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記憶の彼岸  作者: 小羊メイ
第一章 神は死んだ

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2-1

 翌日の講義なんて頭に入るはずもなかった。


 徹夜でモンスターエナジーを飲みながらの編集作業で、頭はぼんやりとして、目の奥が痛い。画面を見続けすぎたせいか、視界の端がぼやけている。

 本当なら大学にも来ずに家で寝たかったが、二限の経済政策には出なければならなかった。この授業は出席率がそのまま成績に反映されるからだ。


 キャンパスに着いたときから、なんとなく大学内の様子がおかしかった。普段なら工学部棟や理学部棟の横を通って文系研究棟に向かうところを、グラウンドを大きく迂回して裏門から入る。

 自分でもなぜそうしたのか分からない。ただ、中央図書館の前を通るのが嫌だった。その理由を考えることすら避けていた。


 でも、やっぱりキャンパスの様子が気になって、講義終わりに学食で昼飯を摂ることにした。

 平日の昼時なのに、心なしかいつもより空いている気がする。普段なら賑やかなはずの学食に、妙な静けさが漂っている。学生たちは皆スマートフォンを握りしめ、SNSやニュースサイトを必死にチェックしている。


 一番安い三百二十円のカレーを注文し、入り口近くの端の席に座った。この席からは、食堂全体の様子を見ることができ、入り口付近で立ち止まる学生たちの会話を聞くことができる。


「警察が朝から中央図書館を封鎖してるらしいよ」

「事件? 何かあったの?」

「工学部の子がツイートしてるの見た? やばそうな感じなんだけど……」

「でもまだ詳しいことは分からないって」


 耳に意識を集中させて、ぼんやりとカレーをかき混ぜる。スパイシーな香りが鼻をつくが、食欲はまったくない。徹夜の疲れと緊張で胃が重い。口に運んでも、味なんて分からない。


「よう」


 突然、後ろから声をかけられて、思わずスプーンを落としそうになった。カチャンと不快な金属音が響く。

 

 振り向くと、親友の野見山(のみやま)省吾(しょうご)が立っていた。

 切れ長の目に通った鼻筋、いつも爽やかな笑顔を浮かべる整った顔立ち。背が高く、肩幅の広い均整の取れた体格は、まるでモデルのようだった。工学部棟での講義を終えたところだろうか、左手にノートパソコンを抱えている。


「あ、ああ……」


 人付き合いが昔から苦手だった俺が、大学で唯一できた友人が野見山だった。

 痩せこけた俺とは対照的な容姿の彼と友人になれたことを、今でも不思議に思う。思えば、俺たちには共通点があったからかもしれない。家族との関係があまりよくないという点が。


 お互い詳しいことを言ったりしないものの、通じ合う部分というのがある。だからか、俺たちは出会ってすぐに仲良くなった。野見山と共通棟の屋上で語り合った日々は、紛れもなく、数少ない俺の大学の青春の一ページだ。


 ただ、最近は工学部棟と文系研究棟が離れているせいもあってか、昔みたいに頻繁には会えていなかった。野見山も、俺と同じ三年生。就活に熱を入れ始める時期だ。


 もはや大学は、各学部がそれぞれの職業訓練所のような様相を呈するようになった。経済学部は金融機関やコンサルティング会社、商学部は商社や流通大手といった風に、それぞれの学部に対応する業界への就職が半ば確約されている。


 工学部は、一部の学科を除いたほぼ全員が、メーカーの技術職として採用される。ただし、どの程度の企業に採用されるかは、成績や研究成果によって異なる。成績が良い者から就職に強い研究室に配属され、大手の企業に採用が決まる。成績が悪ければ、いわゆるブラックと呼ばれるような小さな町工場にしか採用が決まらない。


 だからこの時期、工学部の三年生たちは必死で勉強し始める。三年生後半の研究室配属を控え、少しでも就職に有利な研究室、企業へのコネを持つ研究室に入れるように。

 特に、メモリーを買えない学生は必死だ。そう、あの中央図書館で深夜まで勉強していた学生のように――


 それなのに、久しぶりに会った野見山は、相変わらずどこか余裕すら感じる佇まいだった。他の工学部生たちが必死に成績を積み上げようとしているのと比べて、まるで別世界の人間のようだ。


「久しぶりだな。最近、全然見かけないと思ってたんだ」


 そう言って、野見山が俺の横の席に腰掛ける。


「最近は配信が忙しくて……。野見山は相変わらず研究室?」

「ああ。でも今日は、午前中こっちで講義があってさ」


 野見山は入学時から優秀だったようで、珍しいことに一年生の頃から研究室への出入りを許されていた。他の工学部生が研究室配属のために必死に勉強している中、彼だけは早くからその世界に足を踏み入れている。それが、野見山にどことなく余裕が感じられる理由かもしれない。


「あのさ、そういえば研究室ってどこなの?」

「は? 何だ、今さら」


 俺は何気なく聞いてみた。落ち着かなくて、何でもいいから話題が欲しかった。


「いや、これまでちゃんと聞いたことがなかったなと思って……」

「ふーん、まあいいけど。てか、お前メモリーハンターとかやってたよな? だったら知ってるかもしれないが、神山研究室っていうメモリー系の研究をしてるところだよ」

「え? マジで? うちの大学、そんな研究室あるんだ」


 俺は文系だから、そんな研究室が工学部にあるだなんて知らなかった。


「大学のホームページに載ってる情報くらい、受験のときに確認しとけよ」

 

 野見山は呆れたような表情をしながら笑う。


「メモリーの認知科学的影響の研究とかしてるんだ。まあ、企業との共同開発もあって、詳しい研究内容はあんまり話せないけど」

「へえ、じゃあお前はメモリーに詳しいんだ?」

「まあ、そうとも言えるかもな」


 野見山は謙遜するように、肩をすくめる。


「ところで、お前の方は最近の配信はどうなんだ?」

「……最近は普通かな。徹夜で作業してて寝不足だけど、リスナーは増えてきてる」

「そうか」


 他愛もない話をしながらも、野見山はどこか気になっている様子だった。その目が、時折周囲の学生たちや窓の外を見やる。

 ふと訪れた静寂に、野見山から視線を外して、進んでいなかったカレーをまた一口含んだ。カレーはだいぶ冷めていた。先ほどまでに比べたら、少し食べやすくなったように感じる。


「ところで……中央図書館、今日は封鎖されてるみたいだな」


 予期せぬ話題に、思わずカレーを喉に詰まらせそうになった。慌ててお茶で流し込む。


 「え? そ、そうなの?」

 

 声が上ずっているのが自分でも分かった。野見山の黒い瞳が、じっと俺を見つめている。


「おまえ、知らないのか? 朝からすごい騒ぎになってるぞ。中央図書館で何かあったらしい」


 その言葉に、心臓が跳ねる。

 やはり、あのメモリーは作り物じゃなかったのか。昨夜見た光景が、紛れもない現実だったのか。


 冷や汗が背中を伝うのを感じる。

 そのとき、学食のテレビから、突然ニュースの速報音が響いた。


『速報です。本日未明、福南大学の中央図書館で、男子学生が刃物で刺殺される事件が発生しました』

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