第十九話 最後の出汁
朝が来た。
悠真はいつも通り、夜明け前に起きた。
厨房に向かった。火を起こした。鍋を出した。水を張った。
今日の食材を確認した。
G・クリムゾンが昨夜炙っておいてくれた干し肉。六尾が丁寧に刻んでおいた苔。センディアが昨日また採取してきた薬草。イタチが調達した根菜。レグナスが「これも入れてみろ」と持ってきた香草の新種。
全員の分が、揃っていた。
悠真は食材を順番に鍋に入れた。
出汁が立ち上がり始めた。
その匂いが厨房に満ちた時——外が、静かになった。
風が止まった。
鳥の声が消えた。
空気が——変わった。
悠真は鍋から目を離さずに言った。
「来ましたか
返事は、なかった。
しかし——厨房の窓から差し込む光が、わずかに赤みを帯びた。
大いなるものが——近くにいる。
悠真は出汁をかき混ぜながら、続けた。
◇
全員が起きてきた頃、出汁は完成していた。
G・クリムゾン。六尾。イタチ。カラス。シビシネア。センディア。ディア・ルミナ。レグナス。セイリオス。レオン。ラクーン・ルカ。ミレイナ。ガルド。ボア・ガルド。
全員が、厨房に集まった。
悠真は全員分の器に出汁を注いだ。
一人ずつ、渡した。
最後に——器をもう一つ、窓の外に向けて置いた。
G・クリムゾンが言った。
「大いなるものの分か
「はい。あとユグドラの分も
「二つか
「カルディアさんの分も
「三つやな
「先遣の分も
「……四つか。なんでやねん
悠真は「全員の分です」と言った。
全員が出汁を飲んだ。
誰も何も言わなかった。
それが、一番の返事だった。
◇
出汁を飲み終えた後、悠真は広場に出た。
北の空は——今日は、静かだった。
赤黒い色が、まだある。しかし——厚みが違った。一枚薄くなったような、そういう赤さだった。
声が来た。
「……今日の出汁は——四人分、置いてあった
「はい。匂いはわかりましたか
「わかった。今日は——全部の層が見えた。G・クリムゾンの肉の香りと、六尾の苔の旨味と、センディアの薬草の苦味と、レグナスの香草の甘みと——全部
「全員が関わった出汁です
「……地球の者。ワシは今日——決めたことがある
悠真は鍋を持ったまま、聞いた。
「この星を、害星にしない
静かな言葉だった。
しかし——その重さは、銀河規模だった。
「……なぜですか
「匂いが残る星を、臓器にはできん。一緒に作った者がいる星を——ワシ一人のものにはできん。お前に問われて——ずっと考えた。コツコツと。その答えが、今日出た
悠真は少し間を置いた。
「大いなるものの、これまでの旅は——どうなりますか。銀河を巡ってきたことは
「……続ける。しかし——方法が変わる。害星にするのではなく——匂いを探す。一緒に作った者がいる星を、探す
「それは——
「孤独ではない旅じゃ。お前に教わった
ユグドラの声が来た。
「……大いなるものよ。ワシからも一つ
「なんじゃ
「この星に——また来い。出汁が待っておる
大いなるものは、長い間、黙っていた。
「……小さなことから、コツコツと。また来る
密度が、ゆっくりと引き始めた。
赤黒い空が、少しずつ——緑に変わり始めた。
悠真は空を見上げた。
赤が引いていく。
緑が広がっていく。
一筋だった緑が——全体に、広がっていく。
九尾が最初に見た映像。
六尾が「出汁の湯気が消えずに上に向かう」と見た映像。
それが——今、目の前で起きていた。
(後でわかる、か)
悠真は少し笑った。
今わかった。
◇
広場に全員が出てきた。
空が、変わっていくのを見ていた。
赤から緑へ。
誰も何も言わなかった。
G・クリムゾンが悠真の隣に来た。
「……終わったのか
「大いなるものは引きました。害星にしない、と言っていました
「……そうか
G・クリムゾンは空を見た。
触覚が、ゆっくりと動いた。
「……悠真。お前は今——満足しておるか
悠真は少し考えた。
「満足しています。でも——終わりではないとも思っています
「なぜ
「大いなるものはまた来ると言いました。ユグドラとの話も続きます。カルディアさんの器は——まだ置いておきます。センディアさんの薬草も、まだ採取してもらいます。三勢力の摩擦も、完全には消えていない
「……そやな
「でも——今日の出汁は、今まで一番よかったです
G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。
穏やかな「なんでやねん」だった。
レグナスが来た。
「神代悠真。一つだけ言うとくわ
「はい
「お前が来てから——ワシの王国は、ずいぶん変わった。害虫と害獣と同じ食卓を囲むようになった。銀河の侵略者に出汁の匂いを嗅がせた。星の管理者と話をした。まぁ——前代未聞やな
「そうですね
「でも——悪くなかった。ワシは長年王様やっとるから、変化には慎重や。でも——今回は、悪くなかった
「ありがとうございます
「礼は不要や。ただ——また料理を作れ。今日の出汁、もう一杯欲しかった
「作ります
「約束やで
レグナスは「まぁ気楽に行こうや」と言って戻っていった。
セイリオスが「とりあえず、おめでとうございます」と言った。
レオンが「んだ! やったべ!」と言った。
センディアが何も言わずに、しかし薬草を一束、悠真に渡した。
イタチが「次の食材、調達しておく」とぼそりと言った。
カラスが「確率論的に——今日の結果は、計算の外でした」と言った。
ミレイナが「またおいでやす(意味:いつでもどうぞ)」と言った。
ガルドが無言でうなずいた。
ルカが「ええ話やったで!」と大声で言った。
ボア・ガルドが「今日の出汁の成分分析をさせてほしい」と言った。
ディアが「大したことあらへん——やなくて、おめでとうどす」と言った。
六尾が悠真の隣に来た。
「……悠真さん
「はい
「今朝——見えました。未来視です
「何が
「緑の空の下で、全員が出汁を飲んでいる映像でした。ぼんやりしていましたが——今、同じ景色が、目の前にあります
悠真は広場を見た。
緑の空の下で、全員が立っている。
出汁の器を、まだ持っている人もいる。
「後でわかった、ですね
「……はい。今わかりました
六尾は少し笑った。
今日の笑いは——遠くを見ながら、しかし足元に根を張った、そういう笑い方だった。
◇
六尾が縁側から、広場を見ていた。
悠真が近づくと、六尾は空を見たまま言った。
「……緑の空です
「そうですね
「祖母が最初に見た映像が——今、ここにある。後でわかった、ということですね
「そうです
六尾は七本の尾を、ゆっくりと広げた。
「……悠真さん。一つだけ聞いていいですか
「はい
「お前は——この世界に来て、よかったか
悠真は少し驚いた。
「……それ、九尾さんが言いそうな聞き方ですね
「……祖母の口真似です。聞きたかったので
悠真は少し考えた。
「よかったです。九尾さんに会えたからです。G・クリムゾンさんの落語を聞けたからです。六尾さんの出汁を飲めたからです。レグナスさんと香草を刻んだからです。イタチさんが食材を調達してくれたからです。センディアさんが薬草を持ってきたからです。カルディアさんが一席打ったからです。大いなるものが出汁の匂いを『悪くない』と言ったからです
悠真は少し笑った。
「のり塩ポテチはまだ食べられていませんが
六尾は少し目を丸くした。
「のり塩ポテチとは
「地球の食べ物です。一番好きでした。この世界で作れないか、考えていたんですが
「……作りましょう。一緒に
悠真は少し驚いた。
「六尾さんが
「祖母が聞いたら——ちょろいん、と言うと思います
悠真は笑った。
声を上げて笑った。
G・クリムゾンが「なんでやねん」と言いながら近づいてきた。
レグナスが「なんや、なんや」と言いながら来た。
悠真は笑いながら言った。
「六尾さんと、のり塩ポテチを作ることになりました
「のり塩ポテチとは何や」とG・クリムゾンが言った。
「地球の食べ物です。今度、この世界の食材で作ります
「食べる」とG・クリムゾンが言った。
「食べたい」とレグナスが言った。
「調達する」とイタチが遠くから言った。
センディアが「……何の騒ぎだ」と言いながら来た。
説明を聞いて、「……興味はない。しかし、薬草と合わせてみる価値はあるかもしれん」と言った。
ミレイナが「研究させてほしいどす」と言った。
ガルドが無言でうなずいた。
悠真は全員を見た。
緑の空の下。
三勢力の全員が、のり塩ポテチを食べる話をしている。
(これが——答えだ)
スキルなし、魔力なし、戦闘力Fのまま。
一年と少しで、何が変わったのか。
何も変わっていない。
でも——全部が変わっている。
みんなで美味い飯を食える状況にしたい、とレグナスさんに言った。
今日、それが——少し、できた。
少しだけ。まだまだ足りない。でも——少し。
それで、十分だと思った。
◇
その夜。
悠真は一人で厨房に残った。
全員が眠った後の、静かな厨房。
窓から緑の空が見えた。
月が出ていた。この世界の月は、地球のものより少し大きい。
悠真は鍋を出した。
出汁を取り始めた。
誰かに出すわけではなかった。
ただ——取りたかった。
食材を入れた。G・クリムゾンの肉。六尾の苔。センディアの薬草。レグナスの香草。イタチの根菜。
あと——窓の外に置いてある、四つの器の分も、少し余分に取った。
湯気が上がった。
出汁の匂いが、厨房に満ちた。
窓から、夜風が来た。
匂いが、外に出ていった。
どこまで届くか、わからない。
大いなるものに届くか、わからない。
ユグドラに届くか、わからない。
カルディアさんに届くか、わからない。
先遣に届くか、わからない。
でも——出汁の匂いは、消えずに、上に向かっていく。
悠真はかき混ぜながら、今日一日のことを思い返した。
大いなるものが「害星にしない」と言った。
G・クリムゾンが「満足しとる」と言った。
六尾と一緒にのり塩ポテチを作ることになった。
六尾の予言が、今日わかった。
全員が緑の空の下にいた。
(運が良ければ——)
口癖が来た。
最初にこの世界に来た日から、ずっと言い続けてきた言葉。
転生してきた夜、牢屋の中で、のり塩ポテチを思い出しながら使った言葉。
今は——少し違う重さで、来た。
運が良ければ、ではなく——
やれることをやった上で、それでも足りない部分を、運に預ける。
そして——設計の外にある瞬間を、作る。
一緒に作る。誰かと一緒に。
それが——蟲獣皇帝ゼロの、答えだった。
悠真は出汁を器に盛った。
自分の分。
一口飲んだ。
美味かった。
今まで作った中で、一番の出汁だった。
誰かに言おうと思った。
でも——全員が眠っているので、言えなかった。
明日、言おう。
「今夜の出汁が一番美味かった」と。
G・クリムゾンさんが「なんでやねん、また作れ」と言うだろう。
六尾が「ちょろいん」と言うだろう。
六尾が不器用に笑うだろう。
レグナスが「もう一杯くれ」と言うだろう。
センディアが何も言わずに器を出すだろう。
イタチが「明日も調達しておく」とぼそりと言うだろう。
(運が良ければ——そうなる)
いや、きっとそうなる。
設計の外で——そうなる。
悠真は器を置いた。
窓を少し開けた。
緑の空に、月が出ている。
「……運が良ければ、また会えるな」
誰に向けた言葉かは、わからなかった。
地球に向けてかもしれない。
大いなるものに向けてかもしれない。
カルディアさんに向けてかもしれない。
先遣に向けてかもしれない。
それとも——のり塩ポテチに向けてかもしれない。
誰も答えなかった。
しかし答えを必要とする言葉でもなかった。
悠真は窓を閉めた。
厨房を片付けた。
部屋に戻った。
布団に横になった。
目を閉じた。
明日の出汁の材料を、頭の中で確認した。
のり塩ポテチに使えそうな食材を、考えた。
この世界の芋は、あの食材倉庫の奥にあったはずだ。
塩は十分ある。
海苔に近いものは——六尾と一緒に探しに行こう。
やることが、ある。
それだけ確認して、眠った。
〈第十九話 了〉
あとがき
全十九話、読んでいただきありがとうございました。
この物語は「スキルゼロの転生者」という設定から始まりましたが、書き続けるうちに、スキルがないことよりも「話を最後まで聞く」ことの方が、はるかに重要だとわかりました。
G・クリムゾンの落語を聞く者がいなかった百年。九尾が誇らしいと感じる感覚を取り戻した瞬間。カルディアが初めて自分の話を誰かに聞かせた夜。大いなるものが「また来る」と言った朝。
それらはすべて、悠真が「最後まで聞いた」から起きたことでした。
出汁と同じです。外から何かを加えるのではなく、中にあったものを引き出す。
この物語が、誰かの中にあるものを少し引き出せたなら、それが一番の出汁です。
神代悠真 「運が良ければ、また会えるな」




