第5話 悪役貴族、市場でメイドを値踏みされる
鍵を預けた翌朝、ミレーヌは鉄の輪を腰に下げて市場へ向かった。
食料庫、油壺の小部屋、掃除道具の棚。少し前まで俺の机の上に転がっていたものが、今は白髪のメイドの腰で、屋敷の一部みたいな音を立てている。ミレーヌ自身はまだ慣れていないらしく、歩くたびに鳴る小さな音を指で押さえようとして、そのたびに思い直したように手を離していた。
白いボブの髪は朝の光を受けて薄く光り、古いメイド服の襟元も昨日より整っている。顔立ちは相変わらず綺麗だ。前の屋敷で使い潰されていた娘とは思えないほど、目鼻立ちははっきりしている。ただ、灰色の瞳は人の多い場所に向くと、まだ不安げに揺れた。
「旦那様、本当に私が市場で品を選んでもよろしいのでしょうか。食料庫の鍵を預かったばかりで、買い付けまで任されるには早いかと」
「俺が魚の鮮度を見分けられると思うか?」
「……旦那様は、お魚をあまりご覧にならないように思います」
「そういうことだ。俺にできんことをお前にやらせる。俺はそのためにお前を雇った。顔がいいだけで食料庫は満たされんからな」
ミレーヌは困ったように眉を下げた。褒めているのか、からかわれているのか、まだ判断に迷うのだろう。だが、そこで怯えきらないだけ前よりましだった。
市場は、朝から声と匂いで満ちていた。干し魚の塩気、焼いた麦粉の香り、泥のついた野菜、荷車を引く馬の汗。貴族の屋敷にいた頃の俺なら、こういう場所へ足を運ぶ必要などなかったのだろう。だが今の屋敷には人手がない。俺の楽な暮らしは、まだ遠い。顔のいいメイドを連れて朝の市場を歩く若当主など、なかなか情けない。
しかし、思ったより悪くはなかった。
ミレーヌは物の値を見る目がある。傷んだ葉物は避け、乾いた豆を指先でこすり、干し肉の端を見て塩の入り具合を確かめる。右手の傷をかばう癖はまだ残っているが、仕事をしている時の動きは細かい。
「旦那様、こちらの麦は安いですが、袋の底に湿りがございます。煮るなら使えますが、長く置くなら奥の店の方がよろしいかと。豆は二袋で足ります。肉は高いので、今日は骨付きの端肉を煮込みに回せば、三日は食いつなげます」
「俺の食卓が骨ばかりになるのは気に食わんが、屋敷の銭はまだ細い。任せる」
「旦那様のお皿には、肉の多いところをお出しします。私は煮汁と豆で――」
「同じ鍋から出せ。お前だけ薄い汁をすすって倒れられても困る。あと、俺の前で自分の飯を削るな。見ていて気分が悪い」
ミレーヌは言葉を止めた。それから、ほんの少しだけ頷いた。
「……承知いたしました。では、同じ鍋で支度いたします」
鍵の音が鳴る。小さな音なのに、なぜか彼女の返事よりはっきり耳に残った。店主たちは俺を見ると顔をこわばらせ、ミレーヌを見るとさらに妙な顔をした。ラズグリム家の若当主が、白髪の若いメイドに買い付けを任せている。それだけで噂の種になるのだろう。
まあ、好きに言えばいい。
噂があるくらいの方が、値切る時に相手がひるむ。
◇
干し肉の包みを受け取ったところで、後ろから嫌な声がした。
「あら、本当にラズグリム家に拾われていたのね。白髪のミレーヌ」
ミレーヌの指が止まった。
声の方へ目を向けると、年かさの女が二人、布屋の軒先に立っていた。俺には見覚えがない。だが、ミレーヌの顔色が一瞬で変わった。血の気が引き、腰の鍵の輪へ伸びかけた手が、途中で止まる。
ーー知り合いか?
それも、あまり良い方の知り合いではないらしい。
「その鍵、まさか若旦那様から預かったの? ずいぶん出世したこと。前の屋敷では銀皿を盗んだと疑われた娘が、今度は食料庫の鍵持ちだなんて、世の中はおかしなものね」
ミレーヌは唇を結んだ。反論しない。反論しないように育てられた顔だった。市場の音が少し遠のく。周囲の商人たちも、面白いものを見る目でこちらを見始めた。
俺はすぐに口を挟まなかった。
ミレーヌがどうするか見たかった、というのもある。だがそれ以上に、ここで俺が先に怒鳴れば、彼女は自分のせいで騒ぎになったと思う。そういう女だ。放っておくと、自分の傷口まで人に謝る。
年かさの侍女は一歩近づき、ミレーヌの腰の鍵を見て鼻で笑った。
「ねえ、若旦那様。その娘、見た目だけは綺麗でしょう? 白い髪が珍しいから、殿方には受けがいいのかもしれませんね。でも、鍵を持たせるのはおやめなさいませ。前の屋敷でも、物がなくなるたび近くにいたのはその娘でしたから」
ミレーヌの肩が、小さく震えた。
俺はそこで、干し肉の包みを店台へ戻した。
「今、俺の屋敷の者を何と言った?」
声を荒げたわけではない。だが、女二人の笑みはそこで止まった。俺の銀髪と人相の悪さは、こういう時だけ役に立つ。口元を少し上げるだけで、相手の顔から血の気が引いていく。
「い、いえ、若旦那様。私どもはご忠告を――」
「忠告? 不思議な言葉だな。俺には、俺が雇った者を市場の真ん中で値踏みし、過去の噂を振りまいて、鍵を預けた俺の判断まで笑ったように聞こえたが」
女の喉が鳴った。
ミレーヌが俺の袖を掴みかけ、途中で手を止める。止めた手が空中で迷っていたので、俺はわざと見ないふりをした。触れて止めようとするくらいには、俺が前へ出たことを怖がっている。だが、止める権利が自分にあるとは思っていない。面倒な傷だ。
「ミレーヌ」
「は、はい」
「前の屋敷で、銀皿を盗んだと言われたのはいつだ?」
彼女の顔が白くなった。
「旦那様、その話は……」
「聞いている。答えろ。俺の屋敷の鍵を預ける者が、何を背負わされていたのか知らんままでは気持ちが悪い」
ミレーヌは深く息を吸った。市場の視線が集まる中で話すには、酷な問いだったかもしれない。だが、逃げたままではこの女たちが勝手に彼女の名を汚し続ける。
「二年前の秋でございます。客間の銀皿が一枚なくなり、私はその部屋の掃除を任されておりました。奥様から問われ、私は……私ではないと、うまく申し上げられませんでした」
「なぜだ?」
「その時、奥様付きの侍女様が、私が持ち出したとおっしゃいましたので」
俺は年かさの女へ目を向けた。
女は口を開きかけて、閉じた。もう一人の女がそっと後ろへ下がろうとする。俺はそれを見逃さなかった。
「逃げるな。お前たちはミレーヌが前にいた屋敷の者だな。なら知っているはずだ。銀皿は、誰にも持ち出されずに勝手に消えたのか?」
「わ、私どもは詳しいことまでは」
「詳しくない者が、なぜ市場で人の名を汚せる。ずいぶん軽い舌だな。その舌で、前の屋敷でも誰かに罪を押しつけていたのか?」
女の顔が赤くなった。
「若旦那様! いくら何でも、そのような言い方は――」
「俺は言い方の行儀を学びに来たのではない。食料と、俺の屋敷の者を守りに来た」
そう言うと、周囲がざわついた。
守る、という言葉を使ったことに、自分でも少し引っかかった。俺はミレーヌを守りたいのではない。俺の屋敷の鍵を預けた人材を、市場で傷物扱いされるのが気に食わないだけだ。鍵持ちの信用が落ちれば、食料庫の記録まで疑われる。それは俺の手間になる。俺の損だ。
だから、これは損を避けるための行動だ。決して善意ではない。
「ミレーヌは俺の屋敷で食料庫の鍵を預かっている。記録も残している。袋の結び目、封蝋の割れ、残った豆の量まで見ていた。少なくとも、お前たちよりは役に立つ。俺は役に立つ者を使う。役に立たない上に、他人の名を汚す者は使わん。それだけだ」
年かさの女が、悔しげに唇を噛んだ。
「……その娘に、いつか裏切られても知りませんよ」
「その時は俺が罰する。俺の屋敷のことだ。前の主のところで何をしていたか知らんが、お前が口を挟むな」
冷たく言い切ると、女二人はそれ以上何も言えなくなった。周囲の商人たちは、すぐに目を逸らし始める。人相の悪い若当主が機嫌を損ねた。そう見えただろう。実際、それでいい。
俺は干し肉の包みを持ち直し、ミレーヌへ渡した。
「行くぞ。買い付けの途中だ。こんな者たちに時間を奪われる方が損だ」
ミレーヌは包みを受け取った。
その手はまだ震えていた。けれど、鍵の輪を隠そうとはしなかった。
◇
市場を抜け、屋敷へ戻る坂道で、ミレーヌはずっと黙っていた。
荷は俺と彼女で分けて持っている。俺の方が重い。貴族としては情けないが、右手の傷が治ったばかりの女中に重い麦袋を持たせて悪化されたら、また薬師代がかかる。損を避けるためだ。断じて優しさではない。
「旦那様」
坂の半ばで、ミレーヌが足を止めた。
白い髪が風に揺れ、灰色の瞳がこちらを向く。市場で侮辱された時の怯えはまだ残っている。だが、その奥に別のものがあった。鍵を受け取った時と似ている。怖がりながらも、何かを手放さないと決めた目だった。
「私は、銀皿を盗んでおりません」
「知っている」
「……どうして、そうお思いになるのですか」
「お前が本当に盗む女なら、食料庫の封蝋の割れに気づいた時、先に俺へ言わん。自分で抜く者は、抜かれた跡を見せたがらない。あと、銀皿を盗んだ者が干し肉一つを恐れて手を震わせるわけがない」
ミレーヌは目を伏せた。
「私は、あの時、否定できませんでした。違うと申し上げれば、もっとひどいことになると思って……それからずっと、自分でも何が本当だったのか分からなくなる日がありました」
俺は息を吐いた。
ああ、面倒だ。
人はこうやって壊されるのか。罪を着せられ、否定できず、何度も謝らされるうちに、自分でも自分を疑い始める。前世でも似たような者を見た。失敗を押しつけられ続けた者は、最後には自分が悪いと思い込む。あれは使う側にとって楽な状態だ。だが、長く使うには最悪の状態でもある。
「なら、うちでは紙に残せ。鍵を開けた時刻、出した物、残った物。お前が悪くない時は、悪くないと紙が言う。お前の口が震えても、紙は震えん」
ミレーヌは鍵の輪に触れた。
「旦那様は、私の言葉より紙を信じられるのですか」
「違う。人の言葉だけに任せると、お前のような者が損をする。俺はそれを見るのが面倒だ」
「……また、面倒なのですね」
「ああ。俺は面倒が嫌いだ」
ミレーヌはそこで、少しだけ笑った。市場での震えを残したままの、薄い笑みだった。それでも、泣き顔よりはずっといい。俺はそれを見て、妙に満足してしまった。
屋敷の門が見えてくる。
まだ荒れた屋敷だ。人手も少ない。食料庫は寂しく、領地の帳簿は手つかずで、俺の望む怠惰な暮らしにはほど遠い。それでも、腰に鍵を下げた白髪のメイドが門をくぐる姿は、前より少しだけ堂々としていた。
「ミレーヌ」
「はい、旦那様」
「今日買った肉はお前の分にも回せ。俺の飯とは別に粗末なものを作る方が手間だろ?俺と同じ煮込みを食べるんだ。市場でくだらん声を聞かされた分、まともなものを腹に入れろ」
「はい……旦那様が楽をされるために、私は倒れないよう食べます」
また妙な忠誠になっている。
だが、訂正する気は起きなかった。
鍵の音が門の内側で鳴った。その音を聞きながら、俺は少しだけ思う。悪い噂は、きっと今日も増えるだろう。若当主が市場で女を脅した。白髪のメイドを側に置き、鍵まで預けている。好きに言えばいい。
少なくとも、俺の屋敷の中で、ミレーヌを銀皿泥棒と呼ぶ者はいない。
それで今は十分だった。
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