着陸前夜
村上総理は執務室の窓から月を見上げていた。
その白い光は、いつもと何も変わらない。
だが明日、その静かな世界へ、日本人が降り立つ。
麻田官房長官、モノリス計画責任者の川島、宇宙開発機構理事長の吉田が執務室へ入ってきた。
壁の大型モニターには、月へ向かう二つの光点が表示されていた。
先行するメリケンの月航行船「ワイバーン」。
その約二時間後を追う、日本の月航行船「月兎」。
両船は、ほぼ同じ軌道をたどりながら月へ向かっていた。
村上が口を開く。
「いよいよ明日ですね」
川島がリモコンを操作すると、画面が月面地図へ切り替わる。
アポロ11着陸地点。
アポロ15近傍のモノリス。
月の南極、アルテミス基地。
そして、アポロ11の近く、メリケンの探査機が撮影した謎の月着陸船「KAGUYA2」と、その近くに残されていた旧世界の月面車「ルナクルーザー」。
「各探査機からの最新情報です。
アポロ11、アポロ15、南極基地の三地点については、日本の無人探査機が引き続き情報収集中です。加えて、メリケンが発見したKAGUYA2と、ルナクルーザーの追跡映像についても解析を終えました。どれも調べたい。しかし時間がありません」
村上も静かに頷いた。
「KAGUYA2も、アルテミス基地も興味深い。でも、最優先はモノリスだ」
吉田が次の資料を映した。
画面には、ハワイ・ハレアカラ天文台とアポロ11を結ぶ赤い線が描かれる。
「アポロ11に日本が設置した新型コーナーキューブが、メリケンからのレーザー照射を検知し始めました」
村上が視線を上げる。
「始まったか」
「はい。まだ試験照射ですが、明日には完全な観測体制へ移るでしょう。その後、アポロ15へ照射対象を移すまで、どれだけ時間があるかは分かりません」
川島は苦笑した。
「日本製コーナーキューブの性能解析に、たっぷり時間を使ってくれればありがたいのですがね」
麻田が静かに笑う。
「向こうも必死ですよ」
村上は月面地図を見つめた。
「2041年の日本を名乗るKAGUYA2。ルナクルーザー。そしてアルテミス基地」
少し間を置く。
「我々だって全部調べたい」
「しかし、一度の着陸では無理です」
川島が即座に答えた。
「活動時間は八時間。着陸船は一人乗りです。」
吉田が静かに続ける。
「モノリスから得られた情報では、旧世界の人類は2090年代まで月面基地を運営していました」
画面が切り替わる。
月面基地の想像図。
「最盛期には五十人規模。火星への有人着陸にも成功しています」
村上は驚きよりも、確認するように尋ねた。
「日本は存在していたのか」
「はい」
吉田は頷く。
「少なくとも、日本が途中で消えた歴史は存在しませんでした」
「では、我々は……」
吉田は首を横に振る。
「その質問だけは拒否されました。『どこから来たのか』については回答不能だそうです」
静かな沈黙が流れる。
川島が工程表を表示した。
「明日の運用計画です」
月周回軌道が映る。
「予定通りなら、ワイバーンから月着陸船が分離したことを確認してから、こちらも降下を開始します」
軌道が一本増える。
「ただし、メリケンがアポロ15上空を通過する軌道を取った場合」
赤い線が消えた。
「こちらは月周回を中止し、直接モノリスへ降下します」
吉田がすぐに口を挟む。
「無人探査機のデータはあります。しかし、周回による最終確認なしでの降下は危険です。着陸誤差も大きくなります」
村上は椅子にもたれ、小さく息を吐いた。
「人命を優先して二番手を取るか」
視線を月へ向ける。
「国益のために命を懸けてもらうか」
誰も答えない。
村上は苦く笑った。
「そんな判断をしなくて済むよう、祈るしかないな」
麻田が資料を閉じた。
「もう一つ報告があります。例の四人です。
体調不良となったメリケンの宇宙飛行士四名は、日本宇宙ステーションで保護しています。
疲弊していますが、命に別状はありません。
地球帰還後も長期間の休養が必要でしょう。
少なくとも二か月は、メリケンによる二回目の有人着陸は難しいと考えられます」
村上が少し笑った。
「その件で、ドロシー大統領から電話があったよ。
丁重なお礼と、来週の緊急来日の打診だった」
麻田は静かに頷いた。
「話すべきことは多そうですね」
村上は窓の外に浮かぶ月を見つめる。
「ああ。明日は長い一日になる」
誰も言葉を返さなかった。
執務室には、時計の秒針だけが静かに時を刻んでいた。
その先にあるのは、人類がまだ知らない答えだった。




