第30話「領主の軍、迫る」
朝靄の中、カインは息を切らせて広場へ戻ってきた。肩からは汗が滴り、衣の裾は泥にまみれている。
「……もうすぐだ。百を超える兵が、武装してこちらへ向かっている」
その言葉に、広場で待っていた村人たちはどよめいた。胸の奥がひやりと冷え、誰もが一瞬、前夜に澪の言葉で灯された勇気を忘れそうになる。
澪はすぐに前へ進み出て、落ち着いた声で告げた。
「――だからこそ、今なんだ。私たちが積み重ねてきたすべてを使う時」
そう言って、彼女は懐から一冊の冊子を取り出した。粗末な紙を綴じただけのものだが、その表紙には力強い文字が書かれている。
《知恵と力で生き抜こう!》
澪は冊子を一人ひとりの手に渡していった。
「薬草の見分け方、塩の保存法、子どもでもできる型、光魔法の合図。全部ここにまとめた。怖くなったとき、迷ったときに読んで。これは私たちが歩んできた証だから」
母親が冊子を抱きしめるように受け取り、子どもが興味深そうに覗き込む。若者たちは互いに顔を見合わせ、静かに頷いた。
アルトが立ち上がり、魔法陣を刻んだ短い杖を掲げる。
「俺は光魔法で合図を送る。敵が迫ったら、柵の後ろで合図に従って動いてくれ」
カインも前に出て、盾を持った若者たちを睨みつけるように見渡した。
「お前たちは型を思い出せ。拳と蹴りは力じゃなく、息を合わせて出すんだ。一人では無理でも、二人三人で連携すれば兵士も押し返せる」
木工職人のエマが丸太を打ち込みながら声を張り上げる。
「落とし穴もできた! 柵も補強した! 時間を稼げるはずだよ!」
村の空気が少しずつ引き締まっていく。
昨日まで恐怖で膝を震わせていた者たちが、今は武器とも道具とも言えぬ木剣や盾を手に、仲間と肩を並べていた。
昼近く、太鼓の音が風に乗って届いた。どん、どん、と規律正しい足音と共に、地響きのように迫ってくる。
「来たか……」カインが低く唸る。
やがて地平線に黒い列が現れた。槍を携え、鎧をまとった兵士たち。揺れる軍旗の下で、百人を超える軍勢が村へと進軍してくる。
村人たちの喉が、ごくりと鳴った。子どもの手を握る母親の指が白くなる。
だが澪は冊子を胸に抱え、静かに言った。
「忘れないで。私たちはもう、ただの村人じゃない」
アルトが杖を掲げ、光の玉を空へ放った。眩しい閃光が昼の空を裂き、村全体に合図を告げる。
柵の後ろに盾を構える若者たち。
薬草を煎じ、包帯を並べる女たち。
魔法の言葉を小さく唱える子どもたち。
すべての視線が迫る軍旗を見据えていた。
澪は深く息を吸い、皆の前で叫ぶ。
「――ここは私たちの村! 知恵と力で、生き抜こう!」
その言葉に応えるように、村人たちの声が広場に響いた。
「おおおおおっ!」
兵士たちの鉄の行進と、村人たちの決意の叫びが、風の中でぶつかり合った。
嵐の幕が、ついに上がろうとしていた。




