7、墨痕(ぼっこん)
倒れるその姿を、必死に掴もうと手を伸ばしたのに、虚しくこの手が空を切るーー
ふと、目が覚めた。
ミツキは横になって眠ることはない。
刀を抱えて壁に寄りかかって眠る。
七年、そうしてきた。
(…なんつー夢を…)
この国に来て、懐かしい人に偶然会ったからなのか、幼い命が儚く散ったからなのか。
何の不安もなく眠るシエルの頭をそっと撫でた。
外は白み始めている。
春になったが、夜明け前の空気はまだ冷たい。
あの役人の優男は、昨日の出来事を上層部に報告しただろうか。
派手に手首を折った。
あそこまでする必要はなかったかもしれない。
だが、あの騒ぎが上まで届くなら、それはそれで都合がいい。
(陰険そうな男だったからな、女に折られたなんて口が裂けても言えないか…)
ミツキは厠に立つため障子を開けた。
「…お前、いま何時だと思ってる…」
そこには、正座したリヒトがいた。
「考えたんです!僕に剣術を教えて下さい!!」
朝方に出していい声量ではない。
ミツキは、リヒトの頭を引っ叩いた。
*
朝食中も、シエルが裏庭探索をしている最中も、診療所の手伝いをしている間も、リヒトはしつこくミツキに弟子入りを懇願してくる。
リヒトが懇願するたび、母親の叱責が飛んできた。
そのたびに少年は肩をすくめ静かになるが、しばらくするとまた同じことを言い出す。
(頼むから、今日は一日中こいつを叱っていてくれ…)
たかだか十四歳の少年。
父も母もいる、幸せな暮らしをするごく普通の少年。
全てをいなして、出立しようとするミツキに縋り付いてきた。
結局は、昼食も貰うことになった。
ミツキは頬杖をつきながら裏庭を見ていた。
「なぁ…」
「なんだい?ミツキ」
「あんたの息子、将来はこの診療所を継ぐんだろ?」
「…そうだね」
「なんでまた、剣術に憧れてるんだよ」
裏庭では、リヒトが日課の素振りを行なっている。
「…なんでも、幼い頃赤い髪の剣士に助けられたからだと言っていたよ」
サナトは少し困った顔だった。
「…へぇ…」
リヒトは汗を流しながら、何度も木刀を振っている。
力任せだ。
足の運びもなっていない。
「あれで、どれくらいやってるんだ?」
「もう何年になるかな。毎朝、欠かさず振っているよ」
「道場には?」
「通わせてやれなくてね。見よう見まねだよ」
ミツキは裏庭に目を戻した。
現実を知れば、諦めもつくだろう。
「…少し、教えてやるか」
「何をだい?」
「あんたの息子の剣術が棒遊びってことをさ」
ミツキは重い腰を上げた。
*
サナトは花が咲いた薬草を摘んでいたシエルを危険がないよう、さりげなく自分の元に呼び寄せた。
「私からも少し薬草の知識を教えてあげよう」
シエルは満面の笑みを浮かべた。
ミツキは木刀でなく墨のついた筆を手に持ってリヒトの前に立った。
筆はサナトに準備してもらった。
「まずは、私に向かって遠慮なく斬りかかってきな」
リヒトは目を輝かせた。
呼吸を整えて木刀を構える。
振りかぶって、ミツキに切り掛かったが、見事に避けられた。
「お前は、もう一回死んでる」
振り返ったリヒトにミツキが言った。
リヒトには、ミツキは避けただけに見えた。
どうやら、まだ自分が斬られたことに気がついていないらしい。
ミツキはリヒトの腹を指した。
着物の腹部分に一文字の墨がついている。
「え?!
いつの間に?避けただけなのに!」
「避けただけに見えたなら、お前の目は節穴だな」
「もう一回お願いします!」
リヒトは木刀を握り直した。
「いいよ」
ミツキの赤錆色の目を見ながらジリジリと距離を詰めてくる。
そして、踏み込んだ。
ミツキはすれ違いざま筆を走らせる。
(間合いを詰めてきたが、遅いな)
「二回目」
「えぇ?!」
リヒトは木刀を振り抜いた勢いで、前のめりに体勢を崩した。
間髪入れず、背中にも墨が入った。
「相手に背中を向けるな」
「向けてないです!」
リヒトは素早く振り向いた。
今度はすぐに斬りかからず、木刀を構え直した。
ミツキは筆を片手に、悠然と立っている。
肩にも足にも、動く気配はない。
視線だけが真っ直ぐリヒトを捉えている。
(……また、やられる)
そう思った瞬間だった。
ふと、何かがこちらへ向かってくるような気がした。
風が吹いたわけではない。
ミツキが動いたわけでもない。
けれど、何かが近づいてくる。
リヒトは咄嗟に木刀を引いた。
その鼻先を、筆がかすめた。
「…へぇ」
ミツキが小さく声を漏らした。
リヒトは目を瞬かせた。
(今の、何だ……?)
見えたわけではなかった。
音がしたわけでもない。
ただ、避けなければならないと思った。
「どうした。もう終わりか?」
ミツキは何事もなかったように筆を構えている。
リヒトは木刀を握り直した。
今度は角度を変え、筆を持つ右側から斬りかかる。
急に地面から足が離れた。
天地がひっくり返り、
気がついたら、青空を見上げていた。
いつ足を払われたのかわからなかった。
トン。
筆はリヒトの胸を突いた。
余裕の笑みを浮かべたミツキが覗き込んだ。
「命がいくつあっても足りないな」
「も…もう一度!!」
さっきの感覚は何だったのか確かめたかった。
再び木刀を構え直す。
(さっきの…もう一度…)
ミツキの赤錆色の目をまっすぐ見た。
次の瞬間、ミツキの姿が視界から消えた。
顎の下に軽く衝撃が走った。
思わず身を引き、リヒトは再び後ろに倒れた。
リヒトは大の字になったまま、悔しそうに空を見上げた。
着物は墨で真っ黒。転がされたせいで、背中も裾も泥と埃にまみれている。
ミツキは筆をくるりと回した。
「ま、自分の実力がわかっただろ?」
「……もう一本、お願いします」
「まだ懲りないのか、お前は」
そのときだった。
「リヒトォォォッ!!」
診療所の方から、絶叫が響き渡った。
振り返ると、リヒトの母が般若のような顔で縁側に立ち尽くしていた。
その視線は、泥と墨で変わり果てた息子の着物に釘付けになっている。
「あんた! その格好は何なのぉぉっ!!」
リヒトが飛び起きた。
ミツキは顔を背けた。
(これは、まずいな…)




