第7話 悪役貴族、領地の帳簿から逃げたい
屋敷の朝は、少しずつ人の住む場所らしくなっていた。
広間の窓は開けられ、湿った臭いは薄くなり、食堂には湯気の立つ茶が置かれるようになった。古い燭台は磨かれ、廊下の隅に溜まっていた埃も消えた。全部が上等になったわけではない。壁の染みは残り、椅子の脚はまだ軋み、寝台の藁も新しいとは言えない。それでも、昨日より今日の方がましだと思えるくらいには、屋敷が息を吹き返している。
その中心で動いているのが、白髪ボブのメイド、ミレーヌだった。
朝の光を受けた髪は、銀ではなく雪のように白い。顔立ちは整っているのに、いまだに褒められると視線が逃げる。だが、鍵の輪を腰に下げて歩く姿だけは変わった。最初は触れることすら怯えていたのに、今は鳴らないよう指で押さえながら廊下を進み、必要な時だけ迷わず鍵を差す。灰色の瞳はまだ臆病だ。けれど、棚の中身を見る時だけは、細く静かな光が宿る。
俺は食堂で茶を飲みながら、それを見ていた。
悪くない。
顔がよく、茶も淹れられ、食料庫の数も見られる。これで俺が寝ている間に勝手に屋敷が整うなら、まさに理想の搾取生活へ一歩近づいたと言える。前世では、朝から晩まで人の尻拭いをしていた。今は逆だ。俺の代わりに誰かが働き、俺は椅子に座って茶を飲む。これだ。俺が欲しかったのはこれだった。
「旦那様、本日の朝食は麦粥に香草を少し入れております。昨日の豆も残っておりますので、昼には薄焼きにできます」
「いい。昨日より固くなければ何でもいい」
「固いパンは煮て、鳥にはやらず、私が味を見てから使います。旦那様のお口に合わなければ捨てますので」
「お前が先に全部食うなよ。味見と称して食料庫を空にされたら困る」
ミレーヌは少し目を丸くして、それから小さく笑いかけた。ほんの一瞬だったが、確かに笑った。市場で侮辱された時には、まだ震えていた娘だ。その娘が今、俺の前で冗談を冗談として受け取った。
いい傾向だ。
怯えてばかりの者は、失敗を隠す。少し笑う余裕が出たなら、報告も早くなる。そうすれば俺の手間が減る。俺は善い主になりたいのではない。楽な主になりたいのだ。
「旦那様、食料庫の帳面ですが、今朝の分まで写し終えました。油は予定より少し早く減っております。私の部屋の灯りをもう半分にすれば――」
「減らすなと言っただろう」
「ですが、旦那様の執務室で使う分を残すべきです」
「お前が暗い部屋で帳面を間違えれば、結局俺が見る羽目になる。油より俺の時間の方が惜しい」
ミレーヌは帳面を胸に抱え、少しだけ困った顔をした。
「旦那様は、いつもご自分が損をなさらないようにおっしゃいます」
「ああ。損は嫌いだ」
「では、私は損をさせないメイドになります」
その言い方が妙にまっすぐで、俺は茶を飲む手を止めた。
損をさせないメイド。
言葉だけなら実に都合がいい。俺が楽をするために、働き手が自分からそう言っているのだ。だが、ミレーヌの顔は使い潰される者の顔ではなかった。鍵を預かり、同じ鍋を食い、怪我を隠さなくていいと知った娘の顔だ。前より少しだけ背が伸びて見える。
俺は咳払いをした。
「なら、まず自分を数に入れ忘れるな。飯も油も布も、お前の分を抜けば帳面が狂う。お前が狂わせた帳面を見るのは俺だ」
「はい。私は、屋敷の数に入ります」
ミレーヌはそう言って、帳面の端をそっと撫でた。
◇
その平穏は、昼前に壊れた。
門の前に、泥のついた木箱が三つ置かれていた。中には村々から届いた書き付けが詰められている。麦の不作、橋の板が落ちたという訴え、井戸の縄が切れた村、税の取り立てを待ってほしいという願い。どれも紙は安く、字は荒い。だが数だけはやたらに多かった。
俺は木箱の前でしばらく黙った。
見なかったことにしたかった。
屋敷は整い始めた。茶は出る。飯も出る。寝台も湿っていない。なら、そろそろ昼まで寝て、酒でも飲み、顔のいいメイドに世話を焼かれる暮らしが始まってもいい頃だ。なのに、今度は領地の方から紙が押し寄せてきた。
「旦那様……こちらは」
「領地の訴えだな。見れば分かる。分かりたくはないが」
「私もお手伝いいたします。字を写すだけでしたら、手は動きます」
「駄目だ」
ミレーヌが顔を上げた。
「なぜでございますか。私は屋敷の鍵を預かっております。少しでも旦那様のお役に立てるなら」
「お前は屋敷を回せ。食料庫、厨、灯り、掃除、俺の茶。そこへ領地の訴えまで抱えたら、お前がまた夜明け前から動き出す。そうなれば倒れる。倒れたら屋敷が止まるし、俺が困る」
ミレーヌは何か言おうとして、口を閉じた。
嬉しそうな顔をするな。
俺はお前を思いやっているのではない。単に、屋敷を動かす手を失いたくないだけだ。ここでミレーヌに領地の帳面まで背負わせたら、また前の屋敷と同じことになる。本人は気づかず抱え込み、最後に壊れる。壊れた後で困るのは俺だ。
「旦那様が、困るのですね」
「ああ。大いに困る」
「では、私は屋敷を止めません。その代わり、旦那様もお一人で無理をなさらないでください」
「俺が無理をする前提で話すな。俺は無理をしない。そのために誰かを雇う」
言い切った瞬間、妙にしっくりきた。
そうだ。屋敷にはミレーヌがいる。なら領地にも、俺の代わりに働く者が必要だ。帳簿を読み、訴えを分け、金の流れを見て、俺が茶を飲んでいる間に面倒事を片づける者。できれば有能で、見栄えも良く、安く雇える者がいい。
「……補佐がいるな」
「補佐、でございますか」
「領地を見る者だ。俺がこの木箱とにらみ合うなど耐えられん。数字と訴えが好きな奇特な者を探す」
「そのようなお方が、都合よくいらっしゃるのでしょうか」
「いる。いなければ探す。落ちぶれた者、家を追われた者、腕はあるが評判が悪い者。そういう者は安い」
ミレーヌは少し複雑そうな顔をした。
自分がそうして雇われたことを思い出したのだろう。だが、今の彼女はもう、雇い所で震えていた娘ではない。鍵の輪が腰で鳴る。その音が、彼女の立ち位置を示していた。
「旦那様が拾われる方なら、きっと……その方も働けます」
「拾うのではない。使うんだ」
「はい。旦那様が楽をなさるために」
またそれだ。
俺は木箱を見下ろし、深く息を吐いた。領地の問題は山ほどある。だが、全部を俺が背負う必要はない。俺は悪役貴族だ。働かずに人を使う側へ回ると決めた男だ。
まずは街へ出て、有能で、美人で、できれば安く買える補佐を探す……俺の酒池肉林の夢は、なぜか人材探しから始まってばかりだった。




