密談
西川口・鉄鍋炖専門店
夕暮れの西川口。
駅前から一本裏へ入ると、羊肉と香辛料の香りが漂ってくる。
小さな鉄鍋炖専門店は、今日も満席だった。
店内のほとんどを鬼女たちが占めている。仕事帰りらしい作業着姿も私服に着替えた者もいる。豪快な笑い声と、鉄鍋から立ち上る湯気が狭い店内を満たしていた。
店の奥、小さな個室。
テーブル中央に据えられた大鍋では、羊のあばら肉と内臓が八角、花椒、クミンとともに煮え立っている。
鍋の縁には、とうもろこし粉の生地が貼り付けられ、香ばしく焼き上がっていた。
桐本大臣は湯気を吸い込み、思わず頬を緩める。
「美人に指南していただく本場の味とは、実にありがたい」
肉を口へ運びながら頷く。
「八角とクミンの香りが食欲をそそりますな」
向かいに座る雷鳳鳴は、短く笑った。
四十代半ばとは思えぬ整った顔立ち。
黒髪を後ろで束ね、軍服ではなく地味なコート姿だが、その眼光だけは歴戦の将そのものだった。
「世辞でも光栄だ」
自分も羊肉を口へ運ぶ。
「もっとも、国じゃ将軍でも年に一度食えるかどうかの御馳走だ。慣れてるほどじゃない」
桐本は焼き上がったとうもろこしのパンをちぎった。
外は香ばしく、中は湯気でふっくらしている。
「帰国された娘さん方は、お元気ですかな」
雷はゆっくり頷く。
「今のところはな」
少しだけ視線を落とした。
「赤子が生まれるのは半年後だ。本当の結果が分かるのは十数年先だが……」
静かに息を吐く。
「その日までは、生きて見届けたい」
桐本は真剣な表情になった。
「例のiPS細胞技術ですが、貴国女性の半数には、ミトコンドリア異常を修復した細胞を用いました。残る半数には、万一に備え、日本女性の受精卵を保険として提供しています」
雷は腕を組んだ。
「つまり、平民の家から名家の娘が生まれる可能性があると」
「ええ、我々はそう期待しています」
雷は苦笑した。
「革命のどさくさで、名家の姫がモンゴルの平民に娘を預けて逃げた……
誰があんな作り話を思いつく」
桐本も笑った。
「男児が生まれ始めるまでは、誰も気付きますまい」
「その頃には後の祭りか」
雷は鍋の湯気を見つめたまま呟いた。
しばらく沈黙が流れる。
隣の席から、若い鬼女たちの笑い声が聞こえてきた。
仕事帰りらしく、豪快に肉へかぶりつき、焼きたてのパンをちぎって鍋へ浸している。
桐本は目を細めた。
「いや、それにしても」
小さく笑う。
「隣のお嬢さん方。見事な食べっぷりですな
日本に馴染んでいるのが、ここからでも分かります」
雷は顔をしかめた。
「……いじめるな。あの連中に、あんな破廉恥な作戦を命じたのは私だ。
思い出すと、胃が痛い」
桐本は静かに首を振った。
「貴方の機転で、多くの命が救われました
恥ずべき作戦と、恥ずかしい作戦は違います」
雷は少し驚いたように桐本を見た。
「沖縄戦の件で、日本に恨まれていると思っていた」
桐本は苦笑した。
「苦労はしましたが、恨むほどではありません。
今では、あの時の兵たちが建設現場でも農場でも救世主です」
雷は黙った。
鍋だけが静かに煮え続けている。
やがて桐本が話題を変えた。
「ところで、一度に生まれる赤子の数を抑える薬。貴国の協力で目途が立ちました。
万一のとき、日本の男女比を守るための矛と盾がそろいました。
その点では、貴国女性の協力に大変感謝しております」
雷はしばらく黙り込んだ。
それから、ゆっくりと杯を持ち上げる。
「お互いに利益がある。
そういう関係が、一番長続きする。」
桐本も杯を合わせた。
「片方だけが得をしてはいけません。」
小さく杯が鳴る。
「ああ。事が成れば、この恩は決して忘れない。
約束する。」
個室の外では、鬼女たちの笑い声が途切れない。
羊肉の香りと香辛料の湯気が店いっぱいに広がっていた。
窓の外では、西川口の夜が静かに更け始めていた。




