第一章 「壇上」
林花が僕を好きになった日のことを、僕は覚えていない。
当然だと思う。
小学五年生で転校してきた僕は、全校集会の壇上に立っていた。下には知らない顔が何百個も並んでいた。
先生に紹介されて、名前を言った。
それから、よろしくお願いします、と頭を下げた。
たぶん、それだけだった。
何百人もの前に立って、気の利いたことを言える年齢でも性格でもなかった。早く終わってほしいと思っていたかもしれない。そのときの気持ちも、今ではよく覚えていない。
覚えているのは、見られていたことだ。
壇上にいる僕を、知らない学校の全員が見ていた。
僕の方から見れば、全員が知らない人だった。顔はたくさんあったはずなのに、誰の顔も残っていない。
その中に林花がいた。
らしい。
転校したばかりのころ、僕はかなり大人しくしていた。
もともと、ずっと物静かな子どもだったわけではない。ただ、新しい教室でいつも通りに振る舞うまでには、少し時間がかかった。
転校生は、それだけで見られる。
廊下を歩いていても、教室にいても、なんとなく視線を感じた。珍しいものを見るような目だったと思う。悪意があったわけではない。知らない人が急に増えたのだから、向こうにとっても僕は知らない人だった。
昼休みには、席で本を読んでいた。
本を読んでいれば、一人でいても不自然ではなかった。誰かと話すきっかけを探さなくてもいいし、話しかけられなければ、そのままページをめくっていればよかった。
友達もできていたと思う。
休み時間に話す相手はいたし、ずっと一人だったわけではない。
それでも、本来の僕よりは大人しかった。
自分から輪の中へ入っていくより、誰かが話しかけてくるのを待っていた。新しい学校でどこまで自分を出していいのか、まだ測っている途中だった。
林花とはクラスが違った。
だから、関わる機会もほとんどなかった。
廊下ですれ違ったことくらいはあったのかもしれない。向こうは僕を知っていたのだから、どこかで見られていた可能性もある。
でも、僕は覚えていない。
小学五年生の記憶を探しても、その中に林花の顔は出てこない。
林花と昔の話になったことがある。
林花は、僕の顔を見ながら言った。
「私、昔からまひろの顔が好きだった」
昔という言葉の範囲が広すぎて、僕は聞き返した。
「昔って、いつから?」
「転校してきたとき。壇上で見たときから、ずっと」
僕は少し驚いた。
ずいぶん一方的な始まりだった。
彼女はその日の僕を覚えている。
僕はその日の彼女を覚えていない。
林花に言われたあとも、壇上の記憶が鮮明になったわけではなかった。
体育館の下に並んでいるのは、相変わらず名前のない顔の集まりだった。そこから一人を選んで林花にすることはできなかった。
ただ、記憶の意味だけが変わった。
僕にとっては、転校初日に全校生徒の前で挨拶をした日。
林花にとっては、僕の顔を好きになった日。
同じ場所にいたのに、僕らは最初から違うものを見ていた。
その日、僕は大勢の子どもに顔を見られた。
その中に林花がいた。
彼女はその日から僕を覚えていた。
僕が林花を覚えるのは、もう少し先になる。




