第13話 悪役貴族、才女を一か月使い倒す
クラリスを正式に雇ってから、一か月が過ぎた。今では執務室の紙を見るだけで、俺が触る必要があるかどうか分かるようになっている。
赤い紐は俺の印が必要なもの。青はクラリスが調べてから回してくるもの。何も結ばれていない束は、返書までクラリスに任せてある。最初に見た時は、どれもこれも同じ紙にしか見えなかった。それが今では、俺の机まで来る量そのものが減っていた。
素晴らしい。
「ヴェイン。朝からその顔で笑わないでくれる? 何か悪いことを考えてるようにしか見えないから」
自分の机から、クラリスが三枚だけ紙を持ってきた。
古宿にいた頃より顔色はかなり戻っている。食事を出して、部屋を与えて、働く場所まで用意したんだ。当然、このくらい元気になってもらわなければ困る。
「悪いことじゃない。今日は三枚しかないことに感動してるんだ」
「その三枚はちゃんと読んで!残りは私だけで処理できるけど、これはあんたの印が要るから」
「全部任せてもいいぞ?」
「嫌よ!私一人の判断で金を動かさないって決めたでしょう? せっかく決めたことを、雇い主の方から壊さないで」
もっともな意見だった。俺は長椅子から身体を起こし、渋々紙を受け取る。一枚目は村へ貸した種麦について。二枚目は徴収を遅らせた村からの報告。最後は共同倉の屋根を直すための支払いだ。以前なら、それぞれに何枚も紙がくっついていただろう。今は必要なことだけ横に書いてある。
「これでいい。倉の方も払って構わん」
「じゃあ今日中に返しておくわ。それと、種麦を貸した村は今のところ問題なし……秋に一度だけ様子を見れば十分だと思う」
「さすがだな、クラリス。この一か月で俺が読む紙がかなり減った」
「領地が少しずつ回り始めたことより、そっちを先に喜ぶのね」
「結果は同じだろ?領地が回れば、俺の仕事が減る」
クラリスは呆れたように紙を取り返したものの、少しだけ口元が緩んでいた。一か月も一緒に働けば、こいつも俺がどういう人間か分かってきたらしい。
「旦那様、お茶のおかわりをお持ちしました」
ミレーヌが入ってくる。
俺の茶を置いたあと、今度は当然のようにクラリスの机にも杯を置いた。
「クラリスさん、昼食の用意もできています。そちらが終わりましたら食堂へお願いします」
「分かったわ。この返書だけ書いたら行く」
「その返事をすると、いつも三枚ほど増えますので、先に食事をお願いしますね?」
クラリスの羽根筆が止まった。
「……ミレーヌ、最近ちょっと強くなったわよね?」
「クラリスさんが、仕事は溜めない方がよいと教えてくださいましたので」
「それを私に使うの?」
二人で勝手にやってくれ……少なくとも俺には被害がない。むしろ俺が何も言わなくても、屋敷の中で勝手に話が回るようになってきている。それが一番ありがたかった。
◇
昼を過ぎた頃、クラリスはいつもの領地の帳簿ではなく、古い紙を自分の机いっぱいに広げ始めた。食料庫の帳面からエルフォード家の名前を見つけて以来、空いた時間に少しずつ調べていたものだ。
俺としては急がなくてもいいと思っていたが、本人はそうでもないらしい。
「まだやってたのか?」
「気になるもの……数字が変なのに、途中で放っておけるわけないでしょう」
「俺なら放っておけるぞ?」
「知ってるわよ!」
クラリスは呆れながら、一枚の控えを俺の方へ向けた。
「ねぇ、ここを見て。先代の頃、ラズグリム家から麦を出して、エルフォード家と繋がりのある商人を通した取引。代金はこの数で動いてる」
指先が次の紙へ移る。
「でも、こっちの倉に残ってる受け取りの記録だと、入った麦が少ない。全部じゃないけど、同じようなズレが何度かあるわ」
「途中で盗まれたんじゃないのか?」
「その可能性もある……でも、そのたびに帳面の方では合ってることになってるのよ。誰かが足りない分を別の数字で埋めてる」
ふむ……俺にはとってはすごく面倒な話だ。だが、クラリスがここまで気にする理由は別にあるらしい。
机の端に置いていた、自分で持ってきた紙束を引き寄せた。
「私が横領したって言われた時も似てるの……支払いは動いてるし、私の印もある。でも、そのあとに何が届いたか、誰が受け取ったか、その記録だけが曖昧だった」
「お前が金を払う許可を出したのか?」
「処理しただけよ……家令から回ってきたものを確認して、支払いの印を押した。それが仕事だったから」
俺は目の前の紙を見た。
「じゃあ聞くが、お前が印を押したら荷馬車まで勝手に動くのか?」
クラリスの目が上がる。
「……動かないわ」
「倉の扉も勝手に開く?」
「それも無理ね……倉番がいるもの」
「商人まで、お前の印を見ただけで勝手に麦を持っていくのか?」
「……そんなわけないでしょう」
「なら、お前一人で横領したって話は無理があるだろうが」
クラリスが黙った。俺は紙を一枚持ち上げる。
「お前が関わっていたとしても、少なくとも荷を動かした奴、倉を開けた奴、商人と話した奴が別にいる。全部お前がやったと言うなら、お前は随分忙しい女だったんだな?」
「……父の家では、そんなこと誰も言わなかったわ」
「そいつらが馬鹿だったんじゃないのか?」
「……簡単に言うわね」
「難しく言っても同じだろ。紙を見れば分かる」
クラリスはしばらく何も言わなかった。
やがて、自分の紙を一枚ずつ並べ直し始める。
「私の印がある支払いと、この屋敷の取引を並べてみる。もし同じ商人や倉の名前が何度も出てくれば、もう少し追えるかもしれない」
「好きにしろ……ただし仕事を止めるなよ」
「分かってるわ。自分のことだけ調べて、領地の仕事を放り出したりしない」
「それならいい」
クラリスは羽根筆を取ったが、すぐに止めた。
「……ねえ、ヴェイン」
「なんだ?」
「もし……私が本当に横領してたら、どうするつもり?」
俺は少し考えた。
「そうだな……程度によるな」
「え……?程度?」
「俺の金を盗むなら首だな……昔の家で盗んだだけなら、うちで盗まなければどうでもいい」
クラリスが呆然と俺を見る。
「いや、どうでもよくはないでしょう?」
「お前の昔の雇い主が損した話だろ?俺が困るのか?」
「……あなた、たまに本当に悪い貴族みたいなこと言うわね」
「みたい、ではないぞ」
クラリスは数秒黙ったあと、耐えきれなかったように笑った。そのくらいでいい。さっきまで紙を握る手に入っていた力も、少し抜けている。俺はそれ以上何も言わず、また長椅子へ戻った。慰めたところで数字は変わらない。だが数字が残っているなら、調べればいい。そのためにこいつを雇っている。
◇
夕方。
門の方から呼ぶ声が聞こえ、少ししてミレーヌが一通の文を持って執務室へ入ってきた。
「旦那様。エルフォード家からです」
クラリスの羽根筆が止まった。
俺は受け取った封を見て、クラリスへ目を向ける。
「開けるぞ」
「……ええ。私宛てじゃなくて、あなた宛てなんでしょう?」
封を切って中を読む。長い挨拶のあとに書かれていた内容は、驚くほど勝手だった。クラリス・エルフォードは本来エルフォード家の者であり、誤解の残るまま他家に置かれているのは好ましくない。早急に戻してもらいたい。
俺はもう一度最初から読んだ。
やはり同じだ。
「……ないな」
クラリスが顔を上げる。
「何が?」
「謝罪も、お前の横領疑惑を取り消すって話もない……なのに返せとは書いてある」
クラリスの顔から、少しだけ表情が消えた。
俺は手紙を机へ置く。
「罪人として追い出したのか、家の者として返してほしいのか、どっちなんだ?」
返事はない。クラリスは黙ったまま、エルフォード家の紋を見ていた。ようやく紙の山が減ってきたところだというのに。
……今度は家ごとか。面倒なのが来たな。




