第6話 悪役貴族、メイドに同じ鍋を食わせる
市場から戻ったミレーヌは、買ってきた麦袋を食料庫の棚へ運び入れる前に、まず腰の鍵の輪を両手で確かめた。
白いボブの髪が頬に落ち、灰色の瞳が袋の口と帳面を何度も行き来する。麦、豆、干し肉、香草、塩、油。どれも豪華とは言えない。だが、空に近かった棚へ物が並ぶだけで、屋敷は少しだけ息を吹き返したように見えた。
俺は食料庫の入口にもたれ、腕を組んでそれを眺めていた。
悪くない。
本当なら、俺がこんな場所に立っていること自体、気に食わない。俺は貴族だ。しかもラズグリム家の若当主だ。朝から食料庫で麦の数を数えるなど、本来なら下の者に投げる仕事である。だが、その下の者がミレーヌ一人しかいない。壊れた屋敷を搾るには、まず搾る相手がまともに動けるようにしなければならない。まったく、楽をするにも支度が多すぎる。
「旦那様、麦は三袋、豆は二袋、干し肉は小さい包みが四つ。香草は日持ちしないものから使います。油は節約すれば七日は持ちますが、灯りまで回すには少のうございます」
「灯りを削るな。暗い廊下で転んで怪我をされたら、また薬師を呼ぶ羽目になる」
「では、夜の広間だけ火を減らします。旦那様がお使いになる執務室と食堂は、そのままにいたします」
「お前の部屋もだ」
ミレーヌの手が止まった。
「私の部屋は、月明かりで十分です。灯り油は旦那様のために残すべきかと」
「俺の屋敷の鍵を持つ者が、暗い部屋で帳面を読んで目を悪くしたらどうする。字を読み間違えられる方が面倒だ。油は買う。足りないなら他を削れ」
ミレーヌは困ったように視線を落とした。自分のために油を使うことが、まだ怖いのだろう。前の屋敷では、奉公人の部屋に灯りなど贅沢だと言われていたのかもしれない。だが、暗がりで帳面を書かせて数字を間違えられたら困る。結局その間違いを追うのは俺だ。
俺は棚に置かれた干し肉の包みを指で叩いた。
「あと、今日の夕餉はそれを使え」
「旦那様のお皿には、肉の多いところをお出しいたします」
「またそれか。何度も言わせるな。同じ鍋で煮ろ。お前も食う」
ミレーヌは小さく息を飲んだ。
「私は、煮汁と豆で十分でございます。肉は旦那様のために――」
「俺一人で干し肉四包みを食えば、腹を壊す。腹を壊した当主の世話は誰がする。お前だろうが。つまりお前が困る。だから俺を困らせるな」
ミレーヌはしばらく黙ったあと、鍵の輪を押さえながら頷いた。
「……分かりました。同じ鍋で支度いたします」
その言い方は、命令を聞いたというより、何か大きな罪を許されたようだった。
◇
夕方、厨から湯気が立った。
火にかけた鍋の中で、豆と麦と端肉がゆっくり煮えている。香草の匂いが廊下まで流れ、食堂の冷えた空気に少しずつ混じった。先代の頃は、この屋敷にも銀の皿が並び、濃い葡萄酒が出されていたのだろう。だが、その裏で食料庫の中身は抜かれ、父の薬代より宴の酒代が膨らんでいた。見栄だけの食卓など、腹の足しにもならない。
今の鍋は質素だが、嘘はない。
俺は食堂の席につき、ミレーヌが皿を置くのを見た。白い髪を耳にかけ、袖口を押さえながら、彼女は俺の前に肉の多い皿を出した。そして自分の皿には、豆と麦ばかりを盛っている。
「ミレーヌ」
「はい、旦那様」
「その皿をこちらへ寄こせ」
ミレーヌは一瞬で顔を青くした。
「申し訳ございません。何か、灰でも入りましたでしょうか」
「違う。肉が少ない」
「私は、これで十分で――」
「俺が命じたのは同じ鍋で食え、だ。俺の皿だけ肉を増やして、お前の皿から抜けとは言っていない。言葉を勝手に薄めるな」
ミレーヌは皿を持ったまま立ち尽くした。叱られているのに、何が悪いのか分からない顔だった。いや、分からないのではない。彼女の中では、主の皿に多く盛り、自分は残りを食べるのが当たり前なのだ。
当たり前がずれている。
俺は自分の皿から肉を一切れ取り、ミレーヌの皿へ落とした。
「食え」
「旦那様、そのようなことをなさらずとも、私は本当に」
「いいから食え。痩せたメイドがふらついている屋敷など、外から見れば貧しい家に見える。俺の見栄に関わるからな」
ひどい言い訳だった。だが、ミレーヌにはそれでよかったのかもしれない。彼女は両手で皿を持ち、視線を落としたまま椅子の横に立っている。
「座れ」
「私は立ったままいただきます」
「座れと言った。立ったまま食って汁をこぼせば床が汚れる。片づけるのはお前だ。余計な仕事を増やすな」
ミレーヌは迷った末、食堂の端の椅子へそっと腰を下ろした。座る動きがやけにぎこちない。まるで罰を受ける席に座るみたいだった。
俺は先に匙を取った。味は薄い。肉も硬い。だが、冷えたパンだけをかじるよりはずっとましだ。
「悪くない」
その一言で、ミレーヌの肩がわずかに動いた。
彼女も匙を取る。豆をすくい、麦を口に運び、最後に小さな肉片を見つめた。食べる前から喉が震えている。そんな大げさなものではない。端肉だぞ。安かったやつだぞ。そう思ったが、口には出さなかった。
ミレーヌは肉を噛み、目を伏せた。
「……温かいです」
「煮たからな」
「はい。でも、それだけではなくて」
そこで言葉が途切れた。彼女は泣かなかった。泣かない代わりに、匙を握る指に力を込めた。白い髪の隙間から見える頬が、少しだけ赤い。
面倒だ。
ただ飯を食わせただけでこの顔をされると、まるで俺が良い主みたいではないか。
「明日からも同じだ。俺の飯を作る時は、自分の分も数に入れろ。数に入れなかった分は、お前の失敗として帳面につける」
「失敗、でございますか」
「ああ。俺の屋敷の働き手を一人分数え忘れた失敗だ。鍵を預かる者が、屋敷の中の数を間違えるな」
ミレーヌは匙を置き、深く頭を下げた。
「承知いたしました。私は、ラズグリム家の働き手一人として、自分の食事も数に入れます」
言い方が少し硬い。だが、それでいい。
彼女が自分を数に入れた。
それだけで、今日の夕餉には意味がある。
◇
夜、ミレーヌは食料庫の帳面に新しい項を加えた。
麦、豆、干し肉、香草、油。その下に、小さな字で「屋敷の食事、二人分」と書かれている。俺はそれを見つけ、何も言わずに帳面を閉じた。
二人分。
たったそれだけだ。だが、少し前までこの屋敷は、俺一人が残された空き箱のような場所だった。今は鍵を鳴らすメイドがいて、温かい鍋があり、帳面には二人分と書かれている。
「旦那様、明日は残った豆で薄焼きを作れます。少し香草を混ぜれば、朝のお茶にも合うかと」
「いい。俺が起きる前に無理はするなよ。朝から倒れられると飯が遠のく」
「はい。旦那様が楽をされるために、私は倒れず、食べ、働きます」
また妙な誓いになった。俺は訂正しかけて、やめた。彼女が自分の分を数えるなら、少しくらい妙でも構わない。
食堂の窓の外は暗い。だが、廊下の油皿には火が入っていた。ミレーヌの部屋にも、きっと小さな灯りがある。俺の銭で買った油が減っていると思うと少し腹立たしいが、暗がりで目を悪くされるよりはましだ。
俺は椅子にもたれ、冷めかけた茶を飲んだ。
悪くない。
この屋敷はまだ貧しい。領地の帳簿も見たくないほど積まれている。俺の酒池肉林は遥か彼方だ。それでも、同じ鍋の匂いが残る食堂は少しだけましだった。




