17.眠れぬ夜に
疲れたということにして、私はその日、早めにベッドに入った。
しかし、眠れるわけもない。お昼まで眠りこけていた私はただでさえ生活リズムが狂い気味だったのだ。その上に、怒涛の新情報に興奮してしまって、とてもではないが安らかに眠れるものではなかった。
ベッドの中で寝返りをうちながら、アンドロアーズ様に聞いた情報をなんとか咀嚼していこうと努力する。
最後の方に話していた地下の精霊の話のことも気になるが、やっぱり自分の身の上のことを思い返さずにはいられなかった。
強い怒りや悲しみといったものを人前で出さないために、一時的に感情を棚上げするのは私が身につけた技術だ。だが、同時に人は自らの感情を無視することはできない。向き合わなければならないことも存在する。逆に言えば、後でちゃんと向き合えると思うからこそ後回しにすることだってできるのだ。
だから、私はイメージの中の高い棚の中から箱を下ろして、その中身と向き合うことにした。
しかし、やっぱり私は死んでいたらしい。
いやもう本当に……。何であのとき、道を間違えているかもしれないと気づいた時に引き返さなかったのかという何度ともしれない後悔が襲ってくる。とはいえ、道に迷って山の中で野宿になってしまうとかならともかく、まさかあんな死に方をして、挙げ句の果てに魂にまで傷を負う羽目になるとか普通思わなくても仕方ないのではないか。
私の愚行が原因だとしても、せいぜい散々迷って苦労した挙句、クタクタになってホテルで大いに反省するくらいで済んでほしかった。誰に言うわけでもなく、しいて言うのなら神様と言われるような存在に文句をつけたいような気分だ。
いや、神様は悪くはないんだ。むしろ、私の魂が完全に消滅せずに済んだのは多分神様のおかげなのだし。私はそんなに信心深いわけでもないのに、本当に感謝するしかない。神様が助けてくれなかったらどうなったことやら。異世界から届くかは分からないけれど、感謝の祈りを捧げておこう。
しかし、実際どうなったのだろう。アンドロアーズ様から聞いた時のイメージとしては、悪漢に刺されそうになっている被害者を助けるために突き飛ばしたら、思いもかけずに異世界にまで飛んでいったみたいな感じなのだが。
アンドロアーズ様の答えから、私を助けてくれた推定神様はおそらく無事だったようだが、あの場にいた他の青年らは無事だったのだろうか。
これについて質問しなかったのは、聞いている感じアンドロアーズ様も詳しいことを知っているわけではなさそうだったのを察したからでもある。だが尋ねなかった一番の理由は、無事だったとしても、無事ではなかったとしても、感情の持って行きどころが分からなくなりそうだったからに他ならない。
私が酷い目に遭ったのだから、他の奴も酷い目に遭えとかいう呪いの存在にはなりたくない。だけど、巻き込まれただけの私がこれだけ酷い目にあって、あのバイク暴走男が一命を取り留めて無事でしたとか言われたらちょっと腹立たしくはなってしまいそうな気がする。だけど、逆にあの男の魂は苦しみぬいて消滅しましたとか言われてもそれはそれで後味が悪い。
無事だったとしても手放しで喜べるほど性格が良くもなれないし、無事じゃなかったとしてもざまあみろと喜べるほど恨みを募らせるのも難しい。……感情の処理が難しい。
この先彼らの安否を知る方法があるとも思えないし、知らない方が良いことなのかもしれない。
微妙に色々モヤモヤするけど、こうなってはもう仕方のないことなのだろう。
それにしても、あちらの世界ではやっぱり私の葬儀なんかも行われたのだろうか。
以前、私の友人の身内が旅行先で亡くなったらしいのだけど、そういう場合ご遺体の輸送が大変らしいのだ。考えてみたら、もちろんご遺体を普通の客室に載せるわけにも行かないし、普通の貨物としても扱えないだろうしで、色々あるのだろう。それで結構お金もかかったと聞いた。
私も飛行機が必要な距離で死んでしまったのだから、家族はさぞ難儀しただろうなと思うと罪悪感が湧き上がってくる。それに、親どころか祖母よりも早く死んでしまうなんて本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
仕事の上でもせっかく企画を任せてもらったのに、良い記事を書くぞと張り切っていたのに、改めてじわじわと悔しい。
これまでもこれらのことについては考えていたのだけれど、一応「多分死んだのだろう」という憶測で終わっていたので、あまり深く考えないようにしていた節がある。だけど、状況の整理が出来て私の死が決定的になった以上、向き合わずにはいられなかった。
そうやって、由紀だった頃の未練や心残りを整理しながら、だけれど私はその底にどうしようもない不安が横たわっている事実を無視することはできなかった。
——そもそも、私は小早川由紀なのだろうか。アンドロアーズ様は、私の魂が深い傷を負ったと言っていた。破壊されるギリギリのところだったと。
だけれど、そこまで傷を負って、いわゆる心というものは欠損しないのだろうか。
例えば、脳に傷を負った人間が別人のようになってしまうことがあると聞いたことがある。あるいは、強く頭を打って記憶喪失になるなんてこともよく聞く。
あるいは脳よりもよっぽど存在の根底にありそうな魂に傷を負って、私は記憶や心をそのまま保てているのだろうか。
私が思い返した範囲では、特段記憶が失われているとか、心から何かが失われているという実感は乏しい。性格は変わってしまっているところもあると思うが、それはオレリーの心と混じり合った結果との区別がつきづらい。
だけれど、もしも私の記憶や心から何かが欠落していたとしても——それがもしかしたら私にとってとても大切な何かだったとしても、それを思い出すことは困難だ。
創作物での記憶喪失ものでは、恋人の存在を忘れてしまって、恋人が忘れられてショックを受けるシチュエーションは割とよくある。だけど、ああいったものは忘れたはずの恋人を見て何かを感じたり、周囲から諭されたりするというストーリー展開になる。記憶が失われても、存在が消えなければ、過去を取り戻すきっかけにはなるだろう。
だけれど、私はどうだろうか。……独身を謳歌しようとした記憶はきっちりとあるので、恋人は流石にいなかったと思うのだが……。それでも、もしも忘れてしまった大切な人や大事な何かがあったとしても、異なる世界で転生してしまった以上、もうその記憶を取り戻す手段がない。もはやこちらの世界で生きるしかない私にとって、元の世界につながるよすがはもう記憶の中にしかないというのに、その記憶ですら十全であるかどうか定かではない。
例えば何か私が決定的に変わっていたとして、元の世界ならば家族や友人に私の変化や記憶の齟齬なんかについて相談もできただろうに、そんなことももはやできないのだ。
果たして、私は私のままと言えるのか。不安でよく分からなくて、気づくと目に涙が浮かんできた。
何でこんな目にあわないといけないのだと、何度ともしれない繰り言が浮かんでくる。
魂が破損した。ただそれだけの事実。だけれど、自分の身に降りかかってくると、こんなにも恐ろしくて悲しくてたまらない。
……しかも、同じ不幸に晒されたのは、私だけではなく、私もだ。
この世界を記した小説を読んだ時に私が物語の中のオレリーに感じたのは、情状酌量の余地がほぼない悪役らしい悪役だということだった。
悪役だと一言で言っても、キャラクターによって作中での扱われ方や読者の感想は異なってくる。例えばオレリーが強奪スキルを授かったことで親から虐待されたとか、周囲から虐められたとかそういう描写があれば、悪役なりに同情する読者も多かっただろう。
あえて同情の余地を挙げるとしたら、世間的に偏見を抱かれるようなハズレスキルを授かった点、そしてそれを隠すために貴族社会では見下げられがちなスキルなしのふりをしないといけなかった点くらいだ。
とはいえ、それでちょっとグレたとか捻くれたとかならともかく、作中での行動の悪質さがひどくて、ただひたすらヘイトを買っていた印象だ。
例外として、ヒロインの軽挙と後手に回りっぷりが酷くて、「オレリーは性格最悪だけど主人公よりは頑張ってるんだよなあ」みたいな擁護とも言えないような持ち上げ方はあったけれども。……オレリーが持ち上げられていたというよりも、ヒロインに苛立つ読者が一定数いたせいで相対的に上げられていただけだ。
とはいえ、基本的にオレリーはヘイトタンクだった。前の時間軸でオレリーに誑かされてヒロインを処刑に追いやった王太子やその側近らは、新しい時間軸では逆にヒロインに夢中になり、途中また誑かされるという失態を犯しても悪いのはオレリーだからと許されていた。……一部の読者はここら辺に納得いかず、だからこそずっとヒロインの味方だった光の精霊王派が一定数いたみたいだが、少なくとも作中の扱いとしては許されていた。王太子との元さやエンドだったし。
つまるところ、諸悪の根源は全部オレリー・クラメールで、この悪女が追い詰められて「ざまあ」されてスカッとするストーリーだったのだ。
だけれど、かつて魂レベルで被害を受けていたなんてストーリーのどこにも出てこなかった。もちろん、だからといって悪辣な行動が許されるべきだとは思わない。
それでも、作中のオレリーはフェアに判断されていなかったんじゃないかという気はしてしまっている。
せめて、オレリーが処刑されてそれで終わりならそれでも納得できた。しかし、作中ではっきりとは言われていないけど、おそらく両親もオレリーが起こした問題に巻き込まれている。……法律書を読んでみたのだ。オレリーが最終的に犯したのは外患誘致罪だ。これには連座も適用される。おそらく、あの物語の中であの優しくて善良な両親は処刑されている。
物語の中での出来事なのに、私の胸は痛んだ。きっと、物語の中のオレリーだってそんなつもりはなかったのではないかと思ってしまうから。ただ、魂の欠損からくる心の飢えに抗えなかっただけ。
あの物語の読者の中には、そんな事実を知ったところで、そんなことは知らないという人もいるだろう。どんな理由があろうとも、罪は罪。悪事の理由があるから、不幸だからといって、悪いことをしていい理由にはならないと。オレリーは自業自得の悪女であり、惨めに死んだ上に大切な両親まで死ぬことになって心底ざまあみろと嘲笑われるかもしれない。
そしてそれは、確かに正論と言える。実際に犯罪を犯す人間に「可哀想な過去」があることは珍しくない。親から虐待されていた人間が成長して凶行を犯すとかいったような。だからといって、被害者に許してやれとか言うのは二次加害だろう。被害者からしたらそんなことは知ったことではないのである。
だけれども私は——世界中で、自分くらいは自分を憐んでいいのではないかと、そう思った。
物語を読んでいる時はそんなことは思わなかったのに、自分自身がオレリーになってその裏側を知ってしまった今は、物語の中のオレリーが可哀想だった。
「ふぇ……く……」
泣き出すと、どんどん自己憐憫が浮かんでくる。そしてそれを、私は私に許すことにした。
世界中の誰にも——異世界の読者にすら同情もされなかった物語の中のオレリーのために、自分だけは涙を流そうと思った。
由紀の運命も、オレリーの運命もあまりに理不尽だ。魂の欠損による飢餓感なんて、そんなものにどうやって抗えば良かったというのか。
大体、アンドロアーズ様が言うように神殿の強硬な行動によって闇の精霊が暴れたことが原因で私がこうなったのなら、そもそもの原因は神殿ではないだろうか。
なんだか、作中で光の精霊王がオレリーを諸悪の根源の絶対悪みたいに言っていたのがムカつく。
なんだろう。虐待が原因で凶行を犯した人間を、虐待した張本人が正義ぶって批判している図のような。虐待に全く関係ない被害者や第三者ならともかく、お前が言うなというか。
その点、アンドロアーズ様は割と筋の通った感じの意見だった。
——アンドロアーズ様。もしかしたら、前回の時間軸でも、アンドロアーズ様はオレリーを憐れんではいたのかもしれない。あの方の言い方からして、神殿が原因だと知ったのは、同調してからのようだったが、魂が傷ついているのは分かっていた様子だった。
そういえば、小説の中でも、他の精霊王がヒロインの味方ポジションとして登場する中、アンドロアーズ様だけは登場しなかった。
もしかしたら、魂の件が分かっているだけにヒロイン側にだけ肩入れをするのに躊躇したのではないだろうか。アンドロアーズ様の律儀そうな性格からすると、そういうこともあり得そうだ。
……実は全く違うかもしれないけど、そうかもしれないと思うと、何だか少しだけ救われる気がする。
私は一晩かけて、考えるだけ考えて、悩むだけ悩んで、悲しむだけ悲しんで、怒るだけ怒った。
その中で、ひとつだけ気づいたことがあった。
きっと、小説の中のオレリーは追い詰められていたのだろう。素晴らしいスキルを得て人から賞賛されるどころか、ハズレスキルを授かりスキルなしとして蔑まれることに。そしてまた、村の中では井の中の蛙状態になれる男爵令嬢という身分も、学園では大したステータスにもならない。
常に称賛され承認を求めずにはいられなかったオレリー・クラメールはそうした現実が受け入れられず、凶行に走ったのだろう。
だが、逆に言えば、この村の中で私はずっと安定していた。傲慢で周りを見下していたかもしれないし、癇癪を起こして酷い態度だったこともあるかもしれない。それでも、時々ひどく拗ねることを除いては、それなりに安定していたのだ。
両親に愛されていた。両親が領民から慕われていたから、その娘である私にも領民は優しくしてくれていた。貴族の娘に媚びへつらうのでも恐縮するのでもなく、敬愛する領主の娘に心から良くしてくれていた。そして、一緒に遊んでくれた幼馴染たちに、心優しい大切な親友。
魂の傷から生じる心の中のかつての欠損を自覚した私は、そんなギリギリの状態でもそれなりに幸福に生きられていたことこそが、むしろ奇跡のようなことであったことに気づいた。
決して褒められたものではない子供だっただろう。親切にしてくれる領民のことも心の底では見下していたし、傲慢な性格で聖女になるとか王子様に身染められるとかいう夢物語に浸っていた。
だけれどそれでも、私は毎日を幸福で楽しく生きていた。
誰も、私の魂の状態なんて想像もしていなかっただろう。だがそれでも、確かに守られていたのだ。
私はベッドから起き上がると、窓を開けた。空は、ほんの少し白み始めていた。
結局一睡もできなかったなと思いながらも、ゆっくりと太陽が昇りゆく光景を、私は静かに眺めていた。
夜の闇を朝日が祓い、村の様子が照らされる。村人たちが丹精を込めて手入れをしている畑では麦が黄金に色づいていた。黄金の稲穂が、風にそよがれて波打つ。同じ風が、まとめていない私のピンク色の髪をふわりと靡かせた。
稲穂の向こうにはささやかな果樹園。まだ実が成る季節ではないが、雑草は刈り込まれ、丁寧に手入れされている。あの木々が、あと少ししたら豊かな果実を実らせることを知っている。
そして、畑の間にぽつぽつと建っている家屋の煙突からは、すでに煙が立ち上っていた。村民の朝は早い。勤勉な彼らはもう煮炊きを始め、1日をスタートさせている。
そんな素朴な田舎風景が、私の眼前に広がっていた。
理想郷。そんな単語が浮かんだ。
かつての私が、何もない退屈な村だと断じた場所。
だけれど、確かに7年間、この場所でずっと守られていたのだ。魂の飢えに悩まされることもほぼなく、ただ普通の子供のように無邪気でいられたことが、途方もない奇跡のようなものだったのだと、気づかずに。当たり前だと思っていた全てが、けして当たり前ではなかったのだと知ることもなく。
私の瞳から、再び涙が溢れてこぼれ落ちた。それは先ほどまでの自分を憐れむものではなく、何か荘厳で神聖なものに触れた時の、純粋な感動の涙だった。
太陽が地平から登り切るまでの時間、私はまるで厳かな儀式のようにただただ村を眺めていた。
私がこの村にできることは何だろう。ずっと、守られていた。ようやく気づいたからこそ、私もこの村を守りたいと、強く思った。
——それは、状況も分からずにオレリーと由紀の記憶を抱えて漫然と生きていた私が、確かに自分の指針を決めた瞬間だった。
読んでくださってありがとうございます。コメント、ブクマ、評価等もしていただけたら嬉しいです。




