第十五話 温泉
温泉に行こう、と言い出したのはG・クリムゾンだった。
打ちのめされた夜から五日が経った朝、悠真が出汁を取っていると、G・クリムゾンが厨房に来て言った。
「今日、温泉に行かへんか
悠真は鍋をかき混ぜる手を止めた。
「今日ですか
「今日や。大いなるものはまだ動いとらん。カラスの観測では、三日は動かんと。せやったら——今日しかないと思って
悠真は少し考えた。
「北の温泉ですか
「そうや。封じが解けてから、ずっと行けんかった。せやからずっと、行きたかった
悠真はG・クリムゾンを見た。触覚がかすかに動いている。楽しみにしている顔だった——外骨格に表情は読みにくいが、この一年でわかるようになっていた。
「行きましょう
「ええか
「約束でしたから
G・クリムゾンの触覚が、大きく動いた。
「……一席、打っていいか
「温泉で打つんですか
「湯に浸かりながら打つのが夢やったんや
「聞きます。最後まで
G・クリムゾンは「なんでやねん」と言った。今回は、純粋に嬉しい「なんでやねん」だった。
◇
出発は昼前になった。
最初は二人で行くつもりだったが、気づけば人数が増えていた。
六尾が「私も行っていいですか」と言った。
イタチが無言で荷物を持った。
ラクーン・ルカが「ワシも行くで!」と言って誰も止めなかった。
ディア・ルミナが「外の空気、気持ちいいどすよ」と言いながらついてきた。
気づけば七名の一行になっていた。
G・クリムゾンが「なんでやねん」と言った。しかし止めなかった。
悠真も止めなかった。
道中、ラクーン・ルカが陽気にしゃべり続けた。
イタチが「うるさい」とぼそりと言った。
ルカが「冗談きつすぎやで、ライアはん」と笑った。
六尾が二人のやり取りを不思議そうに見ていた。
◇
温泉は、北の森の入り口から少し入ったところにあった。
岩場から湯が湧き出している。小さな露天風呂が自然に形成されたような場所だった。周りに木が生えていて、空が少し開けている。北の赤みはここまでは届いていない。空が——普通の、緑色だった。
G・クリムゾンが岩の縁に立って、湯を見下ろした。
「……ここや。ここがずっと来たかった
声が、静かだった。
総司令としてでも、落語家としてでもなく——ただ、来たかった場所に来た者の声だった。
悠真は湯に手を浸けた。温かかった。やわらかい温かさだった。
「いい温泉ですね
「やろ。ずっと来たかったんや
一行は温泉に入った。
G・クリムゾンは岩の縁に腰を下ろして、六本の脚を湯に浸けた。触覚が穏やかに揺れていた。
六尾は静かに肩まで浸かった。七本の尾が湯の上に広がって、ゆっくり揺れていた。
ラクーン・ルカは「ええ湯やで!」と大声で言って、ルカらしくすぐに馴染んだ。
イタチは無言で入って、岩に背中を預けた。目を閉じた。
ディアが「大したことあらへん」と言いながら気持ちよさそうに浸かった。
悠真は湯に浸かりながら、空を見上げた。
緑の空だった。北の赤みが届かない、この場所だけの空。
「九尾さんが最初に見た映像——一筋の緑、というのは、これだったかもしれないですね
六尾が静かに答えた。
「……祖母はここに来たかったと思います。ずっと
「そうですね
「今日——ここに来られてよかったです。祖母の代わりに、見ました
六尾の尾が、温泉の湯気の中で、静かに揺れていた。
◇
悠真は湯に浸かりながら、持ってきた鍋を岩の上に置いた。
「料理を作ります
「温泉で料理するのか」とルカが言った。
「温泉の湯気で蒸すと、食材が柔らかくなるので
イタチが目を開けた。少し興味のある顔をした。
「……温泉蒸し、というやつか
「そうです。イタチさん、知ってるんですか
「前世の記憶に少し。ハーバードの研修で温泉地に行ったことがある
ラクーン・ルカが「ハーバードって何や」と言って、イタチが「いい大学だ」と言って、ルカが「ほなすごいな」と言った。
悠真は食材を並べた。
根菜、きのこ、この地の香草、干し肉。
温泉の湯気で蒸しながら、出汁をかける。
湯気が上がった。
食材の匂いと、温泉の匂いが混ざった。
不思議な、しかし——悪くない匂いだった。
六尾が匂いを嗅いで、少し目を大きくした。
「……これは
「温泉蒸しです。蒸すことで食材の中から旨味が出てきます
「出汁と同じ原理ですか
「似ています。中にあるものを、外に引き出す
六尾は少し考えた。
「……祖母が言っていた。ユグドラに出汁を引き出された、という話
「そうです
「温泉も——引き出しているんですね。食材から
「そうかもしれません
「……ちょろいん
全員が六尾を見た。
「祖母の口癖です。今日は——全員に使いたくなりました
ラクーン・ルカが「ほなワシもちょろいんか」と笑った。
G・クリムゾンが「なんでやねん」と言った。温かかった。
◇
温泉蒸しができた頃、G・クリムゾンが立ち上がった。
「一席、打っていいか
全員が静かになった。
悠真は「どうぞ」と言った。
G・クリムゾンは六本腕を構えた。
温泉の湯気の中で、独特の落語体勢を作った。
そして——語り始めた。
話は——今まで聞いた中で、一番短かった。
脂っこくなかった。
オチは一回だけだった。
それは、ゴキブリが百年間戦い続けて、疲れて、温泉に来た話だった。
温泉に来てみたら、隣に虫がいた。隣に獣がいた。隣に人間がいた。
みんなで入っていたら——あったかかった。
それだけの話だった。
オチは——「なんでやねん」だった。
G・クリムゾンが六本腕を下ろした。
誰も笑わなかった。
でも——誰も動かなかった。
湯気の中で、全員が静かにしていた。
しばらくして、ラクーン・ルカが言った。
「……今のは笑えんかったけど——ええ話やったな
「んだ」とイタチがぼそりと言った。
六尾が静かに拍手した。不器用な拍手だった。でも——続けた。
六尾が、G・クリムゾンを見て言った。
「……G・クリムゾンさん。一つ聞いていいですか
「なんや
「今——満足しておられますか
G・クリムゾンは少し間を置いた。
「……満足しとる。今日は
「そうですか。よかったです
六尾は少し目を細めた。九尾に似た目の細め方だった。
G・クリムゾンは、その目を見て、触覚を一度だけゆっくり動かした。
悠真は温泉蒸しを全員に配りながら、一席を思い返した。
オチが「なんでやねん」——百年戦い続けて疲れて温泉に来たら全員いた。あったかかった。それがオチだった。
(これが——G・クリムゾンの今の答えだ)
悠真は少し、泣きそうになった。
こらえた。今日は泣かないと決めていたから。
「G・クリムゾンさん
「なんや
「今日の一席——今まで一番よかったです
「笑わんかったやろ
「笑えませんでした。でも——一番よかったです
G・クリムゾンは触覚を長い時間動かした。
「……ありがとうな、悠真。ずっと聞いてくれて
悠真は少し驚いた。
G・クリムゾンが「ありがとう」と言ったのは——この一年で、初めてだった。
「俺こそ。打ってくれて、ありがとうございます
「なんでやねん
今回の「なんでやねん」は——照れている「なんでやねん」だった。
◇
温泉蒸しを食べながら、全員でぼんやりした。
特に何かを話すわけではなかった。
ルカが時々しゃべった。イタチが時々黙らせた。ディアが「まぁまぁ」と言った。
六尾は湯に浸かりながら、空を見ていた。
悠真は湯に浸かって、天井代わりの空を見上げた。
緑の空だった。
北の赤みが届かない、この場所だけの空。
(これが——一筋の緑だった)
九尾が最初に見た。六尾が「出汁の湯気が消えずに上に向かう」と見た。
全部——この場所のことだったかもしれない。
温泉の湯気が、空に向かって上がっていく。
消えずに——上に向かって。
(後でわかる)
悠真は小さく笑った。
六尾が悠真の笑いに気づいて、不思議そうに聞いた。
「何か、わかりましたか
「六尾さんの予言——出汁の湯気が消えずに上に向かう、というのは
「はい
「この温泉の湯気のことだったかもしれません
六尾は温泉の湯気を見た。上に向かって、消えずに広がっていく湯気を。
「……そうか。後でわかった
「後でわかりました
「祖母と同じですね、私の未来視も
「同じですね
六尾は少し、笑った。不器用な笑い方で。
しかし今日は——少し、笑いやすそうだった。
◇
帰り道、夕暮れになっていた。
西の空が橙色に染まっていた。北の赤みとは違う、夕暮れの橙。
G・クリムゾンが悠真の隣を歩きながら言った。
「……悠真。ユグドラの話——まだ、消化しきれてないか
「まだです。怒りはあります
「そうか。ワシも同じや
「G・クリムゾンさんも
「百年間、ワシが戦ってきたのが設計やったと言われたら——怒らん方がおかしい。でも
G・クリムゾンは触覚を動かした。
「今日、温泉で一席打てた。お前が聞いてくれた。これは——設計やなかったと思う
「俺もそう思います
「せやから——怒りながらでも、続けられる。それだけや
悠真はうなずいた。
「G・クリムゾンさん。一つだけ
「なんや
「カルディアさんへの一席——いつか打ちますよね
G・クリムゾンは少し間を置いた。
「……打つ。今日の一席より、もっとええものを打つ
「俺も一緒に聞きます
「笑わんやろ
「でも面白いです。本当に
G・クリムゾンは穏やかな「なんでやねん」と言った。
後ろで、ルカが「温泉また行こうで」と言った。
イタチが「次は少人数で」と言った。
ルカが「ワシ外すつもりか!」と言った。
六尾が「私は来てもいいですか」と真剣に聞いた。
ディアが「もちろんどすよ」と言った。
六尾が、静かに言った。
「……また来よう、と——祖母は言っていたと思います。全部終わった後に
全員が静かになった。
「大いなるものが決着して、ユグドラのこともひと段落して——その後に。祖母の代わりに、言います
誰も何も言わなかった。
でも——全員が、うなずいた。
悠真も、うなずいた。
夕暮れの道を、七名で歩いた。
北の赤みが、遠くに見える。しかし今は——西の橙の方が、明るかった。
◇
迎賓館に戻ると、カラスが待っていた。
「お帰りなさい。報告があります
「大いなるものの動きですか
「いいえ。……ユグドラからです
悠真は少し驚いた。
「ユグドラから
「この星の地面の根系を通じて、情報が届きました。文字ではなく——気配のようなものです。カラスとして感知しました
カラスは少し間を置いた。
「内容は——一言で言えば。『出汁の続きを待っている』というものです
悠真は少し笑った。
「わかりました。また作ります
カラスは珍しく、計算の目ではない顔で言った。
「……管理者が出汁を待っている、というのは——確率論的に、どう計算すればいいのか、わかりません
「計算しなくていいと思います
「そうですか
「計算の外にある瞬間も、あっていいので
カラスは少し目をつぶった。
「……そうですね。今日の温泉は——どうでしたか
「よかったです
「G・クリムゾンの一席は
「今まで一番よかったです
「笑えましたか
「笑えませんでした。でも——よかったです
カラスは少し間を置いた。
「……次回、私も行ってもいいですか
悠真は少し驚いた。
「カラスさんが温泉に
「計算を止める時間が、たまに必要かもしれないと——今日、考えていました
「ぜひ来てください
カラスは「ありがとうございます」と言って、報告書を持って戻っていった。
悠真は廊下に一人残った。
(計算を止める時間)
カラスにも、そういう時間が必要だった。
悠真にも、今日の温泉は必要だった。
G・クリムゾンには、ずっと必要だった。
全員が——何かを引き出しながら、生きている。
悠真は厨房に向かった。
明日の出汁の準備をするために。
ユグドラの分も、どうやったら届けられるか、少し考えながら。
北の空は、今夜も赤い。
でも——温泉の記憶が、まだ体に残っていた。
あの緑の空と、湯気と、G・クリムゾンの一席と、六尾が「祖母の代わりに」と言った声が。
(運が良ければ——また行ける)
六尾が「また来よう、全部終わった後に」と言った。
全員がうなずいた。
その約束が、今夜の出汁を取る理由になった。
〈第十五話 了〉




