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記憶の彼岸  作者: 小羊メイ
第一章 神は死んだ

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1-2

 *


 大学の中央図書館。深夜。

 自習室の蛍光灯が不気味に明滅している。古い施設特有の電気の調子の悪さだ。中央図書館なのに、人の気配がまったくない。その静寂を、キーボードを打つ音だけが時折破っている。

 

 右手に握った刃物が、蛍光灯に反射して青白く光る。足音を忍ばせながら、ゆっくりとパソコンに向かう男子学生に近づく。

 心臓が高鳴る。手のひらに汗が滲む。この緊張感、この高揚感。まるで獲物を追い詰める捕食者のような快感が全身を支配していく。


 男子学生が、背後の気配に気づいて振り返った。

 俺と同じ大学の、工学部の学生だ。よく、夜の中央図書館で見かけた顔。たしか、まだ研究室に入る前の、俺と同じ学部三年生。

 そんな些細な情報が、記憶の中で瞬時に結びついていく。


 ふと合う視線。それが引き金となる。

 体が勝手に動き出す。振り上げた刃物が、蛍光灯の明滅の中で一瞬の軌跡を描く。

 鈍い手応えとともに、温かい血が飛び散る。

 男子学生の悲鳴。自分の荒い息遣い。追い詰めた獲物が生命を失っていく瞬間の、言葉にできない快感。それらすべてが、克明な記憶として刻み込まれていく。


 *


「うっ、げぇっ!」

 思わず声を上げ、ヘッドセットを投げ飛ばした。胃液が喉まで込み上げてきて、慌ててゴミ箱に手を伸ばす。

 吐きそうだ。手が止まらないほど震えている。画面に映る自分の顔が、蒼白になっているのが分かる。冷や汗が背中を伝う。


 これはヤバい。リアルすぎる。

 作り物なんかじゃない。これは間違いなく、本物の()()()()()()()だ。殺人者の視点から、人を殺す瞬間を完璧に記録しているデータだ。


 数分間、ただ呆然と座り込んでいた。まだ、あの記憶が頭の中でぐるぐると回っている。

 刃物が振り下ろされる感覚。血の温かみ。他人の命が消えていく瞬間の高揚感。全部が生々しすぎる。


 ゴミ箱に手をかけたまま、何度も深いため息をつく。吐き気は徐々に収まってきたが、背筋の冷たい感覚は消えない。殺したときの快感があまりにもリアルで、それを味わってしまった自分が怖い。まるで自分が人を殺めてしまったような罪悪感が、重たく胸に残っている。


 時計を見ると、メモリーを開いてから十五分が経っていた。立ち上がろうとして、足の震えがまだ収まっていないことに気づく。

 たった一度見ただけなのに、あまりにも鮮明に残っている。まるで自分自身の記憶のように、脳裏に焼き付いて離れない。


「こんなの初めてだ……」


 送られてきたデータを再度確認しようとするも、見知らぬフォーマットで記録されており詳細がよく分からない。


「一体、何なんだ……とはいえ、まあ、そのうちいつものように記憶から消えるはず」


 自分に言い聞かせるように呟きながら、急速に湧き上がってくる不安を押し殺した。

 過去に何百ものメモリーを体験してきた。そのすべてが時間とともに薄れていった。これだって同じはずだ。


 しかし、これは警察に通報すべきなのだろうか? でも、通報したところで、どう説明すればいいのだろう?

 差出人は不明だ。興味本位で中を見ましたという理由で警察は納得してくれるだろうか。というか、そもそも警察には、できるだけお世話になりたくない。いっそ、見なかったことにして忘れてしまうべきなのだろうか。


 そうこう考えているうちにようやく落ち着いてきて、浮き上がっては消えていく思考の中に、別の感情が混ざり始めた。


 ――この前例のない体験を、この衝撃的なメモリーを、このままにしてしまうなんて……もったいなくないか?


 殺人のメモリーなんて、誰も体験したことがないはずだ。他のメモリーハンターだって、絶対持ってない。

 配信者が事件モノを扱うのは日常茶飯事だ。正直、再生数もかなり稼げる。事件を外から配信するだけでだ。それなら、事件の中のこれを配信すれば間違いなく大バズりする。チャンネル登録者数は跳ね上がる。企業案件の依頼だって殺到するはずだ。


「殺人の記憶とはいえ、そもそもやったのは俺じゃない。それなら、所詮これもデータでしかない。そうだ。いくらリアルでも、俺にとっちゃただのデータじゃん」


 震える指でパソコンに手を伸ばし、動画編集の準備を始める。と、そのときふと考えた。


 ――なぜ、犯人は俺にこのメモリーを送ってきたんだろう。


 垣間見た殺人の記憶は驚くほど緻密で計画的だった。中央図書館の警備システムの死角、人気の少ない時間帯の選択、証拠を残さない手際の良さ。完璧な犯行とも言える。そんな慎重な犯人が、わざわざ証拠となるメモリーを送ってくるなんて――


 俺に送ってきた理由は何だろう? 現場も俺の通う大学の中央図書館だったし、もしかして知り合いだったりするのだろうか? まさか、俺に恨みを持って……?

 脳裏にまた一瞬の不安がよぎる。しかし、俺はその不安を即座に否定した。


 いやいや、大学での俺は無害な一般人だ。リアルでの人との関わりを避けてきた俺には、会話を交わしたことのある人すらほとんどいない。大学での俺に恨みを持つ人間なんか考えられない。


 ということは、このメモリーは『メモリーハンターのイサキ』4 へ送られたものだろう。犯人はきっと、この殺人メモリーを配信で使われることを期待しているに違いない。殺人の記憶を世界中に拡散させることが目的なのかもしれない。


 配信を見たら、犯人はどんな反応をするだろうか。俺やリスナーたちの反応を見て興奮したり、もしかしたら、リスナーの一人としてコメントを残したりするのだろうか。

 犯人の人物像と動機が次々に頭に浮かんでくる。猟奇的な変態だったらどうしようかと一瞬背筋が寒くなる。


 でも、そんな疑問も、目の前に広がる可能性の前では些細なことに思えた。今は目の前のチャンスに集中すべきだ。考えるのをやめて、パソコンの画面に向き直る。

 

 メモリーはそのままではパソコンで再生できない。まずロシアのサイトでプリレンダリング処理をして、それを香港のサイトで特殊なコーデックに変換。最後にインドのサイトを経由してMP4形式にする。


 どれも胡散臭いサイトばかりで、一回の処理に五万円ほどかかるものもある。だから普段の配信では、メモリーを購入してもその場でヘッドセットを装着して体験し、自分が身につけたスキルを実演してみせるという形を取っている。

 たとえば料理人のメモリーなら、その腕前を実際に料理して見せる。プロボクサーのメモリーなら、その技を披露する。Vの体を通してだけど、それでも十分リスナー受けは良いし、なにより経費を抑えられる。


 でも、今回は特別だ。メモリーそのものを見せないと意味がない。

 この変換にかかる費用も、広告収入で優に取り返せるだろう。殺人事件の犯人のメモリーなんて、これまで誰も見たことがないのだから。


 ただ、さすがに殺人シーンそのものは配信できない。でも、その前後の緊張感とか、犯人視点ってことで売り出せば、絶対ウケるはずだ。

 サムネはぼかしを入れて不気味な雰囲気を演出して。タイトルは『殺人鬼のメモリーを入手した⁉ 衝撃の映像』で決まりだ。


 今夜は眠れないかもしれない。それでも、これは絶対バズる。メモリーハンターとして、新境地を開ける。

 胸の高鳴りが、さっきまでの恐怖を上回っていく。脳裏には、増えていく登録者数の数字が踊っていた。

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