12.一夜が明けて
私が寝落ちしてしまった後も、色々と大変だったらしい。
ピエールの容体は予断を許さず、ケドリック先生が懸命の治療に当たってくれた。そうして、日が登ってしばらくしてから、ようやくピエールは意識を取り戻したとのこと。
大人たちは翌日になってから改めて崩落現場の近くまで様子を見に行って会合を行い、父が領主としてあの崖の傍への立ち入りを禁止する布告を出した。
そうした出来事を、日が登りきってから目覚めた私は過去形として聞いた。
精神的にも身体的にも無理を重ねた幼い肉体は睡眠を必要としていたようで、私は自分でも引くほど爆睡をしていた。屋敷の皆もそんな事情を酌量して、あえて起こさずにゆっくりと寝かしてくれていたようだった。
私はピエールの見舞いを済ませ、色々と手伝ってくれたメラニーに礼を言い、父からあれからの経緯を聞いた。私自身ももうあの崖には近づかないように注意を受けて、それからはゆっくりと読書に興じた。
昨日の無理で体中が筋肉痛でゆっくりしたかったし、何よりも考えたいことが多かったからだ。
私が手にしたのは、この国の国教でもあるモルメット教の聖典だ。かなり分厚くて、当家にある数少ない本の中でも一番豪華なこれは、貴族家には当然のようにあるものらしい。
由紀の意識が融合する前は、せいぜい父や母から聖典の教えを教授される時に開いて該当ページを読み込むくらいだった。しかし最近よく聖典に目を落とすようになったのは、由紀が活字中毒気味だったせいもある。しかし、それだけではなかった。
原作の『巻き戻り令嬢は聖女の力を隠して生きる』では、精霊王たちがヒロインのカトリーヌの味方として登場する。そして、精霊王とはなんぞやという説明は作品内でもざっくりと説明されていたが、それは物語を読者が理解するための概要といったところで、こんな分厚い聖典の内容が全て網羅されていたわけではない。
敵を知り己を知れば百戦危うからずとも言う。つまるところ、カトリーヌ側の事情など知るすべもない私としては、少しでも彼女の巻き戻りの原因でもある精霊王たちのことを知っておいた方がいいのだろうという判断があった。
しかし、今回はそれとは別に私には深刻な危惧があった。
——あの祠。やっぱりまずいんじゃないかしら。
昨日、ピエールの救助を決行した時に見た石造りの祠。それが私の悩みの種だった。
判断に迷い、あれについては父にも話してはいない。
あれ以降誰も危険を冒してまであの穴の底に降りたりはしていないだろう。だから、私以外誰も知らないはずだ。
さりげなく父にあの穴について何か知っているかと尋ねてもみたが、父も誰も何も知らない様子だった。おそらく、あの中の祠ごと、現在生きている人は誰も知らないものである可能性が高い。
あの祠の何がまずいのかというと、あれが「邪精霊」の祠である可能性があるからだ。
邪精霊というのは、まつろわぬ精霊。
聖典によると、かつて人の世は数多の精霊によって惑わされていたようだ。精霊に唆され、罪を犯し、相争う人々。それを憂いた天が、精霊を統べる者——精霊王をつかわし、人の世を泰平へと導いたとされる。
そして多くの精霊は、精霊王の威光の前に服従したらしい。そういった精霊は使徒精霊とされ、精霊王に仕え、人々に友好的な存在だとされている。
一方で、あくまで精霊王に従わずに背いた精霊もいるとされる。神殿ではそうした精霊を邪精霊と呼称し、これらを祀る行為は異教か異端として忌避される。
レーニス王国はこのモルメット教以外の信仰が許されていないのだが、外国には異教徒がいる。しかし、モルメット教徒は彼らを邪精霊に従う者らと断している面がある。邪精霊を祀るなんて悍ましいと忌避することもあれば、モルメット教の祭司が「邪精霊に騙されている哀れな民」を導くために啓蒙しにいったりする。
そんな世の中で、異端や異教徒の疑いをかけられることは致命的なことだ。異端の罪というのは、国法で裁かれる対象ですらある。信仰の自由なんてものは、この国では残念ながら存在しないのだ。
どうやら中世ヨーロッパの魔女狩りや異端審問ほどの見境のなさではないようだし、昔に比べたら寛容にはなっているらしい。異教の国家との交流もある。だが、それでも異端だと告発されることは社会的に致命的であることはやはり変わらない。
つまり、そんな世情で出てきた、領主すらも知らない過去の遺物のような祠——というのは一体なんなのだ、という話だ。
あれが精霊王か使徒精霊を祀る祠ならば問題ない。だが、あれで祀られているのが万が一邪精霊ならば——このクラメール領にとって致命的になりかねない。
あの場所はクラメール男爵領内だ。あそこに何かしらの禁忌があれば、当然当家の問題となってしまう。
そして、あんな隠すように祀られているものが、真っ当なものだとは思えないのが正直なところだ。
地中にあった空洞になぜ人工物があったのかは謎ではある。しかし、あまり探索してないから分からなかっただけで、崩落した穴以外にも出入りする方法があったのかもしれないし、あるいは入り口が塞がって空洞だけが残っていた可能性もある。自然に崩落したか、もしくは都合が悪くなって故意に入り口を封じたのか。
何かしらの精霊を祀っていたとしても、後ろ暗くないのならあんな場所にひっそりと隠さなくても良さそうなものである。そう考えるとやっぱり邪精霊だったから都合が悪くて隠した説が有効に思える。
そうなると、いくら今の私たちが預かり知らぬことだったと証言しても、信じてもらえるかどうか。
はっきり言って、あんなものが領地内に存在していては非常にマズいのだ。
かといって、じゃあどうすればいいのかという問題である。バレてマズいのなら証拠隠滅が手っ取り早いのだが——それはつまるところ、祠を破壊するということになる。
絶対祟られるやつの予感しかしない。
というか、祠が破壊されて恐ろしい思いをするのは一度で十分である。こんなことになっているのも、由紀の世界で祠が破壊された結果の可能性も高いのに、二重で祟られるなんて嫌すぎる。いっそのこと祟りが重なって対消滅してくれないかなんて思ってしまうが、そんなに都合よくはいかないだろう。
しかも、もっと現実的な問題もある。
人命救助のためとはいえ、あの穴に降りて行った当人の私が言うのも何だが、突然地面が崩落したことから、あの辺りの地盤が脆くなっている可能性は極めて高い。あの崖の傍への立ち入りを禁止した父や村人たちの判断はおそらく正しい。
そんな状況の中、あの祠を改めて確認したり破壊しに行ったりするもまた危険行為でしかない。物理的にも私たちには手出しのしようがないのだ。
あの祠に近づけるのなら、せめて本当に邪精霊の祠なのか見て分析することも可能だったかもしれないが——私も、人の命を助けるためならばともかく、そんなことのために命を賭けたくはない。
逆に言えば、危険があるからこそわざわざあの穴の底に降りて、祠を発見してしまう人が出てくる可能性が低いことだけが救いだろうか。奥まった場所にあったから、上から覗き込んだだけでは気付けない、はず。
考えれば考えるほど、知らぬ存ぜぬで行くしかなさそうな気がしている。
両親に相談することも考えたが、父は特に実直を絵に描いたような人だ。万が一あれが発見され、知っていたのかと尋問された時に、誤魔化し切れるかに娘ながら疑問が残ってしまうのである。
万が一の時に変な反応を返して痛くもない腹を探られるくらいなら、両親は知らない方がいいんじゃないかとも思ってしまう。
知ったところで、多分結論は私と一緒だろう。つまるところ、見なかったふりで放っておくしかない。だとしたら、実際に知らない方がまだ良いようにも思える。
それにしても、打つ手のない問題が密やかに領内に隠されているというのは気持ちの良いものではない。
父は清廉潔白で、クリーンな領政を行っている人なのに。
ご先祖様の遺物かもしれないけど、あんな代物が残されているなんて理不尽に思える。
「本当に何の祠だったのかな……」
ワンチャン、私が杞憂しているだけで実は何の問題もない、神殿でも認められている精霊の祠だったりしないかな……という希望的観測を込めての独り言は、周囲に誰もいないからこそ漏れ出た言葉のはずだった。
「丁度良い。そのことについて、其方と話そうと思っていた」
だから、返事があったことに私は飛び上がらんばかりに驚いた。しかも、それが知らない声だったから、尚更だ。
「……誰なの!?」
私の驚愕と怯えは誰何の声の鋭さとなって響いた。
「驚かせるつもりはなかったのだが。すまぬ。昨日は大変だったようだが、大事ないだろうか」
その言葉と共に現れた存在は、明らかに人ではなかった。
というのも、突然現れたとしか思えない登場の仕方だったからだ。それに、わずかに発光しているようにすら見えるのも、人ではない何かのだと私に知らしめていた。
馬鹿みたいにポカンと彼女を見つめた私の脳は少しずつ回転を始める。
明らかに人外であること。そして、淡い紫の髪に、暗い緑の瞳のグラマスな美女。——その特徴を、私は今膝の上に乗せている聖典の中で読んだことがあるはずだった。
「妾名はアンドロアーズ。モルメット教においては、闇の精霊王とも呼ばれる存在だ。其方のことはずっと見ていた。オレリー・クラメール。……それとも、コバヤカワ・ユキと呼んだ方が良いか?」
そう言った彼女——闇の精霊王アンドロアーズ様は、私に真っ直ぐに視線を向けてきた。
その時、ようやく私はどう見ても目の前の方が人間に見えなかった一番の理由に気づいた。瞳孔が、金色に発光している。
私のピンク色の髪がまさにそうなのだが、この世界は異世界らしく、色んな髪や目の色彩が溢れている。しかし、瞳孔だけは地球でそうであったように皆黒い。瞳の中の小さな点。だが、そこが金色に輝いているというのは、彼女が人外であることの一番の証拠のように思えた。




