第3話 白髪のメイド、叱られて救われる
ミレーヌは、窓のある部屋で眠ったことがなかった。
東の部屋は広くない。壁は古く、寝台も上等とは言えず、机の脚は少しだけ傾いている。それでも、朝になると薄い光が窓から入り、床の木目を白く照らした。夜の間、扉の外で誰かの足音に怯えなくていい。厨の隅で丸くなって眠り、火の番をしながら目を閉じて、少しでも寝過ごせば水をかけられる。そういう夜とは、まるで違っていた。
けれど、柔らかい寝台は怖かった。
こんな場所を与えられていいはずがない。そう思うと、身体に力が入って眠れない。包帯を巻かれた右手を胸に置き、ミレーヌは何度も目を開けた。旦那様は休めと命じた。厨に入るなとも命じた。けれど、何もしないメイドなど、役に立たない道具と同じだ。前の屋敷では、そう教えられてきた。
銀皿を盗んだのは、ミレーヌではなかった。
奥様のお気に入りだった年上の侍女が、客間から銀皿を一枚持ち出した。裏口に出入りしていた商人へ渡すつもりだったのだろう。けれど、たまたま近くにいたミレーヌが銀皿の入った布包みを見てしまった。白髪だから目立つ。口数が少ないから言い返さない。身寄りもない。罪を着せるには、ちょうどよかったのだと思う。
それから先は早かった。
銀皿泥棒。手癖の悪い娘。陰気で、不吉な白髪の娘。そう呼ばれるうちに、名前はほとんど使われなくなった。熱を出しても、働け。指を切っても、布を巻け。泣けば、余計に怒られる。謝って、ようやく一日が終わる。
だから昨日、欠けた包丁で指を切った時、ミレーヌは迷わず隠した。痛みより先に、追い出されると思ったから……。
せっかく拾っていただいたのに。せっかく、部屋と食事と給金まで約束していただいたのに。こんなことで役立たずだと思われたら、今度こそ行く場所がなくなる。そう考えると、傷口から血が出ていることより、旦那様に知られる方が怖かった。
なのに、ヴェイン様は怒った。
怪我をしたことではなく、隠したことを怒った。
「人の手は勝手に直る道具じゃない。お前の手は、この屋敷を回すために必要な手だ。粗末に扱うな」
あの言葉が、夜の間ずっと耳から離れなかった。
必要な手。
ミレーヌは包帯の上から、自分の右手をそっと包んだ。前の屋敷では、この手は遅い手だった。失敗する手だった。銀皿を盗んだことにされた手で、叩かれ、押さえつけられ、罰として冷たい水に沈められた手だった。
けれど、旦那様は必要だと言った。
それが、どれほど恐ろしいことか、ミレーヌには分かっていた。必要とされるのは嬉しい。けれど、必要でなくなった瞬間に捨てられるのではないかと思うと、胸の奥が冷えた。だから、もっと働かなければならない。休めと命じられた日でも、せめて左手でできることくらいはしなければ。
ミレーヌは寝台から降り、包帯を濡らさないように右手を胸へ寄せた。床板が少し鳴る。朝の屋敷は静かだった。先代からの使用人たちがいなくなった屋敷は、広すぎるくらい静かで、まだ息をしていない建物のように感じる。
その静けさが、ミレーヌには少しだけ優しかった。
◇
厨の水瓶には、昨日のうちに汲んでおいた水が残っていた。
右手を使わなければ大丈夫。そう思って、ミレーヌは左手だけで小鍋を持ち上げた。火打ち石を使う時だけ少し苦労したが、炎はすぐに炉の底へ移った。湯を沸かし、茶葉を量る。片手でもできる。少し遅いだけで、できないわけではない。
旦那様は昨日、淹れるなと命じた。
けれど、旦那様は朝の茶を楽しみにされていた。銀髪の悪人顔で、いつも不機嫌そうに眉を寄せているのに、昨日の朝に茶を飲んだ時だけ、ほんの少し目元が緩んだ。褒めてくださった。「茶は悪くない」と。前の屋敷なら、一日分の痛みを忘れられるほどの言葉だった。
だから、今朝も淹れたかった。
恩に報いるためではない。捨てられないためでもある。ミレーヌは自分にそう言い聞かせた。胸の奥が温かくなる理由を、まだ信じるのが怖かった。
湯気が立ち始めた時、背後から低い声がした。
「……何をしている?」
小鍋を落としかけた。ミレーヌは慌てて左手で柄を握り直し、右手を庇いながら振り返った。
扉のところにヴェイン様が立っていた。寝起きの銀髪は少し乱れている。それでも顔立ちは整っていて、朝の薄暗い厨に立つと妙な迫力がある。目つきは悪い。口元も不機嫌そうに結ばれている。けれど、その視線は小鍋ではなく、ミレーヌの包帯へ真っ直ぐ向いていた。
「旦那様、お目覚めでしたか。すぐにお茶を――」
「淹れるなと言ったはずだが」
その声に、ミレーヌは喉の奥が細くなるのを感じた。怒らせてしまった。やはり、命令に背いたのがいけなかったのだ。前の屋敷なら、この時点で頬を打たれている。言い訳をすればさらに重くなる。だから、ミレーヌは頭を下げた。
「申し訳ございません。片手でもできると思い、旦那様の朝を乱してはならないと考えました。火も水も、包帯には触れさせておりません」
「そういう問題ではない」
ヴェイン様は厨へ入り、火のそばに置かれた小鍋を見た。次に、左手だけで茶器を並べた盆を見る。その眉間の皺が深くなる。
「あのな、ミレーヌ。俺はお前に休めと命じた。休めと言われた者が勝手に動けば、次に命じる時に俺が余計な言葉を使わねばならん。面倒だ。命令は一度で通せ」
「はい……申し訳ございません」
「謝り方も違う。怪我をした手で無理に働けば、治らない。治りが遅れれば、使えるようになるまで日がかかる。つまり俺が損をする。分かるか?」
ミレーヌは顔を上げられなかった。
言葉は冷たい。冷たいはずなのに、そこには前の屋敷で聞いた怒鳴り声とは違うものがあった。役立たずだから怒っているのではない。傷を悪くするなと怒っている。働けないことではなく、働こうとすることを叱っている。
そんな叱られ方を、ミレーヌは知らなかった。
「旦那様は……私が働けないと、お困りになるのですか……?」
「当たり前だろう。お前を雇ったのは、俺が楽をするためだ。茶も、掃除も、寝台も、いずれは屋敷の細々したことも、お前に押しつけるつもりでいる。それなのに初日で手を悪くされたら、俺の計画が台無しになる」
ヴェイン様は当然のように言った。ひどい言葉のはずだった。働かせるため。楽をするため。押しつけるため。普通なら、怖がるべきなのだと思う。
けれど、ミレーヌの胸は痛いほど熱くなった。
それは、捨てる者の言葉ではなかった。少なくとも、明日にはいなくなっても構わない者へ向ける言葉ではない。茶も、掃除も、寝台も、いずれは屋敷のことも。そんな先の話に、ミレーヌの手が入っている。
「……私を、長く置いてくださるおつもりなのですか?」
ヴェイン様の目つきがさらに悪くなった。
「短く置くために、部屋と給金と治療代を出す馬鹿がどこにいる」
その瞬間、ミレーヌはこらえきれずに唇を噛んだ。
泣くな。泣けば面倒だと思われる。泣く女中は嫌われる。そう教えられてきた。けれど、目の奥が熱かった。前の屋敷で何度謝っても得られなかった言葉が、この悪人顔の若い貴族から、乱暴に投げられている。
長く置く。
たったそれだけのことが、ミレーヌには居場所の名に聞こえた。
「泣くな。泣かれると俺が悪いみたいだろうが」
「申し訳、ございません……泣いては、おりません」
「声が震えている。強情を張るなら、せめてもう少し上手くやれ」
ヴェイン様はそう言って、火から小鍋を下ろした。貴族の手が、厨の道具に触れる。ミレーヌは思わず止めようとしたが、視線だけで黙らされた。銀髪の悪人顔は、静かな命令に向いていた。
「今日は俺が適当に飲む。お前は部屋へ戻れ。茶器を片づけるのも禁止だ。明日、薬師が包帯を替えてから許す」
「ですが、旦那様のお茶が」
「一日まずい茶を飲んでも死なん。むしろ、お前が無理をして三日働けなくなる方が損だ」
損。
その言葉に、ミレーヌは少しだけ救われた。優しさだと言われたら怖い。慈悲だと言われたら、いつか消えるものだと思ってしまう。けれど、損だから休めと言われると、なぜか信じられた。ヴェイン様は、自分に得があるかどうかを隠さない。その分、嘘が少ない。
少なくとも、前の屋敷の者たちのように、笑顔で手を踏む人ではない。
ミレーヌは深く頭を下げた。
「旦那様。私は、必ず早く治します。旦那様が楽をなさるために、この屋敷をきちんと回せるようになります」
「……妙な忠誠に育っていないか、それは」
「いいえ。旦那様のお言葉通りです」
ヴェイン様は何か言いたげに口を開き、やめた。ミレーヌはその沈黙を、初めて少しだけ怖いと思わなかった。
◇
部屋へ戻されてから、ミレーヌは窓辺の椅子に座った。
包帯を巻いた右手を膝に置く。朝の光が白い髪を照らし、床に淡い影が落ちる。手を休ませているのに、胸の中だけは忙しく動いていた。
旦那様は善人ではないとおっしゃる。
自分が楽をするために雇ったのだと、何度もおっしゃる。たしかに、その言葉だけを聞けば、優しい主ではないのかもしれない。顔も怖い。目つきも悪い。怒る時の声は低く、笑うときっと悪いことを考えているように見える。
けれど、ミレーヌは知ってしまった。
あの方は、怪我をした手を見て、まず治療を命じた。治療費をこちらが出すと言った。血を流した手で働くなと叱った。窓のある部屋で眠れと命じた。涙を嫌がりながらも、泣いたことではなく無理をしたことを咎めた。
もしそれが全部、旦那様が楽をするためだとしても。
その楽の中に、自分が長く働く未来が入っているのなら、ミレーヌにとっては十分すぎるほどだった。
前の屋敷で失くしたものは、すぐには戻らない。声を荒げられれば身体は固くなるし、皿の音がすれば胸が詰まる。役に立たなければ捨てられると思う癖も、きっと簡単には消えない。
それでも、今日は違うことを一つ覚えた。
ここでは、怪我を隠さなくていい。
その事実が、包帯の下でじんわりと温かかった。
扉の外から、食堂の方で小さな物音がした。おそらく旦那様が茶器を扱っている。貴族の方が一人で茶を淹れるなど、本来ならあってはならない。きっと酷い味になる。ミレーヌはそう思い、ほんの少しだけ口元を緩めた。
明日は、必ず美味しい茶を淹れよう。
それは怖くて働くためではなかった。
ヴェイン様が、悪い顔で「悪くない」と言うところを、もう一度見たいと思ったからだった。




