第4話 悪役貴族、メイドに鍵を渡す
ミレーヌの包帯が取れたのは、傷を見つけてから二日後の朝だった。
薬師が白い布をほどくと、右手の傷は細い赤い線を残して塞がっていた。長く水へ浸すのはまだ駄目だが、茶器を運んだり、帳面を書いたりする程度なら問題ないらしい。
その言葉を聞いた瞬間、ミレーヌはほっと息を吐いた。すぐに表情を引き締めたものの、灰色の瞳には隠しきれない喜びが浮かんでいる。
休ませていた間、こいつは一度、片手で茶を淹れようとして俺に見つかった。それ以降は部屋から出るたびに睨んでいたので、さすがに大人しくしていたが、働けないことがよほど落ち着かなかったらしい。
俺の方も落ち着かなかった。
この二日、朝は自分で固いパンをかじり、茶とも呼べない色つきの湯を飲んだ。食堂の埃は増え、寝台の布も替わらない。使用人を一人しか雇っていない以上、そいつを休ませれば屋敷が止まるのは当然だった。
ーーやはり、人は壊さず使うに限るな……
「旦那様……本日から、仕事へ戻ってもよろしいでしょうか?薬師様からも、水仕事を長く続けなければ問題ないと許可をいただきました」
「いきなり全部やるなよ?今日は茶と帳面だけだ……洗濯と床磨きは傷が完全に塞がってからにしろ」
「承知いたしました。では、まず朝のお茶を――」
「その前に、これを持て」
俺は机の上に置いていた鉄の輪を持ち上げた。
輪に通してあるのは三本の鍵だ。食料庫、油壺を置いてある小部屋、掃除道具の棚。先代の使用人を追い出した時に回収してから、俺の机の上へ放り出したままになっていた。
ミレーヌは鍵を見た瞬間、動きを止めた。
伸びかけた右手が胸元で止まり、顔からわずかに血の気が引く。銀皿を盗んだと疑われた女にとって、物を保管する部屋の鍵など、仕事道具ではなく罪を押しつけられるための道具に見えるのだろう。
「旦那様……こちらは?」
「屋敷の鍵だ。俺が毎回食料庫を開け、油を取り出し、掃除道具を渡すのは面倒だからな。今日からお前が預かれ」
「で、ですが私はこの屋敷へ来て、まだ日も浅くございます……鍵は家令や、長く勤めた者が預かるものでは……」
「家令も、長く勤めた者も、まとめて俺が追い出した」
「それは、そうなのですが……もし中の物がなくなれば、私はまた――」
そこで言葉が止まった。
ミレーヌは鍵ではなく、その向こうにある過去を見ていた。銀皿が消えた時と同じように、知らないうちに物がなくなり、気づけば自分が盗んだことにされる。それが怖いのだ。
「だから、最初に俺と中身を数える」
「旦那様と、でございますか?」
「ああ……今日の時点で残っている物を、俺とお前の二人で紙へ書くんだ。俺が確認して印も押す。今日より前になくなった物は、お前の責任ではない。これから何かを出した時は、品と数と時刻を記録しろ。勝手に物が減ったなら、その紙を見れば分かるだろう?」
ミレーヌはしばらく俺を見ていた。
「私の言葉を……信じてくださるのですか?」
「言葉だけで決めないと言っている。お前の言葉も、他の者の言葉も、後から好きなように変えられるからな……だが、俺が確認して印を押した紙なら、勝手には変わらん」
「では……私が何も盗んでいないと、紙が残してくれるのですね……?」
「盗んだときも、残るがな」
ミレーヌの表情が固くなる前に、俺は鍵の輪を軽く鳴らした。
「勘違いするな。お前を信じることにしたわけではない。俺が楽をするには、鍵を持つ者と帳面を書く者を決めた方が早い。それだけだ」
「……はい。旦那様は、やはりひどい言い方をなさいます」
「俺は善人ではないからな」
「ですが、旦那様が記録を残してくださることは分かりました」
ミレーヌは両手を差し出した。傷の残る右手をかばいながら、落とさないよう鉄の輪を受け取る。
三本の鍵が、小さく触れ合った。
その音を聞いたミレーヌの肩が一度だけ動いた。それでも、鍵を返そうとはしなかった。
◇
最初に開けたのは食料庫だった。
扉には先代の頃から残っている乾いた香草の束が吊られている。中へ入ると、空いた棚が目についた。干し肉は帳簿より少なく、麦袋はいくつか口の結び方が違う。奥に並んだ葡萄酒も、封蝋が割れているものが三本あった。
前の使用人が出ていく時に持ち出したのか、それ以前から抜かれていたのかは分からない。どちらにせよ、今の状態を記録しなければ、次に不足が出た時も区別できない。
俺は紙を棚の上へ置き、羽根筆をミレーヌへ渡した。
「端から数えろ。俺も見る」
「私が書いてもよろしいのですか?」
「そのために連れてきたんだ……俺に全部書かせる気か?」
ミレーヌは慌てて羽根筆を受け取った。
棚を一つずつ見ながら、麦、豆、干し肉、塩、香草、油と書きつけていく。動きは慎重だが遅くはない。袋の口を見て開封済みかを確かめ、葡萄酒は封蝋の状態まで分けて記した。
「旦那様。干し肉と塩漬け魚は、古い帳面に書かれている数より少のうございます。麦袋も、封を結び直した跡があるものが二つございます。葡萄酒は三本が開封済みです」
「開いているものは来客に出すなよ?俺が飲むにしても、まず臭いを確かめろ。腹を壊すのは絶対に嫌だ」
「承知いたしました。それと、この量では麦と豆が長く持ちません。買い足す必要がございます」
「ふむ……どれくらいだ?」
「旦那様と私の二人分であれば、今の量でも数日は持ちます……ただ、干し肉は節約した方がよろしいかと。塩と油も足りませんね……」
「なら書け。俺の飯が貧しくなるものから先だ。その次に、お前の分も入れろ」
ミレーヌの筆が止まった。
「わ、私の食事もでございますか?」
「またその話か?お前を食わせずに働かせて、倒れたら誰が茶を淹れる。薬師へ払った銀貨を無駄にする気か?」
「いいえ。そのようなつもりは……」
「なら二人分で数えろ」
ミレーヌは小さく頷き、必要な麦と豆の量を書き加えた。
「端の野菜と固いパンは、私がいただきます。旦那様には新しいものを――」
「固いだけなら煮て二人で食えばいい……傷んでいるなら捨てろ。腐りかけを食って、また薬師を呼ぶことになったら余計に高くつく」
「では、傷みを確かめてから分けます」
「そうしろ」
俺が棚の奥を確認している間も、ミレーヌの筆は止まらなかった。袋の結び目や、棚板についた油染みまで見ている。前の屋敷で買い物帳を写していたと言っていたが、それだけではない。物の状態を見る癖がついている。
「よく見ているな」
思わず口にすると、ミレーヌの肩が跳ねた。
怒られた時と同じ反応だ。褒められる方が怖いのかもしれない。
「悪い意味ではない……続けろ。お前が気づかなければ、俺は封の切れた酒を飲んで腹を壊していたかもしれん」
「……ありがとうございます」
声はまだ小さい。それでも、謝らずに礼を言った。
ほんの少しだが、前よりはましになっているらしい。
◇
昼過ぎまでかけて、食料庫と油壺の小部屋、それから掃除道具の棚を確認した。
重い油壺や麦袋は俺が動かした。傷が塞がったばかりの手に持たせて、また開かれたら困るからだ。貴族の若当主が油壺を抱えて歩く姿など、外の者には絶対に見せられない。
搾取する側になるために、自分で重い物を運ぶ。
何かが間違っている。
執務室へ戻ると、ミレーヌは書き終えた三枚の紙を机へ並べた。品目、現在の数、傷んでいる物、開封済みの物、買い足す量。最後には、鍵を受け取った日付と時刻まで書いてある。
字は細いが、読みやすい。
「……これをお前が書いたのか?」
「はい……前の屋敷で、奥様の帳面を写しておりました。間違えると何度も書き直しを命じられましたので……」
「叱った者の目が悪かったな。十分使える字だ」
ミレーヌは前掛けの端を握った。
以前なら、すぐに否定するか謝っていただろう。だが今回は、少しうつむいてから、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます……!もっと見やすく書けるよう努めます」
俺は三枚の紙を確認し、それぞれの下へ印を押した。
「これで、今日より前の不足はお前の責任ではない。今後は何かを出したら、その日のうちに書けよ?俺が勝手に持ち出した時もだ」
「旦那様がお持ちになった物も、記録してよろしいのですか?」
「当然だ!主が勝手に食料を持ち出して、女中のせいにしたら記録の意味がないだろう」
ミレーヌは押された印を長く見つめた。
「前の屋敷では、何かがなくなると、帳面を見る前に私の寝床を調べられました」
「ここでは先に紙を見る。寝床を荒らす方が片づけに手間がかかる」
「……旦那様が面倒を嫌われるおかげで、私は助かります」
「お前は時々、妙なことを言うな?」
「旦那様ほどではありません」
静かな返事だった。
言ったあとで自分でも驚いたのか、ミレーヌは灰色の瞳をわずかに見開いた。すぐに叱られると思ったらしく、背筋を伸ばす。
俺は別に腹を立てなかった。
それくらいを言い返せる方が、怯えて何でも隠すより使いやすい。
「今日から、この三か所はお前の管轄だ。必要な物があれば、なくなる前に書け。俺は腹が減ってから麦がないと知るのが嫌いだ」
「承知いたしました。旦那様が楽をできるよう、責任を持ってお預かりします」
……またそれか?
俺が楽をするため、という言葉を、ミレーヌは妙な誓いのように口にする。間違ってはいない。むしろ俺が何度も言い聞かせたことだ。それなのに、本人の口から聞くと落ち着かない。
「重く考えるな……ただの鍵だぞ?」
「私には、ただの鍵ではございません」
ミレーヌは鉄の輪を胸元で包んだ。
「前の屋敷では、鍵の音が怖いものでした……何かがなくなるたび、私の寝床へ近づいてくる音でしたから……ですが、この鍵は違います。旦那様が、私に仕事を任せてくださった音です」
そんな顔で言うな……
俺はただ、食料庫を開けるたびに執務室から歩くのが嫌だっただけだ……
仕方なく、俺は咳払いをした。
「なら落とすな。なくしたら本当に叱るからな」
「はい!叱られないためだけではなく、この屋敷を回すために守ります!」
ミレーヌはそう言って、初めて自分から少しだけ笑った。
まだ薄い笑みだ。けれど、雇い所で見た空っぽな顔でも、怪我を隠していた時の怯えた顔でもない。鍵の重さを知った上で、それでも持つと決めた者の顔だった。
俺は窓の外へ目を向けた。
屋敷はまだ広く、人手も足りない。領地の帳簿は手つかずで、食料庫の中身も少ない。俺が望む酒と肉に囲まれた暮らしなど、影すら見えていない。
それでも、三本の鍵がミレーヌの腰で鳴るだけで、少しだけ屋敷が動き始めた気がした。
「明日は市場へ行くぞ。俺の飯と、お前の飯を買う」
ミレーヌは鍵を胸に抱えたまま、深く頭を下げた。
「はい、旦那様……今の在庫と予算を見て、必ず良いものを選びます」
その声はもう、捨てられないためだけのものではなかった。




