皇帝と公女①
南京皇城、明珠帝の私室。
午後の光が、薄絹のカーテン越しに差し込んでいる。
部屋の隅で、陣原琉が乳母車をゆっくりと押していた。
その巨躯と乳母車の組み合わせは、どう見ても絵として成立していなかったが、陣原琉本人は至って真剣な顔だった。
明珠帝は、向かいの椅子に腰を下ろした明月を、静かに見つめた。
「無事に戻ったな。子も、健やかか」
「はい、伯母上。おかげさまで」
明珠は小さく頷いた。それ以上は言わなかった。この女が「無事に戻ったな」と言う時、その言葉の裏には、言葉にならない安堵が詰まっている。明月にはそれが分かった。
「藤堂直樹記念病院は、噂以上でございました。痛みがほとんどない。設備は完璧。食事も申し分ない。名家の方々が通い詰める理由が、よく分かりました」
明珠は、ビーズクッションに深く背をもたせかけた。
「それで?」
「成果の報告をさせてください」
明月は、懐から資料を取り出した。
「トリプルタワーの150室を確保しました。建設費の負担割合は全体の25%。GOKOKUの利権にも食い込みました。阪神エリアの再開発、在日華僑ネットワークへの参加、日本の設計・デザインによる雑貨・服・家電のOEM生産ルートも確保しています」
「邪馬台国との競合は?」
「激しいです。現時点では向こうがリードしています」
明珠は特に表情を変えなかった。
「正直に言うな」
「負けを隠しても意味がありません。ただ、巻き返せます」
「根拠は?」
「市場規模と生産力です。日本デザインの商品は我が国内にも流通します」
明珠は短く頷いた。
「宇宙開発の資料は?」
「大量に入手しました。ただ——」
明月は少し間を置いた。
「開発期間は長期化しそうです。資料があっても、それを動かせる人材と設備の整備に時間がかかります。」
「そうだろうな」
「ですから、提案があります」
明月は姿勢を正した。
「台湾南部にロケット発射場を建設し、日本との共同管理でイプシロンロケットを運用します。台湾南部は北緯22度。マルタより赤道に近く、東に太平洋が開けている。条件は申し分ありません」
明珠の目が、わずかに細くなった。
「日本は乗るか」
「麻田総理との会談で、感触は得ています。イプシロンの資料提供は交渉中ですが、共同管理という形であれば、日本側にも管制権が残ります。悪い話ではないはずです」
「光ファイバーの延伸は?」
「天津で国内回線に接続させます。北京、南京へは国内幹線として整備します。——通信が安定すれば、遠方からの統治精度が上がります」
明珠は、しばらく黙っていた。
「北中国への対応は?」
「漢が窓口になって生殖支援を行います。レアアース利権は分割する条件で。雷鳳鳴の内モンゴル勢力を、完全に潰すのではなく管理下に置く方が長期的に得策です。日本のレアアース不足の解消にも繋がります。麻田総理への回答も、これで行います」
明珠は、静かに息を吐いた。
「よくやった」
短い言葉だった。しかしそれが、この女の最大級の評価だと、明月は知っていた。
少しの沈黙が流れた。
乳母車の中で、赤子が小さな声を上げた。陣原琉が、素早く揺らす。巨体が、驚くほど繊細な動作をした。
「伯母上」
明月は、声のトーンを少しだけ変えた。
「一つ、申し上げてもよろしいですか」
「何だ」
「ご出産をご検討いただけないでしょうか」
室内の空気が、一瞬だけ止まった。
陣原琉の手が、乳母車の上で静止した。
明珠は、無言で明月を見た。
「藤堂直樹記念病院なら、安全です。私が保証します。痛みも少ない。トリプルタワーは通信インフラが完璧に整っています。日本にいながら、南京の政務はほぼ滞りなく執れます」
「……」
「邪馬台国の響子大臣は、四つ子を産んで翌週から執務に復帰しています。育児をこなしながら、20兆円規模の国際プロジェクトを動かしています。伯母上に、できないはずがありません」
「響子とやらを引き合いに出すか」
「最も分かりやすい実例ですので」
明珠は、長い沈黙の後、ゆっくりと乳母車へ視線を向けた。




