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 第二十章 静かな侵入者



 春になったばかりだというのに。


 過ごしやすかった昼は。


 あっという間に暑くなった。


 だけど。


 夜から朝にかけては。


 まだまだ寒くて。


 ストーブを点けていた。


 そのせいか。


 少し体調を崩して。


 風邪の引きはじめのような。


 重だるさがあった。


 体が。


 山の寒暖差に。


 ついていけなかった。


 みーちゃんは。


 暑い昼間に出かけるのをやめて。


 肌寒い夜に出かけるようになった。


 そして。


 朝六時ごろになると。


 ひょっこり戻ってくる。


 毛皮をまとっているみーちゃんには。


 きっと。


 そのくらいの気温が。


 心地よいのだろう。


 みーちゃんが眠っている昼間。


 私は雑草と格闘していた。


 成長のスピードが。


 秋や冬とは比べものにならない。


 雨が降った翌日には。


 刈ったばかりだというのに。


 野菜が雑草に埋め尽くされていた。


 畑だけではない。


 駐車場も。


 庭も。


 あっという間に雑草だらけになる。


 この家を借りる時。


 大家さんから。


 草刈りをお願いします。


 と頼まれていた。


 けれど。


 春の雑草が。


 これほどの勢いで伸びるなんて。


 想像もしていなかった。


 鎌だけでは。


 もう限界を感じ始めていた。


 そんな時だった。


 ある事件が起きた。


 それは……


 草刈りを終えて、家に戻ったあと。


 ふくらはぎに。


 小さな黒いものがついているのに気づいた。


 最初は。


 ただのゴミかと思った。


 けれど。


 払っても取れない。


 つまんでも。


 簡単には取れない。


 よく見ると。


 それは、皮膚に噛みついていた。


 マダニだった……


  

 私のお爺ちゃんは。


 夏に原因不明の高熱を出して。


 入院して。


 そのまま亡くなった。


 私が。


 高校生の時の話だ。


 今でこそ。


 マダニが媒介する感染症は知られるようになった。


 SFTS。


 重症熱性血小板減少症候群。


 そんな病名を。


 ニュースで耳にすることもある。


 けれど。


 当時はまだ。


 そんな言葉は、身近なものではなかった。


 ただ。


 原因不明の高熱。


 そう言われただけだった。


 だから。


 ふくらはぎに噛みついているそれを見た瞬間。


 背中の奥が。


 すっと冷たくなった。


 もしかすると。


 ここ数日。


 体調がすぐれなかったのは……


 そう思うと。


 胸の奥が。


 ざわざわと騒ぎ出した。


 ただの風邪だと。


 思っていたものが。


 急に。


 別のものに見えてきた。


 その瞬間。


 心臓が。


 いやな音を立てていた。


 爪でつまんで。


 引き剥がしたくなった。


 でも。


 私は手を止めた。


 ゆっくり息を吸って。


 いったん、吐いた。


 それでも。


 鼓動は速いままだった。


 不安が胸の中で膨らんで。


 私は。


 眠っていたみーちゃんの隣に座った。


「みーちゃん、どうしよう……」


 小さく名前を呼ぶと。


 みーちゃんは。


 ゆっくり目を開けて。


 私を見つめた。


 そして。


 何も言わずに。


 私の手を。


 ぺろり。


 ぺろり。


 と舐めてくれた。


 まるで。


 大丈夫だから。


 落ち着いて。


 そう言ってくれているような気がした。


 その温もりに。


 少しだけ。


 張りつめていた気持ちがほどけていく。


 そう。


 大丈夫。


 落ち着こう。


 たしか。


 自分で取るのは危険だったはず。


 無理に引き抜くと。


 口の部分が。


 皮膚の中に残ることがある。


 そうなれば。


 炎症や感染の原因になる。


 私はスマホを手に取った。


 もう夕方だった。


 一番近い救急病院は。


 車で40分。


 主治医のいる街まで行くよりは。


 ずっと近かった。


 そこに電話をかけた。


 呼び出し音が鳴っている間も。


 ふくらはぎの黒い点から。


 目を離せなかった。


 電話がつながると。

 

 私はできるだけ落ち着いた声で。


 状況を説明した。


 草刈りのあと。


 ふくらはぎにマダニが噛みついていること。


 自分では取っていないこと。


 いつから噛まれているのかは。


 わからないこと。


 話し終えると。


 看護師さんは。


 柔らかい声で言った。


「今から来てください」


 その一言に。


 少しだけ肩の力が抜けた。


 私は電話を切って。


 もう一度、みーちゃんを見た。


「みーちゃん。私、病院行ってくるね」


 そう言うと。


 みーちゃんは。


 むくりと起きて。


 支度をしている私を見つめていた。


「大丈夫。すぐに帰ってくるからね」


 そう伝えて。


 私は。

 

 マダニと共に。


 病院へ向かった。


 40分後。

 

 病院に着くと。


 電話をしていたおかげで。


 話はスムーズに進んだ。


 時間外だったので。


 受付は簡単なものだった。


 名前と症状を伝えると。


 看護師さんがすぐに来てくれて。


 診察室まで案内してくれた。


 しばらくすると……


 外科の先生が来た。


 先生は。


 私のふくらはぎを見て。


「ああ、これはマダニだね」


 と、淡々とした声で言った。


 その横で。


 看護師さんが。


 にこやかに笑って。


「もう、そんな季節なんですね」


 と言った。


 その言葉で。


 私は少し安心した。


 この人たちは。


 何度も見ているのだ。


 慌てることではない。


 ちゃんと処置できるものなのだ。


 そう思えた。


 それでも。


 ここ数日、体調がすぐれなかったことを。


 先生に伝えた。


「うーん。この大きさなら24時間経っていないと思います」


 先生はそう言うと。


 念のために。


 ほかに噛まれた跡がないか。


 確認してくれた。


「他には見当たりませんね。症状が出るとしたら、1週間から2週間くらいです。その間は注意してください」


 私は。


 小さくうなずいた。


「はい……」


 処置は。


 思っていたよりも大がかりだった。


 先生は。


 まず消毒をしてから。


 麻酔をした。


 ちくりとした痛みのあと。


 ふくらはぎの感覚が。


 少しずつ遠くなっていった。


 それから。


 先生は。


 一言だけ言った。


「メス」


 その言葉は。


 ドラマや映画の中でしか。


 聞いたことがなかった。


 看護師さんから。


 メスを受け取った先生は。


 マダニが噛みついている場所のまわりを。


 メスで四角く切った。


 虫だけを取るのではなく。


 噛みつかれた皮膚ごと。


 切り取った。


 私は。


 思わず。


 目を逸らした。


 痛みはなかった。


 麻酔が効いていたからだ。


 けれど。


 自分の皮膚が。


 小さく切り取られていく。


 その事実だけが。


 やけにはっきりしていた。


 処置は。


 思っていたよりも早く終わった。


 傷口にガーゼを当てて。


 その上から。


 医療用のテープで固定してもらった。


 私に噛みついていたマダニは。


 小さなビニール袋に入れられて。


 看護師さんが。


 奥の部屋へと持っていった。


 先生は。


 処置を終えると。


 私に尋ねた。


「ペットを飼ってますか?」


 突然の質問に。


 少し戸惑った。


 だけど。


 正直に答えた。


「はい。猫がいます」


「そうですか」


 先生は。


 小さくうなずいて言った。


「もしかしたら、その猫が持ち込んだかもしれませんね」


 その言葉に。


 私は思わず。


 みーちゃんの顔を思い浮かべた。


 家で。


 私の手を舐めてくれた。


 あの小さな舌の温もりまで。


 一緒に思い出していた。




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