悠真は少し驚いたが、表情には出さなかった。


「あります。どうぞ入ってください」


キツネは小屋の中に入ってきた。九本の尾を器用に折りたたんで、隅に座った。

悠真は残っていた煮込みを温め直して、器に盛った。苔の出汁が効いている。


キツネは受け取って、一口食べた。

また、何も言わなかった。しかし今度の沈黙は、昼間の「遠くを見る」沈黙とは違った。ただ、食べていた。


「ひとつ聞いていいですか」と悠真は言った。


「なんじゃ」


「未来視で、俺のことが見えた、と言っていましたが——何が見えたんですか」


キツネは箸を止めた。


「ぼんやりしておる。霧の中の影、と言ったじゃろ」


「それはわかってます。ぼんやりでいいので」


キツネはしばらく煮込みをつついてから、


「……終わりと、始まりが、同じ場所にある、ような映像じゃった。それだけじゃ。何が終わって何が始まるのかは、わからん」


「終わりと始まりが同じ場所」


「ワシの未来視はそういうものじゃ。後で振り返ると『ああ、そういうことか』とわかる。見た時点ではさっぱりわからん。役に立たんじゃろ」


「いえ」と悠真は言った。「面白いと思います」


「面白い?」


「未来がはっきり見えたら、それに従うだけになる。ぼんやりしているから、自分で考えなきゃいけない。その方が、たぶん良い判断につながる気がします」


キツネは悠真を見た。細い目が、少しだけ細くなった。


「……ちょろいん」


「え」


「お前のことじゃ。口がうまい」


「そうですか」


「しかし、嘘ではないのがわかる。厄介な人間じゃ」


キツネは残りの煮込みを食べ終えた。器を置いて、立ち上がろうとした。


悠真は言った。


「九尾さん。俺は近いうちに、害獣帝国の本拠地に行こうと思っています」


キツネが動きを止めた。


「……何のために」


「北の気配の話を、正式に共有したい。害虫と害獣と、できれば人類も——全部で情報を持ち寄る場を作りたい」


「お前は使者でも外交官でもない。ただの居候じゃ」


「そうです」


「通してもらえる保証もない」


「ないです」


「なぜ行く」


悠真は少し考えた。


「運が良ければ、なんとかなるかなと思って」


キツネは「……」という顔をした。

長い沈黙の後、


「……一つ、条件がある」


「なんですか」


「この苔の出汁を使った料理を、また作れ。害獣帝国の本拠地に着いたら、まず作れ」


悠真は少し驚いてから、うなずいた。


「わかりました。それが条件なんですか」


「それだけじゃ。ワシが同行する」


「……九尾さんが来てくれるんですか」


「最強主義じゃと言ったじゃろ。今のところ、お前が一番面白そうじゃ。それだけじゃ」


そう言って、キツネは尾を揺らした。


「間違えるなよ。お前のためではない。ワシが見たいから見る。それだけじゃ」


「わかってます」


「ちょろいん」


「それは俺のことですか、それとも九尾さん自身のことですか」


キツネはぴたりと動きを止めた。

しばらくして、


「……両方かもしれん」


そう呟いて、小屋から出ていった。



翌朝、G・クリムゾンに報告した。


「害獣帝国に行きたい。九尾さんが同行してくれると言っています」


「……正気か」


「たぶん」


「あいつが同行するとなると話は別やが……お前、向こうで何をするつもりや」


「料理を作りながら、北の話をする。それだけです」


G・クリムゾンは触覚をぴくぴくさせた。長い沈黙。


やがて、


「……ワシも行く」


「え」


「害虫連邦の総司令が行かんと、話が軽くなるやろ。それに——」


G・クリムゾンは少し間を置いた。


「向こうで料理を作る時、一席やらせてもらえるか。出発前に」


悠真は笑いそうになったが、こらえた。


「もちろんです。喜んで聞きます」


「お前、また笑わんやつやろ」


「でも面白いですよ、G・クリムゾンさんの落語」


G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。しかし触覚が、少しだけはずんでいた。



出発は三日後に決まった。


悠真は夜、物置小屋の窓から北の空を見た。

今は普通の緑色の空だった。星が出ていた——この世界の星は、地球のものより少し大きく見えた。


(北に何かいる)


三勢力全員の斥候を消せるもの。赤黒い群れで空を覆うもの。

悠真にはそれが何なのか、まだわからなかった。

ただ——この世界の誰もが、それを「自分たちだけで対処できる」とは思っていない気がした。口に出さないだけで、G・クリムゾンも、シビシネアも、おそらく九尾も。


(だったら、一緒に考えればいい)


スキルはない。魔力もない。戦闘力はFだ。

でも「一緒に考える場を作る」ことなら、たぶんできる。


悠真は窓を閉めて、明日の出発準備のために食材の確認を始めた。

苔の出汁用の苔は、たっぷりある。


九尾との約束は守るつもりだった。



〈第三話 了〉

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