第2話 悪役貴族、怪我を隠したメイドに怒る
屋敷へ戻る道すがら、ミレーヌは一度も俺の半歩後ろから離れなかった。
雇い所から屋敷までは、二人で歩くしかない。御者もいない。馬車を出せる使用人も、昨日まとめて追い出した。自分でやったこととはいえ、若当主が雇ったばかりの女中を連れて徒歩で帰るというのは、なかなか情けない。俺の酒池肉林は、出だしからだいぶ遠かった。
隣ではなく、半歩後ろ。向かいでもなく、横でもない。白髪の少女は契約書を両手で抱えたまま、俺の足音に合わせるように小さく歩いていた。白いボブの髪が頬にかかり、灰色の瞳はずっと紙へ落ちている。俺の顔を見ない。見たら契約が取り消されるとでも思っているような態度だった。
ーーまあ、分からなくはない……
ラズグリム家は領内でも評判が悪い。先代の頃から税は重く、屋敷の者は威張り散らし、俺は銀髪の悪人顔だ。しかも昨日、父の代からいた使用人をまとめて追い出したばかり。そんな男に雇われた女中が怯えるのは当然だろう。
だが、怯えられすぎるのも面倒だ。
怯えた奉公人は、失敗を隠す。隠した失敗は腐る。腐った失敗は、最後に主の机へ置かれる。前世の勤め先で、俺はそれを嫌というほど見た。下の者が言えなかったことを、上の者が知らなかったと言い張り、結局まともに動いていた人間だけが潰れる。あんなものを屋敷で繰り返してたまるか。
「ミレーヌ」
「はい、旦那様」
返事が早い。早すぎる。声が震えているのに、反射だけは仕込まれていた。
「お前の部屋は二階の東側だ。小さいが窓がある。前の家で何をさせられていたかは知らんが、うちでは厨の隅や物置で寝るな。湿った場所で寝ると病む。病まれると困る」
ミレーヌは契約書を抱える指に力を込めた。
「……私のような者に、窓のある部屋をいただけるのですか?」
「窓くらいで大げさに言うな。朝になったかどうか分からん部屋で眠らせたら、起こす手間が増えるだろうが。俺は朝から人を探して歩きたくない」
ひどい言い方だと思った。実際ひどい。だが俺の本音でもある。朝に茶を淹れるはずの女中が暗い部屋で倒れていたら、俺の一日が終わる。そんな損は避けるべきだ。
ミレーヌは少しだけ口を開き、何かを言いかけてやめた。礼を言いたかったのかもしれない。だが、礼を言うには受け取ったものが大きすぎて、言葉が追いつかない顔だった。
困る。
俺はただ、楽をするための人員を整えているだけだ。
◇
屋敷に着くと、ミレーヌはすぐに働き始めた。俺は最初、部屋と厨の場所だけ教え、今日は湯を沸かして茶を淹れ、寝台の埃を払えばいいと言った。だが彼女は、茶器を洗い、食器棚を拭き、広間の床まで磨き始めた。白い髪を後ろで軽く結び、細い腕で水桶を運ぶ姿は、見ている分には悪くない。顔で選んだ判断は間違っていなかった。
ただ、働きすぎだ。
「おい、ミレーヌ。誰が広間まで磨けと言った」
「旦那様がお休みになる前に、せめて歩く場所だけでも整えようと……」
「俺が言ったのは茶と寝台だ。勝手に仕事を増やすな。倒れたら明日の茶は誰が淹れる」
ミレーヌは布巾を握ったまま、申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ございません。すぐに終わらせます」
「終わらせろと言っていない。やめろと言っている」
この違いが、彼女には通じていないらしい。ミレーヌは怒られた犬のように肩を縮めた。前の屋敷では、仕事をしなければ叱られ、勝手に仕事をしても叱られ、結局何をしても叱られていたのだろう。そういう者は、命じられた量ではなく、倒れるまでを仕事だと思い込む。
厄介だ。
顔がいいだけの女中なら飾りにすればいいが、こういう働き方をする者は放っておくと本当に壊れる。壊れたら、また雇い所へ行き、顔がよく、手癖が悪くなく、所作のいい女中を探さなければならない。手間がかかりすぎる。
「今日はもう寝ろ。東の部屋だ。寝台の藁が古ければ明日替えさせる」
「まだ灯りの油皿を――」
「俺が暗くて転んだら、お前のせいにするぞ」
そう言うと、ミレーヌははっとして布巾を置いた。脅しの使い方としては少しずるい。けれど、彼女には休めと言うより、俺が困ると言った方が効くらしい。
◇
翌朝、俺は茶の匂いで目を覚ました。
寝台の上でしばらく天井を見つめる。悪くない。いや、かなり良い。前世では朝の鐘より先に胃が痛み、上役の顔を思い出して目が覚めた。今は違う。薄い掛け布の向こうに朝日があり、扉の外には湯気の立つ茶がある。
これだ。
俺が求めていたものは、これだ。人に働かせ、自分は寝台で目を覚ます。ようやく搾取する側の暮らしが始まった気がした。
だが、扉を開けた瞬間、その気分は少しだけ冷えた。
廊下は昨日より明らかに整っていた。燭台の煤は落とされ、床の埃も少ない。食堂へ向かうと、机の上には焼き直したパンと薄い肉、香草を浮かべた湯が用意されている。ミレーヌはその横に立ち、昨日より少しだけ顔色を悪くしていた。
「……いつから起きている」
「夜明け前でございます。旦那様が起きられる前に、厨を使えるようにしておきたくて」
「夜明け前?」
声が低くなった。ミレーヌの肩が揺れる。怒られると思ったのだろう。実際、俺は怒っていた。だが理由が違う。俺が命じていない仕事を勝手に増やし、勝手に疲れ、勝手に倒れられたら困るのだ。
俺は椅子に座り、茶を一口飲んだ。昨日の水っぽい湯よりはずっとましだった。悔しいが、腕はいい。
「茶は悪くない。パンも昨日より食える」
ミレーヌの目が、ほんの少しだけ開いた。
褒められることに慣れていない顔だった。
「ありがとうございます。旦那様のお口に合いましたなら、何よりでございます」
「だからといって夜明け前から全部やるな。屋敷は逃げん。埃も一日で人を殺すわけではない」
「ですが、私は雇っていただいたばかりですので、早くお役に立たねば――」
そこで、彼女の手元から赤い雫が落ちた。
床に、小さく血が散った。
ミレーヌは反射的に手を後ろへ隠した。その動きがあまりにも速く、慣れすぎていて、俺の胸の奥に嫌なものが残った。
「手を見せろ」
「いえ、大した傷ではございません。すぐに布で押さえます。仕事には戻れますので」
「手を見せろと言った」
ミレーヌは青ざめたまま、ゆっくり右手を出した。白い指の付け根が切れている。深手ではないが、刃物でやった傷だ。たぶん錆びた小刀か、欠けた皿で切ったのだろう。布で押さえた跡があった。つまり、怪我をしてからしばらく隠していた。
腹が立った。
こいつ自身に、というより、そうするのが当たり前だと思わせた前の屋敷に腹が立った。だが、今ここでそれを口にすると、俺が優しい主みたいになる。それは困る。俺は善人ではない。俺はただ、自分の暮らしを支える手を勝手に傷物にされたことが気に入らないだけだ。
「何をしている。今すぐ治療しろ」
「申し訳ございません。ですが、治療となりますと薬師代が……給金から引いていただければ」
「あほか」
ミレーヌが息を止めた。
俺は椅子を引いて立ち上がり、彼女の手首を掴まないよう袖の端だけを持ち上げて傷を見る。血はまだ滲んでいる。汚れも少し入っていた。放っておけば腫れる。腫れれば水仕事ができない。水仕事ができなければ、俺の茶も飯も寝台も止まる。
「屋敷の仕事中に負った傷だろうが。治療費はこちらが出すに決まっている。お前の給金から引いてどうする。怪我した上に銭まで減ったら、働く気が落ちるだろ」
ミレーヌは何を言われたのか分からない顔をした。灰色の瞳が揺れ、唇が小さく震える。叱られる準備をしていたのに、別の方向から殴られたような顔だった。
「私は……叱られないのですか」
「叱っている。怪我を隠すなと言っているんだ。血を流した手で俺の杯に触れるな。傷が悪くなれば、お前は休むことになる。お前が休めば、俺の朝が乱れる……つまり迷惑だ」
「はい……申し訳ございません」
謝り方が違う。まだ自分が傷を負ったことを悪いと思っている。俺は額に手を当てた。面倒だ。人一人をまともに使うには、仕事より先に癖を直さなければならないらしい。
「違う。怪我をしたことではなく、隠したことを謝れ。人の手は勝手に治る道具じゃない。お前の手は、この屋敷を回すために必要な手だ。粗末に扱うな」
ミレーヌの顔がくしゃりと歪みかけた。けれど、泣かなかった。泣くことまで我慢しているのが分かって、余計に扱いに困る。
俺は呼び鈴を鳴らそうとして、使用人がいないことを思い出した。そうだった。全員切ったのは俺だ。仕方なく外套を掴み、ミレーヌへ向けて顎をしゃくる。
「薬師のところへ行くぞ。歩けるな」
「旦那様が、私を連れて行かれるのですか」
「他に誰がいる。御者もいない。次に雇うまで、俺が歩く羽目になる。まったく、搾取するにも人手が足りん」
愚痴を吐きながら扉へ向かうと、ミレーヌは傷ついた手を胸に寄せてついてきた。足取りはまだ遠慮がちだが、昨日とは少し違う。怯えだけではない。何かを信じたいのに、信じて裏切られるのが怖い。そんな歩き方だった。
◇
薬師に傷を洗わせ、薬を塗らせ、包帯を巻かせた。銀貨を払う時、ミレーヌがまた何か言いたそうにしたので、俺は先に睨んだ。銀髪の悪人顔は、こういう時だけ便利だ。彼女は口を閉じた。
屋敷へ戻ると、俺はミレーヌに茶も掃除も禁じた。
「今日は水仕事をするな。包帯を濡らすな。厨には入るな」
「ですが、それでは旦那様のお食事が」
「昨日の固いパンでも死なん。俺を飢え死にさせるつもりなら別だがな」
「そんなこと、いたしません……!」
「なら休め。これは命令だ」
命令と言えば、彼女は従う。なら最初からそうすればよかった。休めと言われて休めない者には、休むことを命じればいい。俺はまた一つ、搾取のための知恵を得た。
ミレーヌは東の部屋の前で足を止めた。窓のある小さな部屋だ。朝の光が入り、古い寝台と木机だけが置かれている。豪華ではない。だが彼女は、その部屋を見てしばらく動かなかった。
「旦那様」
「何だ?今度は部屋が広すぎるとでも言うのか」
「いえ……私、ここでなら、怪我をした時に報告できます」
その言葉は静かだった。
だが、契約書を抱えた昨日よりも、ずっと深く俺の耳に残った。
俺は返事に困った。感謝されるようなことはしていない。怪我を隠されると俺が困るから治した。休ませた方が長く使えるから休ませる。それだけだ。なのに、ミレーヌは白い髪を揺らし、包帯を巻かれた手を大事そうに胸へ寄せている。
まるで、自分の手が初めて自分のものになったみたいに。
「勘違いするなよ?お前が動けなくなると、俺が働く羽目になるからな。それが嫌なだけだ」
「はい。旦那様が楽をされるために、私は早く治します」
「……分かっているならいい」
どうも違う方向に伝わっている気がした。
ミレーヌは部屋に入る前、一度だけ振り返った。灰色の瞳にはまだ不安が残っている。だが、その奥に小さな火が灯っていた。
「旦那様。明日の朝は、片手でも茶を淹れられます」
「淹れるな。命令を増やすぞ」
彼女はそこで、ほんの少しだけ笑った。
本当に小さな笑みだった。見逃してもおかしくないほど薄い。だが昨日、雇い所でうつむいていた白髪の少女とは違う顔だった。
俺は扉が閉まるのを見届け、廊下に一人残された。酒池肉林の夢はまだ遠い。美人のメイドを雇ったはずなのに、初日にやったことは茶を運ばせることではなく、怪我の治療と休養命令だ。
搾取するというのも、思ったより手間がかかる。
だが、まあ……明日の茶は、少し楽しみだった。
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