第23話「密告」
その男は、村の広場の隅で荷を下ろしながら、さりげなく耳を澄ませていた。
顔は人の良さそうな笑みを浮かべているが、その瞳は冷たい。21話で一度だけ現れた荷運び――実は領主に雇われた密偵である。
「……木を削って、本にするのか」
彼はトマスと澪の姿を目にした。二人は真剣な表情で木版に彫刻刀を走らせていた。
「次は薬草図鑑よ。ハハコグサは風邪に効くって書いておくの。煎じ方も忘れずに」
「石鹸の作り方もだな。灰と油を混ぜれば、病気の予防になる」
澪とトマスは声を弾ませながら、次々と木版を仕上げていく。刷り上がった紙を見た子どもたちが目を輝かせた。
「すごい! 字がいっぱい並んでる!」
「これがあれば、お母さんも石鹸が作れるんだ!」
その光景を、密偵の男はじっと見ていた。心のどこかで「素晴らしい」と思った瞬間もあった。だが、懐の小袋を思い出す。そこには領主から前金でもらった銀貨が入っていた。彼はその夜、村を抜け出し、領主の館へと走った。
◇
「木版で知識を広めているだと?」
報告を受けた領主は目を細めた。煌びやかな椅子に座り、指先でワイングラスを弄ぶ。
「百姓どもが学を持つなど笑止千万。反乱の火種と見てよい」
「はっ。武装兵を動員しますか?」
側近の問いに、領主はにやりと笑った。
「まだ早い。まだまだ圧をかけろ。税の取り立てをさらに強化すれば折れるかもしれん。だが――武器や魔法を持ち出す気配があれば、一気に叩き潰せ」
◇
その頃、村の夜学は熱を帯びていた。
澪とトマスは刷り上がった紙を手に取り、声を張る。
「これは保存食の作り方です! 干した野菜や塩漬けの肉なら、冬まで持ちます!」
「こちらは石鹸の作り方。汚れを落とせば病気が減るんだ」
村人たちは目を輝かせ、紙を大事そうに抱え込んだ。字が読めない者には、子どもや若者が読み聞かせる。知識は少しずつ広がり、共有されていった。
その光景を見守りながら、カインは腕を組んだ。
「……知識は確かに力になる。だが、それを恐れる奴らもいる」
「領主か」アルトが短く応じる。
焚き火の明かりが彼の横顔を照らす。
「役人どもは動きを見張っているはずだ。兵が来るのも時間の問題だろう」
「なら、備えるまでだ」
エマが力強く言った。木工職人としての腕を振るい、すでに前に作った女や子どもでも扱える軽い盾を量産しはじめていた。
「剣なんて振れなくても、これなら守れる。村の柵も補強しておくわ」
アルトは小さな光の玉を宙に浮かべてみせた。
「目眩まし程度だが、皆に教えられる。夜戦なら特に役立つだろう」
カインも静かにうなずく。
「若い連中には護身術を叩き込む。子どもでも力を流せば、掴まれても逃げられる」
村人たちの表情に、不安の中にも決意の色が宿り始める。澪は胸が熱くなるのを感じた。
「……知識を残すのも、戦う準備をするのも、どっちも正しい。全部をやらなきゃ」
◇
夜更け、澪は筆を走らせながら空を仰いだ。
刷った紙の束には「どんぐりの食べ方」「薬草の煎じ方」「石鹸の作り方」が詰まっている。
「これが火種になるなら……私は、その火を絶やさない」
その背後で、エマの作る盾の音、カインのかけ声、アルトの魔法の光が絶え間なく続いていた。
誰も言葉にはしないが、全員が悟っていた。領主の刃は必ず降りかかる。
それでも、この村はもう昔のようにただ怯えるだけではなかった。
知識と魔法、そして技――そのすべてを糧にして、生き抜く覚悟を固めつつあった。




