第三話 北の気配
一週間、と言われていた。
G・クリムゾンが「一週間だけ置いといたる」と言ったのが、もう十四日前だった。
延長の話は特になかった。ただ誰も追い出さなかった。G・クリムゾンは一度だけ「料理がうまいから、もうちょっとでええ」と言いかけて、「なんでもない」と口をつぐんだ。それ以来、誰も期限の話をしなかった。悠真は毎日三食を作り、物置小屋で寝て、G・クリムゾンの話し相手をした。それだけの日々が続いていた。
今日も今日とて、悠真は朝から食材の調達に出ていた。
害虫連邦の基地の周囲には、独特の生態系が広がっている。人間の感覚では「不気味」な森だが、慣れてくると食材の宝庫だった。苔の一種が旨味を持つこと、特定の昆虫の幼虫が良質な脂肪分を持つこと——こういった発見が積み重なって、悠真の料理の幅はじわじわと広がっていた。
「……ほう」
声がした。
悠真は振り返った。
木の上に、キツネがいた。
正確には、キツネの外見を持つ何かが、太い枝の上に座って悠真を見下ろしていた。銀白色の毛並み。細い目。そして尾が——九本あった。
尾の一本一本が、ゆっくりと、意思を持つように揺れている。
「……お前が、料理をする人間か」
声は老いていた。しかし老衰の老いではなく、長い時間を生きた者特有の、重さのある老い方だった。
「そうです。神代悠真といいます」
「知っておる。G・クリムゾンから話は聞いた」
悠真はキツネを見上げた。九尾。害獣帝国の最高参謀。戦闘力S+。カラス・クロウからそれとなく聞いていた——「うちの参謀は、めったに人前に出ない」と。
「なんで俺のことを」
「ちょろいん」
そう言って、キツネは枝から飛び降りた。
音もなく着地した。体は小さかった——人間の老婆ほどの体躯。しかし九本の尾が広がると、それだけで森の空気が変わった。
「お前のことは少し前から見えておった。ぼんやりとだがな」
「見える、というのは」
「未来視と言えば聞こえはよいが……霧の中に映る影のようなもの、と言った方が正確じゃ。ほとんど役に立たん」
キツネはそう言いながら、悠真の持つ籠の中をのぞいた。食材が詰まっている。
「……その苔、どうするつもりじゃ」
「出汁に使います。旨味が強くて。あとこっちの幼虫は油で揚げると——」
「待て」
キツネが悠真の腕をつかんだ。細い指だった。しかし力は——ない。ただ、引き止めているだけだった。
「……その苔から出汁を取る前に、少しだけワシに分けてもらえんか」
悠真はキツネを見た。
「食べたいんですか」
「……違う。ただ、匂いが」
キツネは言いかけてやめた。そして、少し間を置いてから言った。
「昔、似たような苔を食べたことがある。ずっと昔の話じゃ。今は自分では取れん」
悠真は籠から苔を一掴み取り出して、キツネに差し出した。
「どうぞ。出汁に使う分は残ってますので」
キツネは受け取った。鼻を近づけて、長い時間、匂いを嗅いだ。
それから、一口食べた。
何も言わなかった。
しかし目が、少しだけ遠くを見ていた。
◇
物置小屋に帰ると、G・クリムゾンが待っていた。
「九尾と話したか」
「会いました。森で」
「……あいつが自分から人間に話しかけるなんて、珍しいな」
G・クリムゾンは触覚をぴくぴくさせた。
「あいつは最強主義でな。強い者の側につくのが信条なんや。だから普段はどこかで様子を見とって、めったに動かん」
「それが俺に会いに来た理由はわかりますか」
「さあな。ただ……あいつの未来視に何か見えたんかもしれんな、お前のことが」
悠真は出汁の準備をしながら、北の話を切り出した。
「G・クリムゾンさん、北の気配というのは、具体的にどんな感じのものですか」
G・クリムゾンは少し間を置いてから答えた。
「……斥候が三組、消えた。北の森の奥に入ったまま戻らんかった。生死不明や」
「それは最近の話ですか」
「ここ一ヶ月の話や。害獣側でも同じことが起きとるらしい。シビシネアが不可侵協定の後でこっそり教えてくれた」
悠真は手を止めた。
「害虫と害獣、両方の斥候が消えている」
「そういうことや。人類王国側はどうかわからんが……北の国境付近で、空が変な色になることがあると旅商人から聞いた。赤黒い、虫の群れのような何かが、空を覆うらしい」
悠真は窓の外を見た。緑色の空。この世界の「普通」の空の色。
赤黒い群れ。
(これは……まずいな)
根拠があるわけではなかった。ただ、三勢力全員の斥候が消える、という事実の重さが腹に落ちた。これは普通の脅威ではない。
「G・クリムゾンさん。一つ聞いていいですか」
「なんや」
「もし北の脅威が本当に大きいものだとして——害虫連邦単独で対処できますか」
沈黙。
G・クリムゾンは長い間、答えなかった。
答えないこと自体が、答えだった。
◇
夜になった。
悠真が夕食の片付けをしていると、物置小屋の入り口に影が差した。
九尾だった。
「……夕食は余っておるか」
悠真は少し驚いたが、表情には出さなかった。
「あります。どうぞ入ってください」
キツネは小屋の中に入ってきた。九本の尾を器用に折りたたんで、隅に座った。
悠真は残っていた煮込みを温め直して、器に盛った。苔の出汁が効いている。
キツネは受け取って、一口食べた。
また、何も言わなかった。しかし今度の沈黙は、昼間の「遠くを見る」沈黙とは違った。ただ、食べていた。
「ひとつ聞いていいですか」と悠真は言った。
「なんじゃ」
「未来視で、俺のことが見えた、と言っていましたが——何が見えたんですか」
キツネは箸を止めた。
「ぼんやりしておる。霧の中の影、と言ったじゃろ」
「それはわかってます。ぼんやりでいいので」
キツネはしばらく煮込みをつついてから、
「……終わりと、始まりが、同じ場所にある、ような映像じゃった。それだけじゃ。何が終わって何が始まるのかは、わからん」
「終わりと始まりが同じ場所」
「ワシの未来視はそういうものじゃ。後で振り返ると『ああ、そういうことか』とわかる。見た時点ではさっぱりわからん。役に立たんじゃろ」
「いえ」と悠真は言った。「面白いと思います」
「面白い?」
「未来がはっきり見えたら、それに従うだけになる。ぼんやりしているから、自分で考えなきゃいけない。その方が、たぶん良い判断につながる気がします」
キツネは悠真を見た。細い目が、少しだけ細くなった。
「……ちょろいん」
「え」
「お前のことじゃ。口がうまい」
「そうですか」
「しかし、嘘ではないのがわかる。厄介な人間じゃ」
キツネは残りの煮込みを食べ終えた。器を置いて、立ち上がろうとした。
悠真は言った。
「九尾さん。俺は近いうちに、害獣帝国の本拠地に行こうと思っています」
キツネが動きを止めた。
「……何のために」
「北の気配の話を、正式に共有したい。害虫と害獣と、できれば人類も——全部で情報を持ち寄る場を作りたい」
「お前は使者でも外交官でもない。ただの居候じゃ」
「そうです」
「通してもらえる保証もない」
「ないです」
「なぜ行く」
悠真は少し考えた。
「運が良ければ、なんとかなるかなと思って」
キツネは「……」という顔をした。
長い沈黙の後、
「……一つ、条件がある」
「なんですか」
「この苔の出汁を使った料理を、また作れ。害獣帝国の本拠地に着いたら、まず作れ」
悠真は少し驚いてから、うなずいた。
「わかりました。それが条件なんですか」
「それだけじゃ。ワシが同行する」
「……九尾さんが来てくれるんですか」
「最強主義じゃと言ったじゃろ。今のところ、お前が一番面白そうじゃ。それだけじゃ」
そう言って、キツネは尾を揺らした。
「間違えるなよ。お前のためではない。ワシが見たいから見る。それだけじゃ」
「わかってます」
「ちょろいん」
「それは俺のことですか、それとも九尾さん自身のことですか」
キツネはぴたりと動きを止めた。
しばらくして、
「……両方かもしれん」
そう呟いて、小屋から出ていった。
◇
翌朝、G・クリムゾンに報告した。
「害獣帝国に行きたい。九尾さんが同行してくれると言っています」
「……正気か」
「たぶん」
「あいつが同行するとなると話は別やが……お前、向こうで何をするつもりや」
「料理を作りながら、北の話をする。それだけです」
G・クリムゾンは触覚をぴくぴくさせた。長い沈黙。
やがて、
「……ワシも行く」
「え」
「害虫連邦の総司令が行かんと、話が軽くなるやろ。それに——」
G・クリムゾンは少し間を置いた。
「向こうで料理を作る時、一席やらせてもらえるか。出発前に」
悠真は笑いそうになったが、こらえた。
「もちろんです。喜んで聞きます」
「お前、また笑わんやつやろ」
「でも面白いですよ、G・クリムゾンさんの落語」
G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。しかし触覚が、少しだけはずんでいた。
◇
出発は三日後に決まった。
悠真は夜、物置小屋の窓から北の空を見た。
今は普通の緑色の空だった。星が出ていた——この世界の星は、地球のものより少し大きく見えた。
(北に何かいる)
三勢力全員の斥候を消せるもの。赤黒い群れで空を覆うもの。
悠真にはそれが何なのか、まだわからなかった。
ただ——この世界の誰もが、それを「自分たちだけで対処できる」とは思っていない気がした。口に出さないだけで、G・クリムゾンも、シビシネアも、おそらく九尾も。
(だったら、一緒に考えればいい)
スキルはない。魔力もない。戦闘力はFだ。
でも「一緒に考える場を作る」ことなら、たぶんできる。
悠真は窓を閉めて、明日の出発準備のために食材の確認を始めた。
苔の出汁用の苔は、たっぷりある。
九尾との約束は守るつもりだった。
〈第三話 了〉




