深淵の侵蝕、太陽の終わり
血に濡れた手が、袖をつかんだ。
極東の島国の帝、シャムスだった。
この国の太陽と呼ばれた男は、火の手が迫る謁見の間の玉座の足元に身を預けていた。黄金の刺繍が施された衣は血に染まり、その呼吸は浅い。
「陛下! しっかりしてください!」
「騒ぐな……もう、どうにもならない」
シャムスはかすかに笑った。
その顔には、帝としての威厳よりも、ひとりの人間の消えゆく命の無念が滲んでいた。
背後では、謁見の間が燃え始めている。
謀反を起こしたシャムスの異母弟アスワドの軍勢が、皇宮内を制圧しつつあった。シャムスに忠誠を誓い命をかけてその御身を守る隠密集団ウラルの者たちも、すでに敵味方に分かれ、かつての仲間同士で刃を交えている。
その混乱の中で、シャムスを見失ったが、ようやく謁見の間で見つけた時には手遅れだった。
「これを……」
血に濡れた指が、懐から一通の書状を取り出し、胸元に押し付けられた。
封蝋には、帝の印。
「この国を…出てから読みなさい…そして…」
シャムスは抱えている布にくるまれたソレに目を落とした。
「お前に…コレを預ける…」
「陛下、それよりも今は傷を――」
襟ぐりを掴まれシャムスが緋色の瞳を覗き込む。
先ほど覗かせた一人の人間としての眼差しから、帝の威厳の眼差しに変わっていた。
「我の誇りを……頼む…ぞ」
襟をつかんだ手から力が抜ける。
「…陛下?」
聞こえるのは、兵士達の怒号と燃え盛る柱が崩れる音。
その場からしばらく動けなかった。
熱風の温度がさらに上がった。
書状を懐にしまい、シャムスが抱えていたソレを脇に抱え、目元を乱暴に拭った。
「行くぞ」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
ただ、もう立ち止まることだけは許されない。
シャムスの命を守ると言う使命をまっとうできなかった。だからこそ約束は果たさなければならない。
*
うっそうとした森から抜けて、ぬかるんだ道を、時折足をすべらせながら遠雷の地響きを背後にただただ必死に走った。
森を抜けたことで容赦なく降り注ぐ雨に打たれて、まとっている衣服が重くなる。
抱えているモノと雨に濡れた自分とで足が重い。
でも、歩みを止めてはいけない。
遠雷とは違う地響きが聞こえ、振り返ると、走り抜けてきた森の向こうで闇夜を朱色が不規則に揺らいでいる。
不安、懸念、焦燥、怒り
負の感情が「引き返せ」と煽る。
胸元にそっと手を当てる。
シャムスが言った最期の言葉と託されたものの重みが「前へ進め」と促す。
奥歯を噛み締めすぎて砕けそうだ。
小刻みに吸い込んだ息を大きく吐き出し、来た道に背中を向け走り出した。
皮肉なことに闇夜を照らす朱の明かりが行く先を薄く照らしている。
(この先に商港がある。そこまで行けば…)
不意に名前を呼ばれた。
ヒュッ
頭上から振り降りてくる切先を寸前でかわし、背後に跳んだ。
「やっぱり、お前が来ると思ったよ」
無言でゆっくりと立ち上がり、地面につきささった刀を抜き取った男は、切先を向けて言った。
「ソレをこちらに渡せ。大人しく渡せばお前は死んだことにしよう」
「…死ぬことよりも恐ろしいことを言うな」
冷笑を浮かべた赤錆色の瞳は苛立っていた。
「お前は誰の梟だ」
雨の音だけが続く。
「陛下だ」
「誰の命令で動いてる」
「…陛下の命令だ」
腹の底から突き上がるように刹那に怒りが湧く。
陛下はシャムスだ。他の誰でもない。
「……そうかよ」
胸の奥で、何かが冷えていく。
シャムスは死んだ。
この男の言う陛下はシャムスではない。
腕の中のモノを置いていけというこの男は、謀反を働いた弟帝アスワドについたのだ。
共にシャムスに忠誠を誓った梟なのに。
仄暗い漆黒の瞳と、微かに赤みがかった瞳がぶつかり合い、緊張の糸が張った。
それを打ち消したのは、背後からぬらりと現れた壮年の男だった。
「コイツの最後の情けを蹴散らすのは、やはり、お前らしい」
緋い瞳が細まる。
「親父殿まで登場か…」
自分の師匠であり、剣を教え、生きる術を教えた梟の頭領。
二対一。
相手二人の実力は骨の髄まで理解している。荷を抱えたままではどう考えても分が悪い。
だが、自分も引くわけにはいかない。
生きなければならない。
コレを守るために。
布に包まれたソレを抱える腕に力が入る。
三者の睨み合いが続き、誰かの呼吸が止まった刹那、三つの相容れぬ信念が火花を散らし、刀が激突した。
「ソレを渡せ」
「嫌だ」
「お前に何ができる」
「シャムス様との約束だ!」
壮年の男は何も答えなかった。
ただ、刀の持ち方を変えた。
その構えを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
知っている。
何度も見た構えだった。
自分の剣の原点。決して無駄がなく、逃げ道を残さない一太刀。
一瞬の踏み込みが見えた。
脇のモノを抱えたまま、身を捻ったが避けきれない。切先が腹に向かってくる。
(入る!)
そう悟った瞬間、黒い影が割り込んだ。
刃が男の背中から突き出した。
「……なんで」
先ほどまで刀を向けていた男の背が目の前にあった。
膝をつきながらも、体に突き刺さった壮年の男の刀を掴みその男は、前に立ち続けようとした。
「お前…」
壮年の男がたじろいだ。
「…親父殿…やはり俺は自分の矜持を…曲げられない」
刀を抜き取られた傷からおびただしい血が溢れる。
「ナヴァル!!」
「ミツキ…生きろ…」
差し出されたその手が、腕に触れる。
何かを伝えようとしたのかもしれない。
だが、口から噴き出る血で言葉が出ない。
彼の身体が傾く。
倒れさせまいと必死に手を伸ばしたが、届かなかった。
動かない。
「……おい」
冷たい雨が倒れた体に打ち付ける。
「おい、ふざけるなよ」
返事はなかった。
名を叫んでも、揺さぶっても彼は目を開けなかった。
敵になったはずの男が、
なぜ。
どうして。
そんなことをするくらいなら、最初から敵になどならなければよかった。
言いたいことは、いくらでもあった。
怒鳴りたかった。
もう一度、あの瞳に自分を映してほしかった。
けれど、男はもう動かなかった。
敬愛する太陽を失い、最愛の片割れを失った。何かが音を立てて壊れ、獣のような叫びが雨音と雷鳴と重なった。
(……ああ、そうか)
涙は拭わなかった。
涙は流れていないのかもしれない。
底知れぬ闇を宿した冷え切った赤い瞳が壮年の男を捉えた。
「これが、あんたの矜持か?」
声は低く、かすれていた。
息を吸う間もなく、壮年の男もぬかるんだ地面に沈んだ。
*
商港に着いた頃には、激しい雨は霧雨に変わっていた。
満身創痍で商船の暗い荷部屋に忍び込み、荷物の間に身を隠す。
脇に抱えていたモノを横たえて、覆い隠していた布を少し剥いで指先触れた。
小さく、柔らかく、温かい。
意思に反して血糊と泥のついた手が震えていた。
その手を握りしめて抱き寄せる。
悔しくて、悔しくて、唇を噛む。
「…バカばっかりだ」
朝日が地平線に光の線を描くと同時に、商船は東の小さな国から広大な大陸に向かって出港した。
この夜、突如この国の太陽が沈んだ。
そして、朝日が昇ると同時に深淵の時代が静かに幕を開けた。




