第12話 悪役貴族、雇った才女に仕事を奪われる
クラリス・エルフォードを正式に雇ってから、七日が過ぎた。
朝、執務室へ入ると、本人はもう自分の机に座っていた。昨日の残りらしい紙束を広げ、俺が来たことにも気づいているはずなのに顔すら上げない。最初の頃はいちいちこちらの様子を窺っていたくせに、今では完全に自分の場所として使っている。
まあ、仕事をしてくれるなら何でもいい。
俺は長椅子へ腰を下ろし、ミレーヌが淹れた茶を受け取った。
七日前まであれだけ邪魔だった木箱も、今では中身がかなり減っている。しかも全部俺が読む必要はなくなった。クラリスが先に見て、俺の判断や印が必要なものだけを持ってくる。
これだ……!俺が欲しかったのは、こういう暮らしだった。
「ヴェイン、朝から随分と嬉しそうね?念のため言っておくけど、今日も仕事はあるわよ」
クラリスが三枚の羊皮紙を持ってこちらへ来た。
「その三枚だけか?」
「今のところはね……残りは私の方で返書を作れるし、調べるだけならあなたの印はいらない。この三つだけは徴収や支払いが絡むから、ちゃんと自分で読んで。私に全部押しつけて、あとから知らないなんて言われても困るもの」
「そんなこと言わんから安心しろ……だが、午後でもいいだろ?」
俺は茶を口元へ運ぶ。
その瞬間、横から伸びたミレーヌの手が茶器をそっと持ち上げた。
「あ!……おい」
「旦那様、こちらは一度お預かりいたします。先に書面をご確認ください」
「クラリス様から、旦那様は書面を後回しになさる時、茶を長く飲まれると教えていただきましたので!」
机の向こうから、クラリスが肩を震わせている。
いつの間にそんな情報を共有しているんだ。
「お前たち、俺を働かせる時だけ妙に息が合ってないか?」
「旦那様のお仕事が滞りますと、私たちの仕事も増えますので」
「そういうこと!あなたが楽をしたいのと同じで、私たちだって余計な仕事は増やしたくないのよ」
なるほど。言い返せない……俺は諦めて三枚を受け取った。
内容は、徴収を一度止める村が二つと、古くなった共同倉の屋根を直すための支払いが一つ。クラリスの字で理由も短く添えてあるため、以前のように何枚も帳簿を引っ張り出す必要はなかった。
最初からこうしてくれれば、俺だって紙を嫌いにはならなかったかもしれない。
「問題ないな……これなら印を押していい」
「じゃあ、その二枚は昼までに返書を出すわ。倉の方は材料の値段をもう一度だけ確認してからにする。今のところ妙な額ではないけど、急いで払う必要もないから」
「好きにしろ。そこまで見てくれるなら俺は楽だ」
「結局そこなのね。でも、最初よりは褒められてる気がするから受け取っておくわ」
クラリスは紙を回収すると、何事もなかったように自分の机へ戻った。
……随分と慣れたな。俺に対してというより、この屋敷で働くことそのものに。それなら俺としては大歓迎だ。辞められれば、またあの木箱と二人きりになる。
そんな生活には二度と戻りたくない。
◇
昼過ぎ、クラリスが食料庫の帳面を見たいと言い出した。
領地から入る金だけでなく、屋敷から出ていく金も一度見ておきたいらしい。食材の買い付け先や値段が分かれば、領都の相場も掴みやすいと言うので、俺はミレーヌに任せることにした。
「見せても構わないか?」
「はい。ただ……私がつけたものですので、間違いがありましたら申し訳ありません」
「間違ってたら直せばいいだろ?隠される方が面倒だ」
ミレーヌは少し緊張した顔のまま、それでも腰から鍵を外した。
食料庫へ入ると、乾いた麦や豆の匂いが鼻につく。棚には以前より物が増えているが、余計なものまで買い込んでいる様子はない。ミレーヌは奥から帳面を取り出し、両手でクラリスへ渡した。
クラリスは受け取ると、すぐに中を確認し始めた。
しばらくは誰も喋らなかった。買った日、品物の量、支払った額。帳面を見たあとで棚を確認し、またページへ戻る。俺にはそこまで細かく見る気になれないが、クラリスは妙に真剣だった。
ミレーヌの方は、その隣で落ち着かない様子をしている。
やがてクラリスが帳面を閉じた。
「ちゃんとしてるわね……買った量と残ってる分も大きくおかしくないし、使ったものも分かるようになってる。最初からこういう帳面をつけてたの?」
「いえ……旦那様から鍵を預かってからです。最初は何を書けばいいのかも分からなかったので、買った物と使った物だけは必ず残すようにしていました」
「それで十分よ。変に難しく書いて、あとから自分でも分からなくなるよりずっといい。それに……一人でここまで管理してるなら、かなり頑張ったのね」
ミレーヌが一瞬、言葉を失った。
「……あ、ありがとうございます!」
小さな声だったが、ちゃんと受け取った。
クラリスもそれ以上大げさに褒めることはせず、また帳面を開く。
「ただ、これから人が増えるなら少し変えた方がいいかもね……今は誰が使ったかまで書かなくても分かるけど、人数が増えたら曖昧になる。私の方でも使いやすい形を考えてみるわ」
「お願いしてもよろしいのですか?」
「そのために雇われたんでしょう? それに、あなたが困ると結局こっちの帳簿まで合わなくなるもの」
ミレーヌが少しだけ笑った。
どうやら二人で勝手に話がまとまったらしい。俺は食料庫の入口にもたれながら、その様子を眺めていた。クラリスが来たばかりの頃は、ミレーヌもかなり遠慮していた。それが今では帳面の相談までしている。
実に悪くない……俺が何もしなくても、使える奴同士で勝手に仕事を進めてくれる。
俺の理想に近づいている気がするな。
「ヴェイン」
突然、クラリスの声が変わった。さっきまでミレーヌと話していた時とは違う。
帳面の一箇所を見つめたまま、指が止まっている。
「なんだ?」
「この取引……」
クラリスが帳面をこちらへ向けた。
俺には数字と家名が並んでいるようにしか見えない。
「エルフォード家?」
「そう……先代の頃、この屋敷へ麦を入れる取引に何度か関わってる。直接売ったものもあるし、別の商人を挟んでるものもあるみたい」
「お前の家なら、取引くらいしててもおかしくないんじゃないのか?」
「取引そのものはね。でも……」
クラリスはそこで言葉を切った。
もう一度帳面を見てから、今度は自分の机がある方へ目を向ける。
「あの宿から持ってきた書類、覚えてる? 私が横領していないって調べるために残してたもの」
「ああ」
「あれと、これ……一度並べて見た方がいいかもしれないわ」
声から、さっきまでの軽さが消えていた。ミレーヌも何も言わず、クラリスを見る。俺は帳面の家名をもう一度見た。
エルフォード。
ようやく紙の山が減ってきたと思ったのに、どうやら今度は別の紙を引っ張り出すことになるらしい。
「……分かった。持ってこい」
クラリスがこちらを見る。
「……いいの?」
「お前が気になる顔をしたまま仕事される方が困る……それに、横領した女を雇ったままにしておくのも嫌だからな。違うなら、さっさとはっきりさせろ」
一瞬だけ、クラリスの目が止まった。
だがすぐに帳面を閉じる。
「……分かった。全部持ってくるわ」
「頼むぞ。ただし一つだけ言っておく」
「何?」
「できれば今日中に終わらせろ。面倒事を明日まで持ち越したくない」
クラリスは数秒黙ったあと、盛大に呆れた顔をした。
「そういうところだけは、本当に変わらないわね」
そう言いながらも、その足はもう執務室へ向かっていた。
……さて。何が出てくるやら?




