第十八話 カルディアの一席
G・クリムゾンが「カルディアのところへ行く」と言い出したのは、大いなるものとの対話から三日後だった。
朝食の最中だった。
全員が器を持ったまま、G・クリムゾンを見た。
「……今から、ですか
「今から、や。カルディアは北の霧の中にいる。大いなるものが動きを止めとる間は——近づける
「一人で行くつもりですか
「一席打ちに行くだけや。戦いに行くわけやない
悠真は少し考えた。
「俺も行きます
「お前は——
「一席打つなら、聞く人間が必要です。俺が聞きます
G・クリムゾンは触覚を長い時間、動かした。
「……カルディアは危ない。気が変わればワシも危ない
「それはわかっています
「なんで来る
「G・クリムゾンさんが一席打つ時は、最後まで聞くと決めているので
G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。
しかし止めなかった。
七尾が立ち上がった。
「……私も行きます
「七尾さんが
「今朝、ちらっと見えました。三人で北へ歩く映像が。祖母が言っていました——見えたなら、そこにいるべきだと
九尾が縁側から聞いていた。
「……あいつがそう言っておるなら、行け。ワシが言いそうなことを言う
七尾は少し笑った。
三名で、北へ向かった。
◇
霧の境界を越えると、空気が変わった。
しかし今日は——前と違った。
赤黒い霧が、薄かった。大いなるものが動きを止めている影響か、あるいは別の理由か——霧が、呼吸しているように揺れていた。
三十分ほど歩くと、G・クリムゾンが足を止めた。
「……ここや
何もない場所だった。
霧の中の、少し開けた場所。木の根が地面を這っている。空が薄く見える。
G・クリムゾンは霧に向かって言った。
「カルディア。来とるのはわかっとる。一席打ちに来た。聞いてくれるか
沈黙。
霧が揺れた。
やがて——カルディアが現れた。
前回より、小さかった。
意図的に小さくしているのか、それとも——何か別の理由があるのか。
八本の脚が、地面に触れる。しかし今日は——枯れ方が、前より遅かった。
「……来たか、G・クリムゾン
「来た。一席打たせてくれ
「……落語を、ワシに
「そうや。前に言った約束や
カルディアは悠真と七尾を見た。
「……地球の者も来ておる
「一席聞きに来ました。G・クリムゾンさんの落語は、聞く人間が必要なので
「……もう一人は
「七尾と申します。九尾の孫です
カルディアは七尾を見た。長い時間、見た。
「……九尾の孫か。九尾は生きておるか
「生きています。七本になりましたが
「……そうか
カルディアの声が、少し変わった。
圧力は変わらない。しかし——奥に、何かが混じった。
「G・クリムゾン。一つだけ聞いていいか
「なんや
「……お前は今、満足しておるか
悠真は少し驚いた。
前回、温泉で九尾がG・クリムゾンに同じことを聞いた。
G・クリムゾンは少し間を置いた。
「……今日は、まだや。一席打ってからや
「……そうか
「カルディア。お前は今——満足しておるか
カルディアは答えなかった。
長い沈黙。
「……わからん。満足という概念を——ワシはまだ持っていない
「せやから、一席打つ。聞いた後で——わかるかもしれん
カルディアは何も言わなかった。
しかし——動かなかった。去らなかった。
それが、答えだった。
◇
G・クリムゾンは六本腕を構えた。
霧の中で、独特の落語体勢を作った。
そして——語り始めた。
今日の話は——二匹のゴキブリの話だった。
一匹は語ることが好きで、一匹は強くなることが好きだった。
ある日、二匹は分かれた。語ることが好きな方は語り続け、強くなることが好きな方は強くなり続けた。
語る方は誰にも聞いてもらえなかった。強い方は誰も止められなかった。
百年後——語る方は、たった一人だけ、最後まで聞いてくれる者を見つけた。
強い方は、誰にも止められないまま、しかし——何かが足りないと感じていた。
ある夜、強い方は語る方のところへ行って言った。
「一席打ってくれ」と。
語る方は驚いて、「お前が聞くのか」と聞いた。
強い方は「わからん。ただ——聞きたいと思った」と言った。
語る方は一席打った。
長くて、脂っこくて、オチが五回あった。
強い方は最後まで聞いた。
笑わなかった。
しかし——去らなかった。
語り終えた後、語る方が聞いた。「どうやった」と。
強い方はしばらく黙って、それから言った。
「……わからん。でも——また聞きたいと思った」
語る方は「なんでやねん」と言った。
強い方は「なんでやねんとはなんだ」と言った。
語る方は「ええ意味や」と言った。
それがオチだった。
G・クリムゾンは六本腕を下ろした。
霧の中が、静かだった。
◇
カルディアは——動かなかった。
長い時間、動かなかった。
赤い複眼が、G・クリムゾンを見ていた。
やがて。
「……今の話は
「なんや
「……ワシとお前の話か
「そうや
「……強い方が、ワシか
「そうや
「……語る方が、お前か
「そうや
カルディアはまた長い間、黙った。
「……強い方は——何かが足りないと感じていた、と言った
「言った
「……ワシは、感じておる。何かが——ずっと足りない。宇宙統一が目的で、コツコツとやってきた。しかし——何かが足りない。それが何かが、わからなかった
G・クリムゾンは触覚を動かした。
「……わかったか、今
カルディアは長い間、答えなかった。
「……わからん。しかし——今日の話を聞いて、少し、動いたものがある。ワシの中で。何が動いたかは——まだわからん
「それでええ。わからんでええ。動いたなら——十分や
「……なぜ
「ワシも百年間、わからんかった。落語を聞いてくれる者が現れるまで。わからんまま続けた。その間に——何かが積み重なっとった。わからんくても、積み重なる
カルディアは悠真を見た。
「……地球の者
「はい
「お前が——G・クリムゾンの落語を最後まで聞いた。それが、今日につながった
「G・クリムゾンさんの落語が面白かったので
「……笑わなかったのに、面白かったのか
「笑えなかったけど、面白かったです。笑いと面白さは——別のものだと思っているので
カルディアはまた長い間、黙った。
「……ワシは、今日——G・クリムゾンの話を聞いた。笑わなかった。しかし
カルディアの声が、少し変わった。
「……また聞きたいと思った
霧の中が、静かになった。
G・クリムゾンの触覚が——止まった。
長い時間、止まっていた。
それから、ゆっくりと動いた。
「……カルディア
「なんだ
「ええ意味で——なんでやねん
カルディアは、また黙った。
しかし今回の沈黙は——前と違った。
圧力がなかった。重さがなかった。
ただ——静かだった。
「……なんでやねん、とは——どういう意味だ
「ええ意味や、と言った。説明は難しい。ただ——ええ意味や
「……そうか
悠真は鍋を出した。
出汁を作り始めた。
G・クリムゾンが「ここで作るのか」と言った。
「一席打ち終わったら、腹が減ると思って
「お前は本当に——なんでやねん
カルディアが、悠真の手元を見ていた。
「……それが、出汁か
「はい。食べられないのはわかっています。でも——匂いはわかりますよね
「……わかる
「今日は——G・クリムゾンさんのために作ります。一席打ち終えた後の出汁は、一番美味しいので
G・クリムゾンが「なんでやねん」と言った。照れている声だった。
カルディアは——黙って、出汁の作られる様子を見ていた。
八本の脚が、地面に触れる。しかし——枯れていなかった。
悠真は気づいていたが、何も言わなかった。
◇
出汁ができた。
悠真はG・クリムゾンに器を渡した。
七尾にも渡した。
自分の分も持った。
そしてもう一つの器を——カルディアの前に置いた。
「食べられなくても、匂いはわかる、とのことなので
カルディアは器を見た。
長い時間、見た。
「……前回も、お前はこうした
「はい。毎回置いています
「なぜ毎回
「いつか——わかるかもしれないので
「何が
「一緒に食べる、ということの意味が
カルディアはまた、器を見た。
「……G・クリムゾン。一つだけ聞く
「なんや
「……お前が落語を続けてきたのは——誰かに聞いてほしかったからか
「……そうや
「ずっと、誰かに
「ずっと、な。百年間。聞いてくれる者がおらんかった。それでも続けた。やめられんかった
「……なぜやめられなかった
G・クリムゾンは少し考えた。
「……わからん。ただ——やめたら、もっと何かが足りなくなる気がした。続けとったら、いつか誰かが聞いてくれると思った。理由はなかった。ただ、そう思った
カルディアは長い間、黙っていた。
「……ワシが宇宙統一を目指してきたのも——同じかもしれん
「同じ?
「やめたら、何かが足りなくなる気がした。続けとったら、いつか満たされると思った。しかし——満たされなかった。何百年続けても——何かが足りないままだった
G・クリムゾンは触覚を動かした。
「……カルディア。それは——誰かに聞いてもらえなかったから、かもしれんな
「……聞いてもらう
「宇宙統一がしたい、という話を。誰かに聞いてもらったことがあるか
カルディアは——答えなかった。
答えられなかった。
悠真は出汁を一口飲みながら、静かに言った。
「カルディアさん。俺が聞きます
カルディアが悠真を見た。
「宇宙統一がしたい理由を——教えてもらえますか。聞きます。最後まで
カルディアは長い間、悠真を見た。
赤い複眼が——揺れた。
「……ワシの話を、聞くのか
「聞きます
「なぜ
「G・クリムゾンさんの落語と同じです。聞きたいので
カルディアは——また、長い間、黙った。
霧が揺れた。
風もないのに、霧が揺れた。
「……ワシは——ずっと、孤独だった
静かな言葉だった。
圧力がなかった。重さがなかった。
ただ——静かに、落ちた。
「銀河を支配しても、孤独だった。四天害の中でも、孤独だった。宇宙統一すれば——満たされると思った。しかし、なぜ満たされると思ったのかが——わからなかった
悠真は黙って聞いた。
「G・クリムゾンが落語を誰かに聞かせたかったように——ワシも、何かを——誰かに、聞かせたかったのかもしれん。しかし、ワシには落語がなかった。宇宙統一しか、なかった
G・クリムゾンの触覚が、静かに揺れた。
「……カルディア
「なんだ
「お前、今——一席打ったな
カルディアは止まった。
「……一席?
「落語や。話して——誰かに聞いてもらった。それが落語の本質や。形は関係ない
カルディアは長い間、黙っていた。
悠真は言った。
「G・クリムゾンさん。カルディアさんの一席を聞いて——どうでしたか
「……
G・クリムゾンは少し間を置いた。
「……笑わんかった。でも——よかった。聞けて
「俺もです
七尾が静かに言った。
「……私もです
カルディアは——三人を見た。
一人ずつ、見た。
そして——カルディアの八本の脚が、地面に触れた。
枯れなかった。
悠真は、それを見た。
何も言わなかった。
◇
帰り道、G・クリムゾンが悠真に言った。
「……今日の出汁は、どうやった
「美味しかったです。一席打った後に飲む出汁は、特別でした
「なんでやねん——ありがとうな
「こちらこそ
G・クリムゾンは触覚をゆっくり動かした。
「……カルディアが、脚で地面を枯らさなかった
「気づいていましたか
「気づいとった。お前も気づいとったやろ
「はい
「何も言わんかったな
「言う必要がないと思ったので
G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。
温かい「なんでやねん」だった。
七尾が二人の後ろを歩きながら言った。
「……今日、また見えました
「未来視ですか
「はい。カルディアさんが——出汁の器を持っている映像でした。食べているのか、ただ持っているのか、やはりわかりませんでした。でも——持っていました
「後でわかりますね
「……はい。後でわかります
七尾は少し笑った。
今日の七尾の笑いは——少し、遠くを見ていた。
九尾に似た笑い方だった。
悠真はそれに気づいて、何も言わなかった。
◇
迎賓館に帰ると、九尾が縁側で待っていた。
三人の顔を見て、目を細めた。
「……どうだった
「G・クリムゾンさんが一席打ちました。カルディアさんが聞きました
「笑ったか
「笑いませんでした
「でも
「また聞きたいと言いました
九尾は少し間を置いた。
「……そうか
七本の尾が、静かに揺れた。
「カルディアは——孤独だったじゃろ
「そう言っていました
「……強くなりすぎた者は、孤独になる。ワシも——長く生きすぎて、孤独だった。G・クリムゾンも——誰にも聞いてもらえなくて、孤独だった
九尾は悠真を見た。
「お前は——孤独か
悠真は少し考えた。
「今は——そうでもないです
「なぜ
「G・クリムゾンさんが落語を打って、九尾さんが出汁を飲んで、七尾さんが未来視を教えてくれるので
「……そうか
「九尾さんは
「……今は——そうでもない
九尾は細い目をさらに細くした。
「七尾が——遠くを見る目をするようになってきた
「帰り道で気づきました
「あいつは——不器用じゃが、成長するのが早い。ワシには似ていないが——ワシより、いい参謀になるかもしれん
七尾が聞いていて、少し赤くなった。
「……祖母がそう言うのは、初めてです
「一回しか言わん。覚えておけ
七尾は「はい」と言った。
不器用に、しかし真剣に。
G・クリムゾンが言った。
「……九尾。一つだけ聞いていいか
「なんじゃ
「今日の一席——よかったと思うか
九尾は少し間を置いた。
「……よかった。聞けなかったが——帰ってきた三人の顔を見て、わかった
「次は九尾も来るか
「……動けるようになったら、考える
「温泉落語、やな。カルディアも来るかもしれん
「……カルディアが湯に浸かれるかどうかは
「まだわからんな
九尾とG・クリムゾンが、同時に「なんでやねん」と言った。
一拍置いて、二人とも止まった。
悠真は笑った。
七尾も笑った。
G・クリムゾンが「なんでやねん」とまた言った。今度は悠真と七尾に向けた「なんでやねん」だった。
九尾が声を出さない笑い方で、笑っていた。
縁側に、夕暮れの光が差し込んでいた。
北の空の赤みが、今日は遠かった。
悠真は厨房に向かった。
夕食の出汁を取りに。
今日の出汁には——何を入れようか。
G・クリムゾンが炙った肉。七尾が刻んだ苔。センディアの薬草。
あと——カルディアさんの分の器も、置いておこう。
届くかどうかはわからない。
でも——置いておくことが、大事だと思うから。
〈第十八話 了〉




