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初めての共同作業

東の丘を越えた先で、整然とした石壁の建物群が途切れた。


――スラム。


崩れかけた掘っ立て小屋が、辛うじて形を保っている。汚水の臭いが風に乗って鼻をつく。痩せこけた人々が日陰にうずくまっている。子どもたちの顔には、かつてリリアンが最初にこの集落に辿り着いた時に見た、あの「緩やかな死を待つだけの瞳」がそのまま残っていた。


「カイ。この人たちは、帝国の各地から流れてきた難民よ。『外れスキル』を持ち、社会から弾かれた人たち」


カイの瞳は、スラムの光景を、冷静に観察していた。


狭い路地の角で、骨と皮ばかりの十代前半の少女が、ボロ布にくるんだ赤ん坊を抱いていた。少女は、リリアンの姿を認めると、力なく微笑んだ。


「リリアン様……いつも、配給のパン、ありがとうございます」


「ミーナ、お礼なんて、いいの。未成年を食べさせるのは慈善事業じゃなくて、共同体の義務。もうじき、乳児院を作れると思うから。職業訓練の枠も、空くから。もう少しだけ頑張って」


リリアンは、携帯していた水筒と干し肉を手渡した。少女――ミーナが笑顔で、それを受け取った。



 去り際に、リリアンはカイに小声で言った。


「ミーナは、十三歳。本当は上の学校に行く選択肢もあるべきだけど……今のアークライトだと、ミーナに働いてもらうのが現実的。赤ちゃんは、逃げる途中で拾った孤児。捨てられていた赤ん坊が、低スキルってだけで村から捨てられた自分みたいに、思えたんですって」


「……アークライトを理想郷のように思っていた。しかし、帝都のスラムと、何ら変わらないのだな」


「今はね。でも……彼らは、私たちの『未来』なの」


「未来、だと?」


カイの声に、怪訝な色が混じった。


「必ず、ここにいる人々も、アークライトに住まう誰もが……ワクワクしながら目覚める日々が来る。……計算上は、あと三年。インフラ整備と職業訓練の並行稼働で」


演説のために鍛えているリリアンの声が、その場に響き渡った。 周囲の住民たちの瞳が、わずかに動いたのが分かった。


「なぜ、そんなにも一生懸命になる? 彼らは、君にとって他人だろう」


「……ううん。他人じゃない。今、ここにいる彼らは、かつての私自身なの。……だから、たとえ10年かかっても20年かかっても、このアークライトを、帝国中の行き場を失った人々が最後にたどり着ける、希望の地にしたい」


「……君はまるで、アークライトの女王だな」


二人は、言葉少なに歩きつづけた。沈黙は、カイと二人なら、気にならなかった。


西には黄金の麦畑。東には灰色のスラム。


希望と絶望が、数百メートルの距離を隔てて、乾いた空の下に共存していた。



その夜。


リリアンは、完成したばかりの灌漑システムが気になり、夜の畑へ出た。


すると、カイが先にそこにいた。畑に水を送る竹管に、白い指先を触れている。


「……眠れないの?」


リリアンが声をかけると、カイは首を振った。


「いや。俺はアークライトに、長くいられるわけではないからな。できるだけ多くを吸収したい。……そうだ、竹管を流れる水音の中に、不協和音がある。後で調査しておけ、詰まると厄介だ」


「え、不協和音? どの管? 第何接続部? ……あ、先週の砂嵐で、微妙にずれたかも。修理の優先順位は……」


「……後で、と言ったはずだが。今は――この星空が、君に……いや、俺たちに安息を与えると、推測する」


カイはあぜ道にマントを敷くと、リリアンに座るよう促した。二人で、満天の星を見上げる。


「……初めて会った日から、ずっと気になっていた」


短い沈黙のあと、カイが口を開いた。


「俺は……生まれた時から、世界が、他の人間とは違って見えていた」


命令慣れしたカイの声は、今日は途切れ途切れだった。


「音が耳に刺さる。光が目を灼く。強い食べ物の味は、全部が毒に感じられる。布の感触が、針のように肌を突く。……そして、人の表情を見ても、何を考えているのか、分からない。言葉の裏にある意味が、読めない」


リリアンは、黙ってカイの横顔を見つめた。


「……皆は言う。俺は、呪われていると。血の呪いで、心が凍りついていると。感情を持たない化け物だと。……父も似たような『呪い』を持っていたしな」


カイの、自嘲のような、昏い声。


「カイ」


リリアンは、落ち着いた声で、しかし力強く言った。


「あなたのそれは、呪いなんかじゃない」


カイの肩が、わずかに揺れた。


「……私たちは、一人ひとり、世界を感じるための『窓』を持っている。ある人の窓は少し曇っていて、世界の輪郭をぼんやりと捉える。ある人の窓は、普通に、ありのままの世界を映す」


リリアンは、頭上に広がる星空を指差した。


「カイの窓は、他の誰のものよりも、一点の曇りもなく、澄み切っている。だから、他の人には見えない星の光も、聞こえない風の音も、感じられない空気の温度も、全てが鮮烈に、鋭敏に、あなたの中に流れ込んでくる」


「……呪いでは?」


「呪いなんかじゃない。生まれ持った『特性』よ。他の人とは、少しだけ世界の感じ方が違うだけ。……私は、そういう方々について書かれた書物を読んだことがある」


「書物……?」


「長い話になるから、その話はいつかね。……大事なのはね、カイ。あなたが人の感情が分からないと感じるのは、あなたが欠けているからじゃない。あなたは、曖昧な感情よりも、観測可能な事実と論理を、誰よりも正確に処理できる人なの。それは欠陥じゃなくて、類稀な『力』よ」


カイの瞳が、激しく揺れた。


「一つのことへの凄まじい集中力。手順を正確に遂行する体系的な思考。感情というノイズに惑わされず、事実だけを見て決断できる冷静さ。……カイ、あなたのその特性は、途方もなく大きなことを成し遂げられる、力だと思う」


「途方もなく、大きな……」


カイは、その言葉を噛み締めるように繰り返した。


長い沈黙が流れた。星が、ゆっくりと天を移動していく。竹管を流れる水の穏やかな音だけが、二人を包んでいた。


やがて、カイは、ふっと短く息を漏らした。


「……ずっと、探していた気がする。俺を『呪われた者』ではなく、『俺』として……受け入れてくれる相手を」


カイの端正な顔に浮かんだのは、過去に一度も見たことのない、柔らかな微笑だった。


「君は、本当に女王のようだな。言葉ひとつで――俺を救う」


リリアンは、無言で微笑み返した。


胸の奥が、じんわりと温かい。


カイの孤独を、リリアンは理解できる気がした。リリアンもずっと、居場所を探していたから。



リリアンが追放されて、6年目の夏。リリアンは、16歳になっていた。


カイの訪問日。リリアンは、定休日だったアークライト亭の厨房を借り受けていた。


リリアンが、鶏肉を持ち上げた時だった。


「俺も、料理を実行する」


背後から、覚悟を決めたような声。振り返ると、カイが厨房の入口に立っていた。


「友人、というのは対等だと書物で読んだ。リリアンばかりに料理をさせるのは対等ではないと判断した。こういうのは、金を払えばいいというものでは、ないのだろう」


「料理、したことある?」


沈黙が、三秒。


「……ない」


「じゃあ手伝ってもらう。今日は私が料理長ね、カイ」


リリアンは笑って人参を並べた。カイの最初の一剥きは完璧だった。刃の角度を固定し一定の速度で引く——全ての皮が均一な厚さで剥けていく。2センチ角に刻む手つきも、初めてとは信じられない精密さ。


「次は南瓜。硬いから気をつけ——」


言い終わる前に、カイが刃を入れた。硬い皮をうまく割れず、カイの手が、小刀の刃へと滑る。


「カイ!」


リリアンは、カイの手を取った。浅い切り傷。


「すぐ治す」


言葉通り、カイの治癒スキルで、あっという間に傷は塞がった。


「ごめんね、一緒に一つ一つ、野菜切っていこう」


リリアンはカイの手に自分の手を重ねた。猫の手を教え、一緒に刃を押し下げる。


「そう、上手上手」


「……リリアンの手は、温かいな」


野菜を切り終わり、手を洗って鍋に入れた。


テーブルに食器を並べ、温野菜ができるのを待つ。



「あとは待つだけ、ね」


向かい合ってテーブルについたとき——カイが、ゆっくりと身を屈めた。


リリアンの手の甲に。自分の頬を、そっとあてた。


「……温かい。落ち着く。しばらく、こうしていていいか」


リリアンのこめかみに、どくどくどく、と熱が籠もる。


厨房の時間が止まったような気がした。薪が爆ぜる音だけが聞こえる。


「いい、けど……」


(え? 私の手に……触れていたいってこと? いやいやいや、驕るなリリアン。誰でも良いんだ、手の温度さえあれば)


「あの、顔が寒いならフェイを」


「また、変なことを考えていただろう」


「な、なぜ」


「呼吸が浅くなった。思考が止まって、代わりに余計な仮定が入り込んだ時の、君の呼吸だ」


「……観察しすぎ」


「俺の特性だ」


カイは静かにそう言って——リリアンの手を、もう一度、取った。


今度は指を、少しだけ絡めるように。


「俺は」


視線は鍋に落ちたまま。横顔は、いつも通り平静だった。


「嘘をつかない。感情の名前が分からない時も、言葉の端を飾る術を持たない時も――俺の口から出たことは、その時の俺の事実だ」


「……うん」


「では、繰り返す。……貴方の手の温度だけが、俺の心拍を安定させる。――理由は不明だが」


リリアンは、息を止めた。


どう返事していいか、分からない。


「……あ、野菜、できたみたい」


リリアンは鍋のほうを向いた。声が、少し揺れた。


「俺が配膳しよう」


カイの頬が、ゆっくりと、離れた。


距離をとったのは自分なのに、滑らかな感触が離れていくのを――淋しいと思った。そんな自分が、リリアンはひどく嫌いだった。




「完成!」


白い皿の上に、蒸し鶏、蒸し人参、蒸し南瓜、蒸し芋。二人で作った初めての食事を、向かい合って食べ始めた。


カイが上品にフォークを使う動作に、リリアンは何となく見とれていた。


カイが人参を噛んだ瞬間――動きが止まった。


「味が違う」


「え?」

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