Ⅸ - 1
沢田さんは神戸支社に移動後、妊娠に気づいた。
このまま会社にいると、いずれ小川の父親の耳にも入るのではないかと危惧して退職した。
小川の父親が憧れの存在だったのは事実だが、自分のものにしたいとは思っておらず、ただただ妊娠が嬉しく産みたいと思っただけだ。
当然、両親は反対したが、沢田さんの意思が強く、神戸を離れる事を条件に許した。
沢田さんはすぐに、縁もゆかりも、支社もない愛知県に移り、働きながら健ちゃんを産んだ。
そこで知り合った女性が神奈川県で事業を立ち上げる事になり誘われた。
以前の東京の職場に近く躊躇したが、その人もまた、バツイチで子ども二人を育てていた。沢田さんの事情を知り、見知らぬ土地で手を差し伸べてくれたのだ。
鎌倉に住んだのは、何度か訪れた事があり好きな場所だったからだが、今は転居を考えているようだ。
「沢田さんには、ほら、小川くんのお父さんが殴ったりしてるとは話してないわよ。厳しいみたいとは言ったけど。夢を壊したら悪いじゃない」
「何で沢田さんの事、知ったのさ」
父が聞く。僕も気になっていた。
母は2杯目の味噌汁を作ってきて、一気に半分くらい飲んだ。
「それがね、何と言うか偶然なのよ。私は導かれちゃったのかなって思っちゃった」
「何だ?ロマンチックな出来事に作り上げてんじゃねぇの?」
母は首を振りながら、今度はビールを一気飲みした。
「お父さんって本が好きで、お父さんの部屋って天上から床までびっちり本棚なんだって。なんでも揃ってるって感じで、子ども達にも興味があるものを持って行って読んでいいよって言うくらいなんだって」
そういえば、小川っていつも文庫本持ってる。途中図書館に寄るのも、小川も読書魔なのか。
「中二の夏休みに、何か自由研究のネタになるものないかって探してたんだって」
小説はもちろん経済や歴史、科学に化学、美術書や写真集、アメリカンコミックス、古い少年漫画、子どもの絵本、高校大学時代の教科書、辞書、百科事典さまざま揃っていた。
ふと天井近くの棚に目をやった。ドイツ語やフランス語の書籍がギッチリ並んでいた。
興味がわいて一冊取ってみようとしたが、ギッチリ過ぎて数冊まとめて落ちてしまった。拾い上げた一冊から二つ折りの紙が落ち、戻すついでに広げて見てみた。
そこに沢田さんの名前、神戸の住所、電話番号が書かれていた。社名の入ったメモ用紙に筆圧の低い綺麗な文字だった。
それを見た瞬間に、父親の秘密を覗き込んだ気がして、慌てて元に戻した。




