第一章6 『終わりの始まり』
「逃げなきゃ、兄さん……」
「そうしなきゃ、いけない……」
震えを帯びた、それでも柔らかな声だった。
「……ああ」
「逃げよう、もうここには……」
赤毛の男がそう続けた。
「――違う」
「逃げるな」
「怖くていい。怖くて当然だ。でもそれでも――」
「恐怖は、逃げたって消えない。向き合うしかないんだ」
「だから行くなら行け。俺は止めない」
「――お前たちの戦いは、今ここにある」
力強い眼をした少年が、そう言い放った。
◆◆◆◆
その数時間前――彼はまだ意識を失ったままだった。
赤毛の少年は爆発音の正体を確かめに離れており、少女はただ、その場で怯えていた。
その間、シンジロウは――過去の記憶の底に沈んでいた。
◇
『いつからこうなったのか、自分でもよくわからない』
『気づいたら、ここにいた』
『夕飯を食べようとしていた。それだけだ。それだけだったのに、気がついたらこの異世界にいた』
『……みんなに、会いたい』
『母さん』
『父さん』
『高校にも入った。でも、いつの間にか全部から遠ざかっていった』
『ボクシングをやっていた。天才と呼ばれていた時期もあった』
『あの頃は本当によかった――でも、ある日気づいたら追い越されていた。もう天才じゃなかった』
『部屋に引きこもって、ライトノベルばかり読んでいた。今ならわかる。俺はただの無神経な人間だった』
『そして今、一人で、自分を内側から削り取っていく力を持ったまま、ここにいる』
『――まあ、悪いことばかりじゃない、か』
『すごく綺麗な子に会えた。しかも姫様だなんて』
『でも』
『彼女は俺のことを知らない。手の届かない場所にいる』
『俺は死んでいるのか……? いや、違う。でも、もし彼女が――』
『生きていてくれ』
『普通の日々が、恋しい』
◇
一方その頃、赤毛の少年は青いローブを纏った四人の男たちと対峙していた。
――そう言えたら、よかったのだが。
実際には地面に倒れていた。見るも無惨な有様で。
首には深い――あまりにも深すぎる切り傷があった。頭部は一筋の肉によって辛うじて繋ぎとめられており、その糸は今にも千切れようとしていた。
同じ頃、シンジロウは悪夢の中でうなされていた。体を左右に揺らし、恐怖の滲んだ声を漏らしながら――
そして彼は、白い光をただ見つめていた。
その時、聞こえた。
「――目を覚ませ」
洞窟の底から響くような囁きだった。
シンジロウは弾かれたように目を開いた。傍らには少女がいた。
彼女は驚いて飛び上がったが、すぐさま駆け寄ってきた。
「大丈夫……?」
「……ああ」
ベッドから起き上がり、辺りに視線を走らせる。だが彼の目には、誰にも見えないものが映っていた――ついてこいと手招きする、一本の腕が。
迷いなく、その手を追った。路地を抜け、通りを渡り、どこかへと向かって。
少女は困惑しながらもついてきた。
「どこへ行くの?」
返答は、なかった。
目的地が近づくにつれ、空気が変わった。遠くから――鉄の匂いが漂ってきた。
そして、見た。
倒れていた。
首は肉の一筋に引っかかったまま宙に垂れ下がり、赤毛の頭はその糸が切れれば地に落ちるだけの状態だった。
シンジロウは硬直した。次の瞬間、頭を下に向けて胃の中身を吐き出した。
少女は兄の体から目を離せなかった。
「……くそ」
助けを叫ぼうとした、その瞬間――
瞬きひとつ。
気づけば、ベッドの上にいた。
今度は閃光もなかった。ただの瞬き。それだけだった。
「……何が、起きた」
理解が追いつかない。だが今はそれよりも――赤毛の少年が再び出て行こうとするのを、シンジロウは素早く腕を掴んで引き止めた。
「お、おい――待て」
「行くな」
『行かせるわけにはいかない――』
喉が鳴った。
赤毛の少年は目を細めた。
「……なぜだ?」
シンジロウはただ、視線を落とした。
答えようとした、まさにその時――
爆発した。
辺り一帯が、崩れ落ちた。
意識が揺れる中、シンジロウの耳にデンナと赤毛の少年の声が届いた。
「逃げなきゃ、兄さん……」
「そうしなきゃ……」
「お願い……」
デンナの声だった。赤毛の少年が答えた。
「……そう、だな」
「お前の言う通りだ」
「逃げよう――」
その言葉が終わらぬうちに、少年は瓦礫の陰から飛び出していた。
「違う」
「するな」
「全部、あいつらのせいだ」
「でも逃げるな――怖くていい、ずっと怖くていい、それでも恐怖には勝てる」
「俺たちに明日が来な――」
蹴りが、飛んできた。
言葉ごと、吹き飛ばされた。




