絹の約束
二ヶ月後。エヴァンス領の管理権引き継ぎのため、実務官がアークライトを訪れた。
馬車から三人目が降りた瞬間、リリアンの手から書類が滑り落ちた。
——若葉色の、アークライト産の絹のブラウス。
襟元に、小さなモモンガの刺繍。
アリスだった。
「お久しぶりでございます、リリアン様」
七年の歳月は、小さな女の子だった乳母兄弟を、背筋のぴんと伸びた女性に変えていた。でも笑い方は、変わっていない。
アリスが、自分のブラウスの袖口に軽く触れた。
「覚えてるに決まってるじゃありませんか。流石うちのお嬢様ですわ。——楽しみにしておりました。ずっと」
リリアンの目から涙がこぼれた。総監として、実務官の前で泣くわけにはいかないのに、止められなかった。
「私も。信じてた。ずっと……ずっと」
*
アリスとの再会から三日目。
リリアンは、アリスに腕を引かれて、アークライトの商店街を歩いていた。
「リリアン様、早く早く!」
アリスが指差した先には、小洒落た看板。『なないろ糸工房』——アークライト産の絹を使った、仕立て屋だった。
扉を開けると、色とりどりの布地が目に飛び込んできた。
壁一面に並ぶ反物。淡い桃色、空色、檸檬色、若草色。窓から差し込む午後の光が、絹の表面できらきらと踊っている。
「わあ……」
アリスが、目を輝かせた。
「アークライトに、こんな素敵なお店があったなんて」
「三年前にできたの。職業訓練を終えた人たちが、自分たちで始めたお店」
リリアンが説明すると、店主の女性が奥から顔を出した。
「あら、総監! いらっしゃいませ。今日は何をお探しで?」
「私じゃなくて、この子。……昔からの友人なの。何か似合うものを見繕ってあげて」
「まあまあ、お任せください!」
店主が、アリスの周りをぐるりと回った。
「うーん、この方には……そうですね、こちらなんていかがでしょう」
「可愛い……!」
アリスが、茜色のブラウスを胸に当てた。鏡を見て、顔をほころばせる。
「リリアン様、どうですか?」
「すごく似合うよ」
リリアンは棚を見回し、一枚のスカーフを手に取った。夕焼け色のグラデーション。端には、小さな麦の穂の刺繍。
「これ。その服にも、アリスの髪の色に合うと思う。今日の記念に、贈らせて?」
「リリアン様……」
アリスの目が、潤んだ。
「ありがとうございます。……でも、それでしたらお揃いにしましょう!」
リリアンは、即座に首をぶんぶんと振った。
「……アリス、今日は『リリアン様』でいいって言ったでしょう」
「呼びたいんです、総監って。うちの小さなお嬢様が、こんなに立派になったんだって、もう王都中に触れ回りたいくらい」
アリスが、顔をくしゃっとして笑った。七年前と同じ笑い方。
「……それはちょっと……恥ずかしいからやめて」
リリアンは明後日の方向を向いた。店の窓から見えるアークライトの空は、今日も青い。遠くに翠塔の歯車が、ゆっくりと回転している。
「リリアン様。……最近、よくお空を見ておられますね。特に、王都の方角を」
リリアンの頬が、かすかに赤くなった。
「……気のせいよ」
「そうでございますか。では、『カイ様』のお名前を呟いておられるのも、気のせいでございますね……目の覚めるような美形で、リリアン様と数字のお話で盛り上がれるお方だとか」
「アリス!」
リリアンが声を上げると、アリスはくすくすと笑った。店主も、棚の向こうで肩を揺らしている。
「冗談でございます。……でも、リリアン様。誰かを想うことは、悪いことではございませんよ」
アリスの声が、優しくなった。
「リリアン様は、ずっと一人で頑張ってこられました。一時だけ誰かに寄りかかることを、許してもいいのではないでしょうか」
リリアンは、手の中のスカーフに目を落とした。夕焼け色の絹が、午後の光を受けて輝いている。
窓の外を見つめたまま、リリアンは呟いた。
「ねえ、アリス。私、ずっと一人で走ってきた気がしてた」
「……エヴァンスを、出た後も?」
「うん。……でも、気づいたの。一人で走ってたんじゃなかった」
リリアンは、店の窓から見える商店街を眺めた。行き交う人々。笑い声。荷車を押す青年。子どもの手を引く母親。
「みんなが、一緒に走ってくれてた。私が気づいてなかっただけで」
「リリアン様は、昔から、周りが見えなくなるところがおありでしたから」
「……否定できない」
「でも、だからこそ、皆様がついてこられるのだと思いますよ。リリアン様の背中を見ていると、走りたくなるのです」
店主が、包みを差し出した。
「はい、総監。スカーフとブラウス、お包みしましたよ」
「ありがとう」
リリアンが代金を払おうとすると、店主が首を振った。
「いいんです。総監がいなかったら、この店もなかった。……たまには、受け取る側になってください」
リリアンは、少しだけ目を細めた。
「……ありがとう。でも、お金は大事だから」
強引に代金を置いて店を出ると、午後の陽射しが二人を包んだ。
*
7年の時は、アークライト自由区を、「辺境の小さな村」以上の存在に変えていた。
農業特区として多種多様な農産物を安定生産し、独自の灌漑・緑化技術のモデルケースとして、近隣の辺境領からも視察団が訪れるほどになっていた。人口は数万人を超え、学校、診療所、簡易裁判所まで完備した、帝国辺境でも類を見ない自治都市へと成長を遂げていた。
先日の疫病の蔓延に、神殿が関わっていたという疑念はあり、調べは進めていたものの――その後、神殿に主だった動きはなく、アークライトは、華やかな季節を迎えていた。
*
「リリィ姉さん......じゃない、総監! 記念祭の旗、持ってきたよ!」
執務室のドアから飛び込んできたのは、補佐官のアッシュだった。
16歳の美少年に成長し、背丈はリリアンをとっくに追い越している。頭のいいアッシュは今や、アークライトの運営に欠かせない存在だ。半年前、畑の塩害を抑えるために植えた植物を転用し、アークライトの特産品に美しいステンドグラスを加えた手柄は、今では語り草だ。
しかし、得意気に旗を広げ、空色の瞳をキラキラさせている様子は、7年前、乾いた井戸の底から見上げた時と変わらない。ブロンドの髪に、時々寝癖がついているのも。
「素敵よね、私たちの旗。......デザインに三ヶ月かけたの。旗のベースの緑は大地の色、麦の穂は食料主権の象徴。そしてこの冠歯車は......個々の歯が噛み合って初めて回る、システムの象徴。一つの歯が欠けても全体が止まる。だから誰一人、欠けてはいけない」
「ああ! デザインはリリィ姉さんで、絹を作ったのは生産省。織ったのは織物班の連中で、刺繍は仕立て屋のばあさんたちが総出でやってくれた。まさに、みんなで作った旗だ」
アッシュの熱のこもった声が、執務室に響く。
アッシュの視線がゆっくりと、旗から、リリアンに移った。その瞳が、熱っぽく揺れた。
「そのドレス、姉さんの緑の瞳と大地の色の髪に、すごく似合ってる。......まるで、アークライトの、妖精みたいだ」
今日という晴れの日のために、仕立て屋のばあさんたちが「総監らしく!」と張り切って作ってくれた、一張羅だった。アークライト特産の絹地が、動くたびに上品な緑の陰影を作る。
久しぶりにきちんとメイクをして、いつも無造作に束ねているブラウンの髪も、丁寧に結い上げた。
「ほら! もう行かないと。みんなが、待ってる」
リリアンが扉を指さすと、アッシュは一瞬だけ寂しそうな顔になって。でも、笑った。
「行こう、総監。俺たちの旗を、掲げに」




