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ぬくもりの回帰

「私はアークライト総監、リリアン・アークライトです」



——十歳のあの日、リリアン・エヴァンスは死んだのだ。


それ以降を生きてきたのは、別の人間だ。


少なくとも——リリアンは、そう決めた。


父の目が、一瞬、揺れた。


「屁理屈を言うな。お前は私の血を引いている、調べはついている。領民が餓死しかかっているのだぞ」


父の声に、焦りが滲んでいた。その焦りは、領民への責任感からではないだろう。——この男は昔から、自分の管轄下で問題が起きること自体を「恥」と感じる人間だった。


継母が、父の半歩後ろで唇を引き結んでいる。


(この人たちは今——「嘆願者」として、私の前に立っている)


——七年前、この構図は完全に逆だった。


リリアンは机の引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。


「取引です」


三人に向けて、羊皮紙を滑らせた。


条件は事前に精査し尽くしてある。父がいつ来てもいいように、シナリオを五パターン用意していた。エヴァンス領の再生計画も、既に策定済みだ。


父が羊皮紙をひったくるように読み、顔から、わずかに残っていた血の気が引いた。


「エヴァンス領の全関税の撤廃と、主要農地の管理権をアークライトに委譲だと……これでは、エヴァンス家は名ばかりの飾りではないか」


「ええ」


リリアンは、声に力を込めなかった。その必要がなかった。


「公爵閣下。あなた方は七年間、最強のスキルを持ちながら、領地を守れなかった。そして農業のスキル持ちを何人雇っても、土は一粒も戻らなかった」


言い終えた瞬間、父の肩が——ほんの僅かに、落ちた。


継母が、初めて口を開いた。


「あなたの村を見たわ、みんな生き生きしてた。収穫量も、毎年上がっていると」


「農業のスキルに頼らず、地道な品種改良を行った結果です」


「……生まれ持ったスキルだけが、全てだと思っていたわ」


継母の声は、かすれていた。


「学べば誰でも身につく知識や技術なんて、取るに足らないものだと……」


言葉が途切れた。継母の視線が、壁の収穫報告図に向けられていた。七年分の、右肩上がりの曲線。


「思い上がっていたのね。……私たち」


継母が責めるように父を見た。父は、何も言わず、下を向いた。



(——やめて)


胸の奥で、誰かが叫んだ。


(やめて。お父様を、追い詰めないで)


十歳のリリアンだ。雨の中で「お父様」と泣いた、あの子が、まだリリアンの中にいる。


七年かけて父を心の中から追い出したはずなのに、この人の肩が数ミリ下がっただけで、胸が軋む。


——だが、十七歳のリリアン・アークライトは、その衝動を、静かに呑み込んだ。



「経営陣の交代は、組織を存続させるための当然の措置です」


自分の声が、どこか遠くから聞こえた。


「姉上、頼む。俺のスキルじゃ、土は——」


「知っています」


リリアンは、冷静に遮った。


「『氷槍』は帝国建国神話に語られる伝説のスキル」


あの日。氷の蒼い光が神殿を満たし、貴族たちが歓声を上げ、モモンガたちが——リリアンの肩から飛び立って——アレンの元へ群がっていった、あの瞬間。


ずっと一緒だと思っていた、ふわふわの小さな体温が消え、肩が冷たくなった感覚を——リリアンはまだ覚えている。


「ですが、アレン。力が大きいほど、壊すものも大きい。それを制御する仕組みが存在しなかった。あなたの責任ではなく、あなたの力を正しく運用する設計を怠った、大人たちの失敗です」


そう言いながら——本当にそう思っているのか、自分でも分からなかった。


頭では分かっている。アレンは悪くない。アレンだって、スキルを選んだわけではない。周囲の大人たちに「伝説だ」と持ち上げられ、制御の仕方も教わらないまま力を振るわされた被害者だろう。


——だけど。


(あなたさえ、来なければ。あなたさえ、いなければ、私は)


アレンの凍傷だらけの手が、拳を握りしめている。爪が掌に食い込んでいるのが見えた。


(——アレンも、苦しんでいたんだ。でも、ごめん。どうしても、優しくなれない)


「サインを、公爵閣下。さもなくば、お引き取りを」


父は、長い間、羊皮紙を見つめていた。


その横顔を、リリアンは黙って見ていた。


——額の皺が、深くなっている。こめかみの血管が、以前より浮き出ている。髪の生え際に、白いものが混じり始めている。


父の手が、羽ペンを取った。


震える指先が、インク壺に触れた。その微かな音が、静まり返った応接室に、やけに大きく響いた。


署名が、終わった。


父がペンを置いた瞬間——アレンの肩の上で、異変が起きた。


五匹のモモンガたちが、一斉に顔を上げたのだ。


最初に動いたのは、一番耳の大きな個体だった。アレンの右肩からふわりと浮き上がり、迷いのない軌道で——まっすぐに、リリアンの左肩に着地した。


小さな前足が、リリアンの袖をきゅ、と掴む。


「——え」


アレンが声を漏らした。


二匹目。尻尾の長い個体が、アレンの頭の上から飛び立った。リリアンの机の縁に降り、そこからリリアンの腕の上へ滑り込んだ。


三匹目。四匹目。


一匹、また一匹と、モモンガたちがアレンから離れていく。七年前、神殿でリリアンの肩から飛び去った時と、同じように——ただし、今度は逆方向に。


「世界のことわりが……認めたというのか」


父の呟きは、誰に向けたものでもなかった。


アレンが手を伸ばした。傷だらけの指が、最後の一匹——群れの長であろう大柄な個体を、引き留めようとした。


群れの長は、アレンの指先に一瞬だけ鼻を寄せ——それから、静かに飛び立った。


リリアンの前に着地し、深く頭を垂れた。


(守護妖精は、次期領主を守るための存在……。新しい領主が……実質、私だと判断した……?)


応接室が、完全に静まった。


父と継母は、今にも卒倒しそうに、唇をわなわなとさせている。


アレンは——自分の空になった両肩を、凍傷の手で触れた。誰も、いない。


五匹のモモンガが、リリアンの肩に集まっていく。七年間、ずっと冷たかった場所が、ふかふかの温もりで埋まっていく。


その時、フェイが動いた。


リリアンの右肩——七年間の定位置から、すっくと立ち上がった。リリアンの右肩から首の上、左肩まで、帰還した五匹の間を、小さな四肢で、ぽんぽんと歩き、優雅に飛んで移動する。帰還した一匹一匹と、視線を交わしながら。


そして、リリアンの左肩先に陣取り——胸を、張った。


小さな体を目一杯反らして、ふかふかの胸を突き出した。ふさふさの尻尾がぴんと天を指す。帰還した五匹が、一斉にフェイを見た。


『ずっと側にいたのは、フェイだ』


声にならない宣言。


——寝坊して主を選び損ねた、一番小さな一匹が、群れの頂点に立った。


リリアンの目が、じわりと熱くなった。


「みんな」


リリアンは、声を絞り出した。


五匹の丸い瞳が見上げる。フェイも振り返る。


「——嬉しいよ。本当に」


一度、言葉が途切れた。こらえて、続けた。


「でもね。私は——アークライトのものなの」


アレンの空になった肩を見た。傷だらけの手を見た。何も言えずに、唇を噛んでいる十七歳の少年を見た。


「エヴァンスには、もう、戻れないの。だから、皆は、アレンの側に」


群れの長を、両手でそっと包み込んだ。ふかふかの額に唇を寄せる。


「……アレンのスキルは強すぎて、自分の体を傷つけてる。どうか、制御を助けてあげて」


群れの長の大きな瞳が、揺れた。


「私にはフェイがいるから。この子だけで、十分すぎるくらい温かいの」


肩の上で、フェイが得意げに顎を上げた。


——やがて。


群れの長が、リリアンの手のひらから、ふわりと浮き上がった。一匹、また一匹と続く。リリアンの肩が——一つずつ、軽くなっていく。


七年前と、同じだ。ふかふかの温もりが、離れていく。


ただし、今回は。


「元気でね」


リリアンは、笑っていた。七年前は泣いた。でも今は、笑って送り出せる。それだけの強さを、この砂漠がくれた。


フェイが、ぴょんと飛び、いつもの右肩に戻った。小さな前足がリリアンの首筋をきゅっと掴む。——ここが、自分の場所だと言わんばかりに。


アレンの目から、涙がこぼれた。


「姉上——」


「手を見せて」


アレンが、戸惑ったように右手を差し出した。


黒ずんだ指先。白く引き攣れた瘢痕。壊死しかけた皮膚。


リリアンは、棚から薬箱を取り出した。


アークライトで開発した軟膏。リリアン自身が調合法を考案した。


「どうして……僕たちは……姉上を」


アレンの声が、掠れていた。


「私はアークライトの代表だから」


軟膏を、アレンの手に塗り込んでいく。丁寧に。一本一本。爪の際まで。


「私が作りたい場所は——誰も見捨てない場所。たとえ、私を傷つけた人でも。……それが、アークライトだから」



「エヴァンス公爵。お帰りの馬車を手配いたします」


「不要だ」


父が立ち上がった。


なぜか父は、記憶にあるより一回り小さく見えた。リリアンが成長したからか。父が縮んだからか。


父が、踵を返した。継母が無言でその後に続く。アレンが最後に残り、深く深く一礼してから、去っていく。


(——終わった)


七年間、心のどこかで覚悟していた再会が、終わった。


思い描いていた場面とは、違った。


昔は——追放された直後は——復讐を夢想したこともあった。いつか強くなって王都に凱旋し、父の前に立ち、「見て、私はこんなに立派になった」と叫ぶ場面を。


けれど、復讐の夢想は薄れた。井戸を掘り、種を蒔き、仲間と笑い合う日常の中で、過去への怒りよりも、未来への希望のほうが、ずっと大きくなっていったから。



ドアが開き、ひょこっと、ギデオンとアッシュが、顔を覗かせた。


「……姉さん、弟ってあの子? 僕のほうが仲良しだよね?」


「……どうやった、交渉は?」


「完・勝」


リリアンは、胸を張って答えた。


ギデオンが、にやりと笑った。


「せやろな。うちの総監やもん」


リリアンは、頷いた。


――家族とは離れても。仲間なら、ここにいる。


フェイが、リリアンの肩の上で、リリアンの真似のように胸を反らせた。




父との交渉が終わった翌日。


リリアンは、エヴァンス家へ送る封書に、アークライト産の絹で仕立てた衣服一式を入れようとして——やめた。


(私と未だに親しいと思われたら、エヴァンス家でのアリスの立場が悪くなるかも……)


リリアンは、乳母姉妹でもある侍女のアリスが、まだエヴァンス家で働いている事実は、把握していた。


(直送だとリスクが高い。中間業者を一つ噛ませれば、アリスとの関係が露見する確率は下がる。配送ルートは三経路を比較して……ああ、乳母姉妹に服を送るだけなのに、なんでこんな複雑な最適化問題を解いてるんだろう)


その解は『リリアンが効率化オタクだから』なのだが、本人に自覚はない。


——結局、エヴァンス家が贔屓にしている仕立て屋宛に別便で送り、アリスが店に立ち寄った時に渡してもらうことにした。


七年ぶりの手紙は何度も書き直して、最後に殆どを、消した。


名前さえ書かず、一行だけ。


「約束、覚えてる?」

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