1、リヒト
小さな町の片隅にある診療所の裏手で重く空気を切る音が、繰り返し響いていた。
陽の光に汗をきらめかせながら、リヒトは自宅にあった古ぼけた木刀を振り下ろしていた。
「こら!リヒト。いつまでやっているんです」
眉を吊り上げたリヒトの母が声をあげた。
「母さん、一日千回の素振り。あと百回で終わるから」
母の声などなんのそのだ。
剣術に憧れて、毎日毎日飽きもせず古い木刀を振り回している。
「もう昼になります。お父上に頼まれていた薬の御使いはいいのですか?」
呆れ声で言うと、ぴたりと素振りを止めた。
(しまった)
リヒトは着替えて父のいる診療部屋へ急いだ。
リヒトの父が営む診療所は、ほぼ連日、老若男女の患者が来ている。
その割に、リヒトを道場に通わせられるような財力はない。だから診療所兼自宅の裏手で自己流の鍛錬をしている。
リヒトの父サナトは白髪混じりの温厚な医師だった。
サナトは、寝台の前に腰を下ろし、患者の幼児の口をそっと開けさせた。
「先生…冬に風邪をひいて、この春になっても元気にならんのです。どんどん弱っていて…」
幼児の母が不安そうに訴える。
じっくりと舌の観察をし、脈をとり、胸の音をきいた。声をかけた後の反応も悪い。
幼児を寝台に寝かせ、足首を触り何かに気が付いた。
酷く浮腫んでいる。
寝台に寝かせると呼吸が浅くなり、苦しそうにする。
サナトの表情が曇った。
栄養が足りていない。
心の臓にかなりの負担がかかっているかもしれない。
脚気の疑いがある。
「昨年の村の実りは悪くなかったはずだが…」
サナトが問うと、母親は顔をこわばらせ、次第に歪んだ。
見なりから農民だろう。
「確かに収穫はありました…ただ、ほとんど年貢で持っていかれてしまって…この子に満足に食べさせてやることもできないんです」
声を震わせて俯く母親の肩にそっと手を添えた。
年々増え続ける年貢によって、作物を作れど作れど農民の腹は満たされない。
対価を払えないことをわかっていても、この母は衰弱していく我が子をどうしても救いたかったのだろう。
「…うちで少しこの子を預かろう。できる範囲のことはするから」
サナトは幼児の手を取り、手の甲側、親指と人差し指の骨が交わる手前のくぼみ「万能のツボ」を押しやった。
気休めでしかないが、身体の気の流れを少しでも良くする。
母親は動揺した。
「そんなに悪いんですか?死んでしまうんですか?」
サナトの袖を強く引っ張る。
「死なせないために預からせてほしいんだ」
「でも…その…今日、先生に渡せるもの…はなくて…」
「大丈夫。お金も物もいらないよ。まずは良くなることだ」
柔和な笑みを向けた。
一連のやり取りを扉越しで聞いていたリヒトは幼児の母が診療室から出たのを見計らって、おずおずと入ってきた。
「父さん、すみません。遅くなりました」
診療室は整理されていて、薬草の独特な匂いがする。
「ああ、そういえば御使いを頼んでいたね。その前に、母さんにこの子の寝所を準備してもらうように伝えて。平らに寝かせてはいけないよ。呼吸が苦しくない程度に体を起こしてあげて。それと重湯を作るよう頼んでおくれ。」
*
「お父上も人が良すぎます。うちだって余裕があるわけではないのに」
綺麗に洗濯された敷布を敷きながら母が小言を言っていた。
母は決して冷淡な女性ではない。だがしかし、母の気持ちもリヒトはわかる。
先ほどの幼児を、背中に幾重も布団を重ねて上半身を寄りかからせるように寝かせた。準備された重湯を少しずつ、少しずつ幼児の口に運んでいく。
小言を言っていたが、真剣なまなざしで幼女が重湯を飲み込むのを観察している。
横顔だったが、目が潤んでいたような気がした。
再び診療室に戻ると、サナトは患者の記録なのか書き物をしていた。
「そこの棚にある薬を紙に記してあるところに届けてまわってほしい」
薬草の届け先が書かれている紙に目をおとした。
「父さん、この人たち…」
リヒトがいいかけると、流れるように書いていた筆が一瞬止まって「いいんだよ」と一言言ってまた流れ出した。
*
季節は春。
少し身体を動かせば汗ばむ。
使いが記された紙に目を落とすと、どこも先ほどの母子のような貧しい農民ばかりだった。
サナトは貧乏暇なしだ。
診療所に訪れる者のほとんどが対価を払えない。
だが、サナトは拒まない。
町で腕利きの医者として知られており、役人、商人から診療や調薬を頼まれる所があり食うに困ることはない。
しかし、それだけだ。
農民の子は農民。
商人の子は商人。
役人の子は役人。
リヒトも将来は医者になる。
なれ、と言われている。
父のしていることは素晴らしいことだと思っている。
傷ついた者を救い、苦しむ者に手を差し伸べてきた姿を幼いころから見てきた。
だけれども、医術以外にも「人を救う」ことはあるのではないかとも思う。
ずっと幼いころに、母の言いつけを破って街はずれまで一人で出歩いてしまったことがあった。
気がついた時は日が落ちていた。
帰り道が分からなくり、月明かりだけを頼りに歩いていたところを見知らぬ男数人に声をかけられた。
その男達の気が澱んでいた。
近づいてはいけないと、子ども心に感じたが、大人の男達に腕をつかまれたらもう逃げることはできない。
今でもそのときの恐怖は覚えている。
叫ぼうにも口を塞がれてしまい、呼吸ができないため、意識が遠のいていく。
しかし、急にバタバタと男達が倒れていくのが見えた。
流れるような動きで、相手を昏倒させていく影。
意識が遠のく中見たのは、月光に照らされ、舞い上がったその髪はわずかに赤みがかっていた気がする。
気がつくと見慣れた天井が見えた。
母が顔をぐしゃぐしゃにして僕の名前を呼んでいた。
あとから、偶然通りかかった剣士が助けてくれたと聞いた。
それからリヒトはその剣士に憧れ、剣術に励むようになった。
でたらめな自己流の剣術だ。
剣術で人を救いたいと思うが、夢のまた夢であることは十分理解している。
薬を届け終わると、急に腹がすいてきた。
(そういえば、昼ご飯を食べ損ねてたな)
リヒトは家路を急いだ。




