13.闇の精霊王
状況。部屋で一人で過ごしていたら闇の精霊王が目の前にいました。わけがわからないよ。
「ア、アンドロアーズ……様。どうして……」
凡人たる私にできることなんて、そんな問いをとっさに口にすることだけだった。
情報量が多い。
確かに、闇の精霊王の外見的特徴は聖典にも記されていたのだ。確かに彼女の外見はそれに合致している。それにしても、闇の精霊王がいきなり出てくるとは思わないではないか。
いや、原作ではヒロイン周辺に精霊王がよく出てくるのだが。特に光の精霊王なんて暇なのだろうかと思うくらい、ヒロインのところに入り浸っていた。
だけど、原作では精霊王はおろか何らかの精霊がオレリーに接触したという話はなかったので、私が精霊王なんて存在に直接相まみえることになるなんて考えてはいなかったのだ。
それに、なぜ闇の精霊王が私の地球での名前——小早川由紀という名を知っているのか。
疑問が尽きない。
だが、私はハッとして、慌てて跪くと右手を硬く握り、それを胸の前で左手でそっと包む。
これは、闇の精霊王に対する正式な祈りのポーズだ。礼儀作法の一環として先日母に教えてもらったばかりだった。
日本でも例えば神社に参拝する時は二拝二拍手一拝だとか、神社では柏手で寺では合掌だとか、知らないと恥をかく類の宗教的な儀礼はある。
こちらの世界では、そういったものが結構ややこしい。というのも、風火水土光闇の精霊王に対する祈り方がそれぞれ違うという落とし穴があるのだ。ついでに言うと、それぞれの使徒精霊に対する祈り方もまた微妙に変わってくる。例えば今は闇の精霊王に対する祈りだから右手は握り込んでいるが、これが他の闇の精霊相手なら右手は開けておく……といったような違いがある。
ちなみに、精霊関連とは別に大いなる神へ祈る場合もあるが、その場合は腕を胸の前で交差させ、広げた手の平を肩に当てるというものになる。
ちなみに、この大いなる神への祈りの所作は一応マルチな祈りの所作でもあり、平民なんかは、どの祈りの対象に対しても大体これを通していたりする。「全ての精霊王に対して祈る」といったような場合もこれでいい。
ただ、貴族の場合はそれぞれの精霊王とかに祈る際にこれで誤魔化していると教養がないと軽んじられてしまう。そのため、貴族の子弟はそれぞれの祈りの所作をちゃんと覚えることが求められる。
私からしたらややこしくて面倒臭いから全部一緒でいいんじゃないかと思ってしまうが、そういう決まりになっているから仕方ない。
そんなわけで、突如として現れた闇の精霊王に対して咄嗟に信徒として正しい行動ができたと思うが、俯きがちに祈りながら私は気が気ではなかった。
精霊王は基本的にヒロインのカトリーヌの味方である。原作では闇の精霊王は存在への言及だけで登場はしなかったが、カトリーヌの巻き戻り現象は精霊王たちが彼女を救うために共同で決めたことと明かされている。そうであれば闇の精霊王ももちろん関与しているはずで、これが「2回目」の時間軸なら、彼女も冤罪でカトリーヌを陥れたオレリーを快く思っていないということになる。
そんな闇の精霊王が私に何の用なのか。原作では、オレリーが精霊王はおろか、精霊の類と接触したという話はなかったはずだ。
それとも、原作でカトリーヌの巻き戻り現象に精霊王が関与していたように、この世界では私のこの状況に精霊王が関与していたということだろうか。
色んな可能性が頭をよぎるが、情報が何もないので全く何も分からない。
精霊王なんていう圧倒的上位存在と敵対するなんて事態は避けたいので、闇の精霊王……アンドロアーズ様が私を敵視していないことを祈るしかない。
「楽にして良い。……其方の問いは、なぜ妾が其方のもうひとつの名を知っているかということか? その答えならば妾が闇の精霊王であるがゆえだ。魂は妾の司りしもの。我が管轄内で異世界からの魂の飛来などという変事があれば、否応なしに気づくというものよ」
「異世界からの、飛来……ですか?」
アンドロアーズ様の言葉に、私は食いついてしまった。
この口調では、私の身に何が起きたのか知っているのかもしれない。そして、精霊王らが意図したことでもない、ということだろうか。
「ふむ……妾の本題として別件だが、其方はやはり己の状況を知りたいか。無理もない。あの者からも頼まれておるし、状況を整理するために説明をしよう。……其方は、オレリー・クラメールであると同時に、異世界でコバヤカワ・ユキとして生きていた記憶もある。相違ないな?」
「……はい。仰るとおりです。正直に申しますと、状況が全く分からずに困惑しております。もしも、私の現状について、アンドロアーズ様が何かご存知であればお教えいただけないでしょうか」
精霊王という存在が私にとって味方と言えるかが不確かなため一瞬だけ迷ったが、ここまで知られていて誤魔化しても仕方がないだろう。
それに、自分の現状については何よりも知りたかった。
「妾も其方の元の世界のことは詳しく知るわけではないが、妾が受けた説明では、其方はたちの悪いモノに祟られていたらしい。命尽きた其方の魂も破壊されるギリギリのところだったようだ。あの者はそれを救うために、其方の魂を遠くに飛ばす他なかったと。その弾き飛ばした先がこの異界であったのはあの者も望むところではなかったようだが……少しでも遠くに引き離さなければ危ういところだったようだ。そして、すんでのところで間に合ったとはいえ、深い傷を負い、こちらの世界に迷い込んだ其方——コバヤカワ・ユキの魂はたまたま洗礼の儀を受けていたオレリー・クラメールの魂と混じり合った。
……異なる魂が混じり合うことは、そうあることではない。だが、このたびは両者の魂がどちらも深い傷を負い、その欠損を埋めるために混じり合った稀有なケースとなったようだ」
待ってほしい。説明でさらに分からないことが増えた。
とにかく、やっぱり祟られていたのかと思うと今更ながらに恐ろしい。魂が破壊されるギリギリのところって、それってやっぱり転生もできなくなる完全なる無だとかそういう意味なのだろうかと考えると心底ゾッとした。……私は何も悪いことをしていないのに。
だが、とにかくそれ以上に気になることが多すぎた。
「教えていただいてありがとうございます。でも、『あの者』って誰ですか? アンドロアーズ様のお話をお聞きする限り、誰かが私を救ってくれたようにも聞こえますが……」
「実を言うと、妾も詳しいことは知らぬ。世界が混じり合った刹那、少しだけ言葉を交わすことができただけだからな。だが、おそらくあちらの世界における、我らのような存在であろう。
あの者は簡潔なことの経緯と、其方をよろしくという言葉を残していった。……どうやら、あの者が言うには其方はミエコという者の大切な存在であり、ゆえに守りたかったようだ。心当たりは?」
私は、ハッとした。ミエコ。……美恵子?
「祖母の名です……」
私の脳裏に、優しい祖母の笑顔が浮かぶ。
そういえば、祖母は信心深い人だった。祖母宅の近くの寂れた小さな神社の掃除をいつもしていたのだ。私も子供の頃から祖母宅に行くたびに手伝っていた。
『ここは、大きな神社の神主さんが兼任して管理してくれているのよね。でも、あまりここまで手が回らないみたい。……だからといって汚いままじゃ神様に対して失礼ってもんだしね』
そう言って落ち葉を掃いていた祖母の顔を思い出す。
私を救ってくれた存在は、もしかしてあの神社に祀られていた神様だろうか。
気づいて、泣きそうになった。祖母に神様に対して礼を失してはいけないとは教えてもらってきたけど、実際私はそんなに信心深い方ではない。神社に参拝するのだって、時折祖母宅に行った時に祖母に付き合うのか、初詣くらいで。
なのに、神様は私が祖母の孫というだけで、私を守ってくれたのか。
……祖母に会いたい。祖母にも神様にも、お礼を言いたい。なのに、多分、できない。
この世界で目覚めてから、おそらく私は死んでしまったのだろうと漠然と思ってはいたが、先ほどアンドロアーズ様ははっきりと命尽きたと言っていた。やっぱり、あちらの世界での私は死んでしまったのだ。
親よりも先に死んでしまうのを親不孝というけれど、だとしたら祖母よりも先に死んでしまった孫はもっと不孝者だ。きっと、悲しませてしまった。
私はそんなこと考えて泣きそうになりながらも、情報を与えてくれたアンドロアーズ様に改めて頭を下げた。
「教えていただいて、ありがとうございます。その……アンドロアーズ様でしたらあちらの世界との連絡が可能なのでしょうか?」
「いや、妾の権能ではそうそう他の世界とやり取りをすることは叶わぬ。あれは、世界が一瞬混じり合った刹那、其方を助けた者が一方的に妾に伝言を伝えてきた形だ。あちらの者としてもこの世界に繋がったのは予想外のことだったようだった。今となっては其方の元の世界を割り出すのも難しい状況だ」
「そう……ですよね。私を助けてくれた方にお礼なりと言えればと思ってしまったのですが、無理を言ってしまったようですね。申し訳ありません」
駄目元で言ってみたけれど、やっぱり駄目なようだ。
私は次いで懸念を口にした。
「あの……助けてくれた方は大丈夫なのでしょうか、私を襲ったモノに傷つけられてはいないでしょうか」
「詳しくは分からぬが、妾に連絡してきた時点では落ち着いているようではあったぞ」
アンドロアーズ様の返答で少し安堵する。助けてくれた、おそらく神様——が、私の代わりにあの祠の中のモノに酷い目に遭わされていたらどうしようともちょっと思ったのだ。
しかし、アンドロアーズ様の説明で大方のことは分かったが、まだ分からないこともある。まず、なぜ偶然飛ばされた異世界が小説の中の世界なのかということだ。
また、先ほどアンドロアーズ様は私もだけれど、私の魂に対しても気になることを言っていた。少なくとも原作にオレリー・クラメールの魂云々の話は出てこなかったはずだ。どういうことだろうか。
聞きたいことはまだまだあったが、圧倒的上位者であるアンドロアーズ様を質問責めにしていいものかどうか。
あと、彼女が私の味方なのか分からないのも問題だ。原作においてオレリー・クラメールは諸悪の根源みたいな扱いで、精霊王からの評価も悪かった。神殿での契約の問題で、直接オレリーを罰せないことに苛立ちを覚えたような様子の光の精霊王が描写されたこともあるくらいだ。
とはいえ、それは実際にオレリーが悪事を成したからで、少なくとも今の私はそんなことをしていないし、する予定もない。
もしもこれが1回目の世界であるのなら、彼らも私に何も悪印象はないだろう。だが、2回目の世界なら完全に悪女だと思われているはずだ。
気になるのは、私を救ってくれた存在——多分元の世界の神様——に伝言まで与えられているのにも関わらず、アンドロアーズ様が今日に至るまで接触してこなかったことだ。いや、伝える義務なんかないと言えばそれだけなんだけれど。オレリー・クラメールを警戒していたから……とも考えられる。
それが今日になっていきなり接触してきたのは、昨日発見したあの祠に関連するのだろう。
繰り返すが、あの祠は宗教的にマズい代物だ。それを宗教的権威の最たる存在である精霊王に知られてしまったのだとしたら、中々に詰んでいる気がする。
本当に考えなければならないことが多すぎて混乱してしまう。
「……アンドロアーズ様。私がこの世界に辿り着いた経緯は分かったのですが、私の元の世界に、この世界に酷似した内容の小説があったことについては何故なのかご存知でしょうか?」
色々と考えて、私は自棄になった。いや、賭けに出たと言った方がちょっと格好いいかもしれない。そういうことにしておこう。
そもそも、もしもアンドロアーズ様が私に敵対的だったなら、あの祠を知られた時点で詰んでいる可能性が高い。神殿関係者にあの祠を物証としてクラメール領で異端崇拝が成されていると垂れ込まれたら、男爵家ごと潰される可能性が高いし、そうなると必然的に私は王立学園にも通えなくなる。私を速攻で排除し、確実にヒロインを守りたいのだとしたらそれが手っ取り早い。
ここまで状況が詰んでいるのだったら、アンドロアーズ様が私に対して敵対的ではないというわずかな可能性に賭けるしかないだろうと思うのだ。全面降伏というやつである。
もしもIQ高めのハイスペックキャラなら、精霊王を欺き、王族や高位貴族をも出し抜き、華麗に大勝利をもぎ取ることができるのだろう。でも私は、ここまで状況が分からないまま、味方もなく手探りでやっていける自信なんてまるでなかった。
「この世界に酷似した内容の小説だと……?」
しかし意外なことに、私の異世界転生のことまで知っていたアンドロアーズ様も、小説のことまでは知らなかったようだ。
「……ええ、私……オレリーと由紀の記憶が混ざり合ったことを理解した後、一番困惑したのは、私が小説の中の登場人物として、オレリー・クラメールというキャラクターを知っていたからです。私という存在だけではありません。精霊王の方々の存在や、この国のことについてなんかも。私は以前の世界での『空想を綴った物語』として記憶にありました」
「ふむ……それは思いもかけぬことだな。かといって、其方が偽りを言っているとも思えぬ。
あるいは……これは妾の推測ではあるが……。妾の知る限り、異世界というものは別個に存在しながら相互に影響を与え合うものだ。我々精霊とて異世界のことを正確に認識するのは難しいが、稀に異世界の記憶が流れ込んでくることもある。少なくとも其方のように魂が流れ込んでくることよりは起こり得ることだ。……あるいは、何らかの拍子にそれを認識したヒトの子が、知ってか知らずか、それを『物語』として記したのだとすれば——。
そうであれば、其方がこちらの世界に引き寄せられた理由も自ずとわかる。『識る』ということは縁が生まれるということ。其方は知らずして、異世界のことを記した書物に触れ、その縁によってこちらの世界に引き寄せられた可能性があるのではないか?」
私の荒唐無稽とも言える話に、アンドロアーズ様は思ったよりも真剣に考えて返答をくれた。
彼女にとっても推測に過ぎないようだけれど、少なくとも私の狭い認知で考えたことよりも正解である可能性は高いように思う。物語の中と同じだからと言って、このリアルな世界の全てがただひとりの人間の空想の具現化だとするよりは受け入れやすくもある。
私がアンドロアーズ様の言葉を少しずつ咀嚼して理解しようと試みていると、考え込んだアンドロアーズ様が再び口を開いた。
「しかし、興味深い。異世界の知識も、あるいは其方に起きた事象も妾にとっても未知の領域のものと言える。オレリー・クラメール。其方の記憶を直接見させてはもらえぬか? 無論、ただでとは言わぬ。其方の情報をもらう代わりに、妾も妾の知る限りの情報を差し出そう。どうだ?」
思いもかけない提案に、私は再び高速で情報を処理する必要性に見舞われたのだった。




