PROPOSE
「う、うぷっ……」
気が付いたら、本会議場の裏にある議員用トイレの個室で、胃の中のものをすべてぶちまけていた。
冷たい便器にしがみつきながら、荒い息を吐き出す。鏡に映った自分の顔は、まるでお化けのように真っ白だった。
36歳。ただの若造だ。普通の会社なら、まだ課長にさえなっていない年齢。そんな男が、今日からこの国の「内閣総理大臣」になる。
狂ってる。この国も、あの議場も、左派の老害どもも、全員まとめて狂っている。
「……どうせ半年で政権崩壊だ。誰がやったって、こんなハング・パーラメント維持できるわけがない」
そう呟いて口を shake するように激しくうがいをした。だが、胸の奥から湧き上がるドス黒いアドレナリンが、不思議と脳を冷え切らせていくのが分かった。
いや、ダメだ。投げ出したら終わりだ。やるからには、最善を尽くしてやる。
どうせ短命の泥舟政権なら、周りの迷惑や世論の目なんか知ったことか。生真面目に遠慮して死ぬくらいなら、使えるものは親でも官僚でも国境さえも超えて全部使い倒してやる。厚かましいお願いのひとつやふたつ、世界中から文句を言われようが知るか。
個室を出て、待たせていた幹事長の山本を呼び止めた。
「山本さん。組閣だ。うちの幹部連中の『NEXT内閣』の名簿を持ってきてくれ。……一人も逃がさない」
あいつらは規約で、自分から進んで大臣の席に手を挙げたことになっている。だったら、その責任の重さにのたうち回ってもらう。
例外は、旧野党の元代表で、百戦錬磨の老獪さを持つ和泉氏だけだ。内定していた厚生労働大臣から外した。代わりに、この地獄のような国会をコントロールするための最重要ポスト「国会対策委員長」へスライドさせる。
うちの党で当選3回以上のまともな実務派は絶望的に少ない。ポピュリストの有名人やユーチューバーには省庁のトップなど土台無理だし、下位当選の旧野党議員にもロクな人材は残っていない。
「それから、麻田前総理のところに連絡を。当初の約束通り、民自党から大臣政務官を13人、すべての重要省庁に送り込んでもらう。実務のパイプであり、我が党が預かる監視の目だ」
官房長官のポストは、まだ、僕自身が兼任する。
それ以外の枠には、覚悟を決めさせたNEXT内閣のメンバーをそのままハメ込み、深夜の宮中参内へと車を走らせた。
――だが、これだけでは足りない。
民自党という化け物組織を御するには、政務官13人程度の人質ではあまりにも脆弱だ。
深夜2時。
任命式を終えたその足で、僕は無理を言って、麻田前総理の待つ総理官邸の奥深くへ乗り込んだ。
男の人生において、最も緊張すると言われる「あのセリフ」を口にするために。
応接室のソファに座ると、麻田前総理は「やれやれ」といった風に、しかし全てを見透かしたような目で僕を迎えてくれた。
そして、冷えた緑茶を静かに置いてくれたのが、直子さんだった。
麻田直子、40歳。独身。
年齢不詳の、冷徹なまでの知性を湛えた超美人。総理大臣補佐官として各国要人とダイレクトに渡り合い、日本政府の「裏の防諜・外交ライン」を実質的に統括している、この官邸の真の怪物。
好都合だ。彼女がここにいることが、僕の勝算のすべてだ。
「……村上総理。初登庁の夜に、ずいぶんと急な訪問だな」
麻田前総理が茶をすする。
僕は、一度肺の底まで冷たい空気を吸い込み、完全に腹を括った。
36歳の若造が、100年の歴史を持つ権力構造に勝つための一世一代の大博打。
直子さんを真っ直ぐに見据え、僕は伝説のセリフを口にした。
「麻田さん。直子お嬢さんを、僕にください」




