第9話 悪役貴族、才女に書面を投げる
北通りを抜けて屋敷へ戻るまで、クラリスはほとんど口を開かなかった。
馬車でもあれば少しは貴族らしく迎えられたのだろうが、御者も馬丁も前にまとめて追い出したばかりだ。今の屋敷にそんな余裕はない。結局、俺とミレーヌ、それから新しく拾ってきた金髪の女の三人で歩いて帰ることになった。
道行く連中の視線が妙に刺さる。
銀髪で悪人顔の若い領主、その少し後ろを歩く白髪のメイド、さらに見慣れない女。しかもクラリスは身なりこそくたびれているものの、どう見てもただの平民には見えない。見ないふりをしながらこっちを見ている奴が多いのも仕方ないだろう。
当のクラリスは、そんな視線より俺の方を気にしていた。
何度か横目でこちらを見ては、すぐ前を向く。さっきまで泊まっていた安宿から連れ出されたばかりなのだから、警戒するなという方が無理か。服の袖は擦れているし、顔にも疲れが残っている。それでも背筋は伸びたままで、後ろで束ねた金髪も乱れていない。
横領の疑いを着せられ、家からも追い出された女とは思えないくらい、まだ目に力があった。
……いいな。見た目も悪くないし、頭も使えるらしい。これで給金まで安く済むなら、俺としては文句なしだ。
もちろん、そんなことを口に出したら隣のミレーヌにどんな顔をされるか分からないので黙っておく。
「ねえ、ヴェイン」
しばらく歩いたところで、クラリスがようやく口を開いた。
「本当に私を屋敷へ入れるつもりなの? 横領したって疑われてる女よ?しかも、あなたのところは前の使用人をまとめて追い出したばかりなんでしょう? 私まで連れて帰ったら、また変な噂が立つと思うけど」
「噂が立ったら、机の上の紙が減るのか?」
「……減らないでしょうね」
「ならどうでもいい。俺は噂より、あの紙の山をどうにかしたい」
クラリスは呆れたように俺を見た。
「ずいぶん自分勝手ね」
「領主なんてそんなもんだろ」
「自分で言う?」
言いながらも、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。警戒が消えたわけではない。ただ、少なくとも話の通じない相手だとは思われていないらしい。
それで十分だ。
屋敷の門をくぐったところで、クラリスが足を止めた。
まだ直していない門柱に、手の入りきっていない庭。石畳も途中までしか掃除が終わっていない。前の使用人を一斉に追い出したせいで、屋敷のあちこちに手が回っていないのは隠しようがなかった。
それでも窓は開いているし、玄関周りにはもう埃もほとんどない。食堂の方からは香草と煮込みの匂いまで流れてくる。
クラリスは屋敷を見回したあと、少し意外そうに眉を上げた。
「……もっとひどいと思ってた」
「失礼な奴だな」
「だって、使用人を全員追い出したって聞いたもの。中まで荒れ放題かと思うでしょ」
「ミレーヌがやってる」
クラリスの視線が横へ動いた。
ミレーヌは少し緊張しながらも、腰に下げた鍵を隠すことなく頭を下げる。
「まだ全部には手が回っておりませんが、旦那様が困らない程度には整えようと思っています」
「……一人で?」
「今は、ほとんど私一人です」
クラリスがもう一度屋敷を見る。
「それは……大変ね」
「ですが、以前よりはずっと楽です」
ミレーヌがさらりと言うと、今度はクラリスが俺を見る番だった。
「……本当に変な屋敷ね」
「俺に言うな」
「あなたの屋敷でしょうが」
◇
執務室へ入った瞬間、クラリスの足が止まった。
机の上には、相変わらず見たくもない紙の山がある。村から届いた訴え、先代の頃の支払いの控え、古い帳簿、それが入っていた木箱まで片隅に積み上がっている。
俺が見ると頭が痛くなるだけだが、クラリスは黙ったまま机へ近づいた。
「……これ、全部このまま?」
「ああ……届いた順だな」
「嘘でしょ……?」
「残念ながら本当だ」
クラリスは一番上の紙を取ったかと思うと、次、その次と目を通し始めた。読む速度が速い。何枚か見たところで、今度は勝手に机の空いている場所へ紙を分け始める。
「おい、何してる?」
「分けてるの!こっちは返事が必要なもので、こっちは金が絡むもの。こっちは紙だけじゃ判断できないから、誰か現地を見に行かせるもの」
「もう分かるのか?」
「全部は分からないわよ……でも、少なくとも混ぜたまま積んでおくよりはましでしょう?」
それはそうだ。
俺が黙ると、クラリスはまた紙を一枚抜き取った。
「……これ、同じ村から二回来てる」
「何が?」
「最初は橋板を直してほしいって訴え。その次は、麦を運ぶのが遅れたせいで罰銀を取られたって書いてある。橋が壊れて運べなかったのに、怠けたことにされたみたいね」
「先代か?」
「たぶん……日付を見る限りはね」
「なら俺じゃないな」
「そこだけは嬉しそうね」
「死んだ父親の失敗まで俺のせいにされてたまるか!」
クラリスは鼻で笑ったものの、手は止めなかった。次は古い帳簿を開き、しばらく数字を追っていたが、途中で眉を寄せる。
「……これも変」
「今度はなんだ?」
「倉に入った麦と、屋敷へ送ったことになっている量が合ってない。村で最初から少なく書いたか、途中で誰か抜いたか……今の紙だけじゃ分からないけど、このまま放っておくのはまずいわね」
言いながら、その紙をさっきとは別の山へ置く。
俺は椅子へ座り、ようやく茶に手を伸ばした。
……当たりだな。
安宿にいた時とは顔つきがまるで違う。紙を見せた途端に勝手に問題を拾い、勝手に分け始めた。しかも俺が横から細かく聞かなくても手が動いている。
こういう奴が欲しかったんだ。
これなら俺が毎日こんな紙と睨み合う必要もなくなる。
「クラリス」
「なに?」
「それ、ちょっと置け」
俺は引き出しから二枚の羊皮紙を取り出し、机の端へ滑らせた。
クラリスは怪しそうな顔で受け取る。
「……何これ?」
「お前を雇う時の書面だ。まだ決めてないなら、まずはじっくり読め」
「ずいぶん用意がいいわね……?」
「口で全部説明するのが面倒だからな」
「そこは隠さないのね……」
クラリスは呆れながらも、羊皮紙へ目を落とした。
給金。住み込みの部屋と食事。任せる仕事。それから、金や物を動かす時には誰の指示だったか分かるよう記録を残すこと。大きな支払いには俺の印を使うこと。
細かいところまで読んでいたクラリスの目が、途中で止まった。
「……これ」
「なんだ?」
「支払いを命じた人の印も残すの?」
「ああ。俺が命じたなら俺の印だが……お前が勝手にやったことにはできないだろ」
クラリスは返事をしなかった。
もう一度その箇所を読み、それから俺を見る。
「……前にいた家では、こういうの嫌がられたわ」
「どういうことだ?」
「誰に言われて動いたのか、残すことよ……疑ってるみたいで気分が悪いって。だから口で命じられて、私が処理して……最後に残ったのは私の印だけだった」
声は平坦だったが、指先だけが羊皮紙の端を少し強く押さえていた。
なるほど……それで横領ってことか……。
「なら、ここでは残せばいい」
「簡単に言うのね」
「面倒だからだよ。あとで誰がやっただの、言っただの、聞いてないだので揉める方が面倒だろ?俺が命じたなら俺の印を押す。それで終わりだ」
クラリスが何とも言えない顔をする。
「……それ、自分にも不利になるわよ」
「だから?」
「あとから知らないって言えなくなる……」
「言う必要がないだろ?俺がやらせたなら俺のせいだ」
黙った。今度はかなり長かった。
横にいたミレーヌが、そっと腰の鍵へ触れる。
「私も、食料や備品を出した時は記録を残しています……旦那様が、あとで聞かれるのを嫌がりますので」
「……本当に理由が全部それなの?」
「はい!」
「ミレーヌまで即答するな」
なぜか俺が責められている気がする。
クラリスは少しだけ口元を緩めたが、すぐにまた書面へ視線を戻した。最初に見せた時より、読む速度が遅くなっている。今度は疑うためではなく、一つずつ確かめているようだった。
やがて最後まで読み終えると、羊皮紙を机へ置く。
「信用したわけじゃないから……」
「別にいいぞ?」
「あなたの噂も知ってるし、その顔もあんまり信用できない」
「顔は関係ないだろ!」
「少しはあるわよ」
ひどいやつだな……クラリスはそんな俺を見て、ほんの少しだけ笑った。
「でも……この書面の条件なら、試してみてもいい……三日だけここで帳簿を見るわ。その間におかしな命令をされたら、その時は出ていく。それでいい?」
「三日で何が分かるんだ?」
「少なくとも、あんたが話の通じる主かどうかくらいは分かるでしょう?」
随分な言い方だな……三日でも働くなら問題ないか?むしろ三日もあれば、この紙の山が少しは減るかもしれない。
「分かった。三日だ」
「ええ」
「じゃあ早速頼むぞ。まずそれ全部なんとかしてくれ」
俺が机の上を指すと、クラリスの顔が引きつった。
「……初日から全部押しつける気?」
「そのために連れてきたんだぞ?」
「……最低ね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてないわよ」
そう言いながらも、クラリスは帰ろうとはしなかった。さっき自分で分けた紙の山へ向き直ると、一番上の一枚を取り、また読み始める。
よし!少なくとも三日間は、俺の代わりにこの紙と戦ってくれる奴ができた。
三日後も残るかどうかは――まあ、その時考えればいい




