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第1話 悪役貴族、まず腐った屋敷を切る

父が死んだ。


そう聞かされた時、俺は泣けなかった……親子の情が薄かったからではない。目を開けた時にはもう、俺はヴェイン・ラズグリムという悪役貴族の息子になっていて、棺の前に立たされていたからだ。


銀の髪が肩にかかる。鏡に映った顔は、腹が立つほど整っていた。だが、目つきが悪い……口元も悪い……黙っていれば冷たい貴公子で済むのに、少し笑うだけで人を奈落に突き落とす算段でも考えていそうに見える。


いいじゃないか……!


前世では、俺は使われる側だった……朝から晩まで働かされ、夜になっても帰れず、笑顔で頭を下げ、上の者が投げた失敗まで抱え込んだ。ようやく死んだと思ったら、今度は貴族の家に生まれ直している……しかも父が死に、屋敷と領地は俺のものだ。


ーーなら、今度は俺が搾取する側だ……!


大きな寝台、温かい酒、柔らかい肉、顔のいい女たちに世話を焼かれ、面倒な仕事は全部下に投げる。前世で奪われた分、今度こそ取り返す!そう決めた瞬間だけは、棺の前でも少しだけ胸が軽くなった。


だが、現実は俺に優しくなかった……父の葬儀が終わって三日。俺は執務室の机に積まれた帳簿を見下ろし、額に指を押し当てていた。


「……おい」


部屋の隅に立つ家令が、ゆっくりと顔を上げる。灰色の髭を整え、腹だけがやけに出た男だ。名はバルド。先代から仕える古株らしいが、その目には忠義よりも、若造を値踏みする色の方が濃かった。


「はい、若旦那様」


「この食料庫の支出は何だ?父の病床に用意した薬代より、宴の葡萄酒代の方が三倍高い。父は薬ではなく酒で治そうとしていたのか?」


バルドの頬がわずかに動いた。


「先代様の御意向にございます。お客人を迎えることも多く――」


「父は半年、寝台から起きられなかったと聞いたが?」


俺が帳簿を閉じると、革表紙の音が部屋に落ちた。バルドの後ろにいた侍女が肩を揺らす。年配の料理番は目を伏せ、庭番は窓の外を見た。誰も驚いていない。つまり、全員知っていた。


ーーああ、見たことがある。


前世の務め先にも、こういう者たちはわらわらといた……偉い者が倒れると、下にいた連中が勝手に棚を漁り、金を抜き、責任だけ新しく来た者へ押しつける……古株という名の腐った根だ……放っておけば、こいつらの腐り汁を俺が浴びることになる。


冗談じゃない!


俺は楽をしたいのであって、腐った屋敷の尻拭いをしたいわけではない。


「鍵を今すぐ出せ」


「鍵……でございますか?」


「食料庫、銀器室、薬棚、馬小屋、帳簿棚。全部だ。」


バルドの目が細くなる。若い当主が少し強く出れば、向こうは慣れた顔でなだめに来るだろうな……そういう間合いだった。だが、俺は父ではないからな?病で弱り、周囲に囲まれ、言いなりにされた男ではない……


「若旦那様……屋敷には屋敷の流れがございます。先代様の頃から――」


「先代はもう死んだ」


声を荒げたわけではない。だが、侍女の唇から小さく息が漏れた。


「そして今、ここで金を抜かれているのは俺の屋敷だ……俺の金庫だ……俺の食料庫だ……お前たちの懐ではない」


バルドの顔から、ようやく笑みが消えた。


俺は机の上に三枚の紙を並べる。食料庫の出入り。馬の飼料。父の薬の記録。どれも数字が合っていない。丁寧に隠したつもりだろうが、甘い。前世で俺は、上の者が隠した失敗を何度も拾わされた。嫌でも紙の綻びだけは見えるようになったのだ。


「今日で全員、屋敷を出ろ」


部屋の空気が止まった。


「……ぜ、全員でございますか……?」


「ああ。お前たち全員だ。今月分の給金は払う……父の代の者として、銀貨二枚ずつ上乗せもしてやる。だが、盗んだ分は返せ。返せない者は、領都の役所へ連れていく」


「横暴でございます! 我らは先代様に長く仕え――」


「長く仕えた結果がこれか?なら短い方がまだましだな」


バルドの顔が赤くなる。侍女の一人が泣き出した。料理番は膝をつき、庭番は舌打ちを隠せなかった。俺はそれを見ても胸が痛まなかった。痛むほどの余裕がなかった、と言った方が近い。


こいつらを残したら、俺が働く羽目になる……


それだけは絶対に嫌だ。


「出ていけ。俺は善人じゃない……俺の屋敷で俺に損をさせる者を飼う趣味はない」


そう言った瞬間、彼らの目に恐怖が宿った。冷酷な若当主。先代の家臣をまとめて追い出した悪役貴族。噂にするにはちょうどいい。


だが、俺は構わなかった。悪名ならもう顔についている。銀髪で、目つきが悪く、笑えば悪だくみ顔。使えるものは使う。搾れるものは搾る。そのためには、まず腐った連中を切らなければならない。



その夜、俺は冷えたパンをかじっていた。


「……まずい」


広すぎる食堂に俺一人。燭台の火は半分消え、皿は傾き、スープはぬるい。使用人を全員追い出した結果、屋敷は見事に止まった。朝の茶も出ない。風呂も沸かない。暖炉の灰も片づかない。


俺は銀の匙を置き、天井を見上げた。


「待て……これでは俺が働くことになる」


それは困る……かなり困る……俺の夢は酒池肉林であって、皿洗いではない!父の屋敷を継いだ初日から厨房で鍋を磨く悪役貴族など、情けなさすぎて泣けてくる……


だから翌朝、俺は馬車を出させず、自分で領都の雇い所へ向かった。馬車を出す御者も追い出したからだ。早くも搾取する側の生活に暗雲が漂っている。


雇い所は古い石造りの建物で、入口の扉は片方だけ歪んでいた。中には職を失った者、奉公先を探す者、雇い主に捨てられた者が詰め込まれている。貴族の俺が入った瞬間、声が落ちた。


ーーまあ、当然だ。


ラズグリム家の若当主が、先代の使用人を一晩で全員追い出した。噂はもう走っているらしい。俺を見る目は、誰もが同じだった。冷酷な悪役を見る目だ。


かまわん……


むしろ都合がいい……怖がられるくらいでちょうどいいだろう。甘く見られると、また家令のような者が湧くだけだからな。


「住み込みの女中を一人雇う。掃除、洗濯、簡単な給仕ができる者……なるべく若く、顔がよく、手癖が悪くない者がいい」


受付の男が固まった。


「……旦那様、ずいぶん正直におっしゃいますな」


「毎日顔を合わせる相手だぞ?顔が悪いより良い方がいいに決まっている!腕がよくても、朝から辛気臭い顔を見せられたら酒がまずくなるだけだ」


言ってから、さすがに下品だったかと思った。だが本音だ。前世で散々、怒鳴る上役の顔を拝まされたのだ。せめて今世の朝くらい、見目のいい者に茶を運ばれたい。


受付の男は乾いた笑みを浮かべ、奥へ声をかけた。


しばらくして、一人の少女が出てきた。


白い美しい髪だった。肩に届かないくらいのボブで、切りそろえた毛先が頬にかかっている。肌は薄く、顔立ちは人形みたいに整っていた。だが綺麗というより、壊れ物を棚の奥にしまっていたような危うさがある。灰色の瞳は俺を見てすぐに伏せられ、両手は古い前掛けの端を握っていた。


「……ミレーヌと申します」


声は小さい。だが、礼の角度は正確だった。指先の動きも悪くない。服は古いが、襟元だけはきちんと整えられている。前の奉公先で癖になるほど叩き込まれたのだろう。


顔はいい。所作もいい。おまけに評判が傷ついているなら、安く雇える。


悪くない。俺の搾取生活、一人目としては上出来だ。


「なぜ前の屋敷を出た?」


ミレーヌの肩が小さく跳ねた。


「客間の銀皿が一枚なくなり、私が盗んだと疑われました。そのほかにも、幾つか行き届かない点がありましたので……」


嘘ではないな……


だが全部でもない。こういう言い方をする者は、だいたい自分の罪だけを大きく言う。前世でも、押しつけられた失敗を自分のせいにして謝る者を何人も見た。そういう者は使える……責任感があるからだ。だが放っておくと、勝手に潰れるがな。


潰れたら困る……


教育の手間が無駄になる。


「給金は月に銀貨六枚……住み込みの部屋を与える。食事は朝夕、昼は仕事次第だが厨房から取れ。休みは七日に一度。制服はこちらで用意する。仕事中の怪我は屋敷持ちで治す。夜の呼び出しは、火事か病人か盗人が出た時だけだ」


受付の男が目を丸くした。訳ありの女中に出す条件としては、安くないのかもしれない。だが、前の古株どもに抜かれていた金に比べれば軽い。人一人をまともに働かせるには、倒れないだけの飯と寝床と金がいる。それを削って潰されたら、また俺が探しに来る羽目になるだけだ。


ミレーヌが顔を上げた。


灰色の瞳が、はっきり揺れていた。


「……旦那様。今、なんと……?」


「一度で覚えろとは言わん。紙に書かせる。後で揉めると面倒だからな」


「いえ、そうではなく……私に、部屋と食事を?」


「あたりまえだ。住み込みなのに寝床がなければどこで寝る……馬小屋か? そんなことをしたら、病で倒れるだろうが」


ミレーヌの唇が震えた。泣くのかと思ったが、彼女は必死に堪えた。前の屋敷で泣くことも禁じられていたのかもしれない。面倒な傷を持っている。だが、顔はいい。動きもいい。何より、逃げ場所がない者は雇いやすい。


俺は契約書へ署名した。


「勘違いするなよ、ミレーヌ。俺は善人じゃない。お前には、俺が楽をするために働いてもらう。茶を淹れ、部屋を整え、俺が何もしなくても屋敷が回るようにしろ」


「……はい」


「返事が小さい。できるのか?」


ミレーヌは契約書を胸に抱えた。白い髪が揺れ、伏せていた目がほんの少しだけ上がる。


「できます!……いいえ、必ずいたします。私を、人として雇ってくださるのなら」


その言葉は、俺の予想よりずっと重かった。


俺はただ、安く使える顔のいい女中を拾ったつもりだった。なのにミレーヌは、まるで捨てられた命を拾われたみたいな顔をしている。


やめろ……そういう目で見るな。


俺は酒池肉林のために雇っているんだ。優しい領主になるつもりなど、これっぽっちもない。


「……屋敷に戻るぞ。まず湯を沸かせ。昨日のパンは固すぎた」


「はい、旦那様」


ミレーヌは深く頭を下げた。


その声には、さっきまでなかった熱が少しだけ混じっていた。


俺の楽な暮らしの第一歩は、なぜか雇ったばかりの白髪のメイドを泣かせかけるところから始まった。

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