第10話 悪役貴族、才女に机を与える
三日の試しが始まった朝、クラリスは執務室へ入るなり、部屋の隅に置かれた机を見て足を止めた。
昨日まで物置同然だった古い机をミレーヌに頼んで拭かせ、椅子とインク壺、それから使っていない紙を何枚か置いただけだ。大したものではない。だがクラリスはしばらく黙ってそれを眺めていた。
「……これ、私が使うの?」
「他に誰がいるんだ?三日だけとはいえ、床で帳簿を広げられたら邪魔だろ」
「昨日連れてきたばかりの人間に、もう机まで用意するのね」
「古いのを引っ張り出しただけだぞ。金はほとんどかかってない」
「そういうところだけは徹底してるわね……」
呆れた声を出しながらも、クラリスは机の前まで行き、天板を指で軽くなぞった。埃がつかなかったことを確かめると、今度は椅子を少し引いて座り心地まで確かめている。
昨日まであの狭い宿にいたんだ。まともに紙を広げられる場所があるだけでも違うのだろう。もっとも、俺としてはそんな事情より、あの木箱を早く空にしてくれる方が大事だ。
「座ったならさっそく始めてくれ。昨日分けた続きがある」
「朝一番から人使いが荒いわね……」
「三日しかないんだ。働けるうちに働いてもらう」
「本当に容赦ないわ、ヴェイン」
そう言いながらクラリスは帰ろうとはせず、昨日分けた紙束へ手を伸ばした。
よし。それでいい。
◇
昼になる前には、執務室の景色がかなり変わっていた。
昨日まで俺には全部同じ紙の山にしか見えなかったものが、今は机ごとに分けられている。返事だけ出せば済むもの、帳簿と照らさなければならないもの、実際に村へ人をやらないと判断できないもの。クラリスは読みながら迷った紙だけ手元へ残し、分かるものは次々と場所を変えていった。
俺は自分の椅子に座って、その様子を茶を飲みながら眺めていた。
これだ……!俺が欲しかったのはこういう光景だ。
俺が一枚ずつ読んで頭を抱えるんじゃなく、誰かが勝手に読んで、勝手に分けて、必要なものだけ俺のところへ持ってくる。最高じゃないか。
「……さっきから随分機嫌がいいわね」
紙から目を離さないまま、クラリスが言った。
「気のせいだろ」
「絶対違うでしょ!人が働いてるの見ながら、ずっと茶を飲んでるじゃない!」
「お前が働けば俺の仕事が減る……それを確認してるだけだ」
「本当に最低ね!」
口ではそう言うものの、手は止まらない。何枚かまとめて読んだあと、一枚だけ抜き出してこちらへ差し出してきた。
「これ、見て」
受け取ると、領内の小さな村から出された願いだった。古くなった橋の一部を直したいので、木材を買う金を先に出してほしいらしい。
「橋が傷んでるみたい……荷車も通る場所だから、放っておくと面倒になるわ。村に先に修繕させて、あとで屋敷が費用を払えばいいと思う」
「いくら払うんだ?」
「必要になった分だけよ」
「それは誰が決める?」
クラリスの手が止まった。俺はもう一度紙を見る。
「村役人が木を十本買ったと言えば十本分払うのか? 二十本必要だったと言われたら二十本か?」
「……そこは、使った分を出してもらえば」
「その使った分が本当か、誰が見るんだよ?」
クラリスが黙った。
「橋を直すのは別にいいぞ。壊れて荷が通らなくなったらこっちも困るからな……ただ、先に『使った分は全部払う』なんて書いたら、いくらでも増やせるだろ?必要な木材の目安を出させて、上限を決めろ。それを超えるなら先に屋敷へ知らせる。支払いも終わったあとに一度確認してからだ」
しばらく紙を見ていたクラリスが、ゆっくり顔を上げた。
「……そこまで見るのね」
「金が減るところだからな」
「もっと立派な理由はないの?」
「ない!余計に払ったら俺の酒代が減るだろうが」
「そこまで堂々と言われると、逆に何も言えないわ……」
クラリスは羽根筆を取り、俺が言ったところを書き足していく。上限を決め、それを超える場合には屋敷へ知らせること。修繕が終わったあと、使った材料を確認してから支払うこと。
書き終えると、もう一度こちらへ紙を差し出した。
「これなら?」
俺は最初から最後まで読み直す。
「まぁ……いいんじゃないか」
「本当に全部読むのね」
「俺の印を押すんだから当然だろ?」
「……そう」
クラリスの声が少しだけ小さくなった。机の端に置いていた印璽を取り、蝋を落として印を押す。俺としてはそれだけのことだったが、クラリスは潰れた蝋をしばらく見ていた。
「どうした?」
「別に……前のところだと、こういうのはだいたい私に渡して終わりだったから」
「俺が払う金なのに、なんで俺が見ないんだ?」
「それを普通に言う人が少なかったのよ」
「変な話だな」
「……ええ。本当にね」
クラリスはそれ以上言わず、紙を別の束へ移した。
昨日までずっと俺を疑うように見ていた目が、ほんの少しだけ変わった気がする。信用されたとは思わないが、少なくとも何も考えていない馬鹿ではないくらいには評価が上がったらしい。
それで十分だ。
「ほら、次」
「もう?」
「お前が持ってきたんだろ」
「少しくらい余韻に浸らせなさいよ……」
「それは、是非紙が減ってからにしてほしいもんだな」
「……ひどいわね」
それでもクラリスは、今度は少し笑いながら次の一枚を持ってきた。
◇
夕方になる頃には、木箱一つ分がほとんど空になっていた。
もちろん全部片づいたわけではない。村へ人を出さなければ分からないものもあるし、昔の帳簿まで掘らないと判断できないものも残っている。それでも、昨日までどこから手を付ければいいのかすら分からなかった量が、今は「次に何をすればいいか」が分かる状態になっていた。
……こいつ、思ったより使えるな!俺が一人でやっていたら、今日一日で木箱の半分も終わらなかっただろう。それが俺は何度か紙を確認して印を押しただけで済んでいる。
すばらしい!これなら昼寝する時間も、酒を飲む時間も増える。
クラリスは最後の紙を束へ戻すと、両腕を上へ伸ばして肩をほぐした。
「はぁ……疲れたわ」
「もう終わるのか?」
「夕方まで働かせておいて、まだ言うの?」
「三日の試しだぞ!時間は有限だ」
「あなた、私が倒れるまで使う気じゃないでしょうね……?」
「倒れられたら困るからな……飯食って休め」
「そういうところだけ急にまともなのよね……」
クラリスは立ち上がろうとしたものの、途中でふと思い出したように自分の机を見た。朝は少し怪しむように触っていた机の上には、もう本人が使いやすいように紙が並べられ、羽根筆も手の届きやすい位置へ置かれている。
「明日もこの机……使うから」
「三日の間は好きにしろ」
「紙も……その、もう少し欲しいわ。このままだと明日の分が足りないから」
「それは、ミレーヌに言え。必要ならいくらでも出してくれる」
「分かったわ」
そこまで言ってから、クラリスは一度だけ俺を見る。
「それと……さっきの橋の件」
「なんだ?」
「私一人だったら、そのまま出してたと思う……上限まで考えてなかった」
「じゃあ次から気をつけろ」
「……それだけ?」
「それ以外に何がある?」
クラリスは一瞬ぽかんとしたあと、呆れたように笑った。
「本当に変な人ね、あなた」
またそれか……?俺からすれば、間違いを一つ見つけたくらいで怒鳴る方が面倒だ。直せば済むなら直せばいいし、同じことを何度もやるならその時考えればいい。
それより重要なのは、この女が明日もここへ来る気になっていることだ。三日のうち一日目は終わった。さらに、喜ばしいことに木箱は一つ減った。俺は空になった箱を見て、かなり満足しながら茶の残りを飲み干す。
……よし。この調子なら、こいつを拾ったのは当たりかもしれない。




