第9話 鶴丸、出陣
「今夜、付き合え」
凛が帰り支度の手を止めた。鞄のファスナーが半分開いたまま宙で止まっている。
「え。どこにですか」
「霊具を買いに行く。鬼切丸の代わりじゃないが、属性対策が要る」
蔵を開いた。左手首の黒い腕輪が淡く光る。中身を確認する。鬼切丸——刀身にひびが走っている。使えなくはないが、中級以上には心許ない。霊喰い。破魔の札が十一枚。空きスロットは二つ。
「退魔局の卸しですか?」
「あんな高い店で買えるか。もっと安いところがある」
凛の手がファスナーに戻った。閉じない。指先が止まっている。
「安い……って、正規じゃないってことですか」
「夜になったら動く。それまで待ってろ」
窓の外が薄暮に沈んでいた。事務所の蛍光灯が一本、端のほうで点滅している。交換を三日先延ばしにしている。
凛がファスナーを閉じた。鞄を肩にかけ直す。帰る気はない、という顔だ。
「何時に出ますか」
「九時」
「了解です」
凛が自分のデスクに戻った。スマートフォンを取り出して、何かを調べ始めている。闇市場で検索しても出てこないぞ、とは言わなかった。
◇◇◇
夜。都内某所。
コンクリートの壁に沿って階段を降りた。蛍光灯が等間隔に並んでいるが、三本に一本は切れている。空気が湿っている。地下に降りるにつれて、古い配管の匂いが鼻に届いた。
一般人にはただの廃棄された地下通路に見える。
壁に目を向けた。コンクリートの継ぎ目に、かすかな刻印がある。退魔師の五感でしか感知できない目印。指で押した。壁の一部がずれた。隙間から空気が流れ込む。煙草の煙。古い金属の匂い。
「ここ……なんですか、ここ」
凛が俺の背中に張りついていた。半歩どころか、コートの裾を踏みそうな距離だ。
「闇市場。退魔局の監視が届かない場所だ」
隠し通路を抜けた。
地下に広がる空間。天井が低い。パイプが剥き出しで走っている。薄暗い照明が等間隔に吊り下げられ、通路を黄色く染めていた。狭い通路の両側に屋台が並ぶ。霊具、素材、薬品、札。退魔師免許は入口で確認される。だが階級は問わない。D級もS級も同じ場にいる。
「ここでは名前を出すな」
凛が頷いた。目が大きく開いている。怖がっている目ではない。屋台に並ぶ霊具を見つめている。右の棚、左の棚。視線が忙しなく動く。好奇心だ。
人の低い話し声が通路を満たしていた。金属が触れ合う音。どこかで札が燃える匂いがする。煙草を咥えた男が屋台の奥で霊具を磨いている。怪しげな液体を瓶に詰める女。退魔師が三人、カウンターで頭を寄せて何かを囁いている。
凛が俺の横に並んだ。半歩後ろではなく、横に。
「こんな場所があるんですね」
「退魔局の正規品は高い。ここなら半値以下で手に入る」
「品質は——」
「見る目があれば問題ない」
───
霊具専門の屋台に足を止めた。
老人が布を広げて霊具を並べている。刀、槍、鎖。どれも年季が入っている。だが手入れは行き届いていた。柄の巻き直しが丁寧だ。素人の店ではない。
「鶴丸はまだあるか」
老人が顔を上げた。皺の深い顔に、目だけが鋭い。
「あんた、前にも聞いてたな。入荷したよ。見るかい」
カウンターの下から布に包まれた長物を取り出した。布を開く。
薙刀型の霊具。柄は白木。握りの部分に薄い布が巻かれている。刃は片刃で、わずかに青白い光を帯びていた。光は一定ではない。呼吸するように明滅している。
鶴丸。攻防一体の薙刀。物理破壊力に加えて、属性攻撃を受け流す特性がある。鬼切丸が使えない場面で、これがあれば対応できる。
柄を握った。重さを確かめる。重心が手元寄りだ。片手で扱える。腕を返して、緩く振った。空気を切る音が低い。もう一度。今度は速く。音が変わった。刃が空気を裂く鋭い一音。手に馴染む。鬼切丸とは系統が違うが、悪くない。
「これだ。値段は?」
老人が指を二本立てた。
凛の目が丸くなった。金額の桁が見えたのだろう。
「前回の件で手数料が余ってるだろ。差し引いてくれ」
老人の口角が上がった。歯が二本欠けている。
「……しょうがねえ。その代わり、次いいものが入ったら先に見せろよ」
「ああ」
金を渡した。鶴丸を蔵に格納する。左手首の腕輪が光って、薙刀が吸い込まれた。空きスロットは残り一つ。
凛が老人と俺の顔を交互に見ていた。
「神崎さん、ここの常連なんですか」
「たまに来る」
「値切り方が手慣れてました」
「出費は計算する。稼ぐだけじゃ足りない」
凛が小さく笑った。声は出さない。口元だけだ。
◇◇◇
鶴丸を手に入れて、市場の奥に向かった。出口は反対側にある。
通路が狭くなった。照明が減る。屋台の種類が変わった。霊具ではなく、情報を扱う区画だ。壁にメモが貼られている。妖怪の目撃情報、退魔局の人事異動の噂、御三家の動向。どれも真偽は保証されない。カウンターの奥に座った男たちが、低い声で何かを話している。
通りすがりに、声の断片が耳に入った。
「——影鬼の目撃情報が出回ってるらしい。場所は——」
足が止まった。
自分の意志ではない。身体が先に反応した。
二人の退魔師がカウンターで話している。一人が手帳を開いていた。もう一人が顔を寄せて覗き込んでいる。
近づきすぎた。二人がこちらを見て、口を閉じた。手帳が閉じられる。
情報屋のカウンターに向かった。
「影鬼。今の話の続きを聞かせろ」
カウンターの奥に座った男が、こちらを見上げた。四十代。顎髭。目が細い。
「……金は?」
財布を出した。値切らなかった。言い値がカウンターに乗る。凛が隣で息を呑んだ気配がした。
情報屋が金を数えて、懐にしまった。
「最近、都内で影鬼の眷属らしき妖怪の目撃が二件。場所と時間は不規則だ。影鬼本体じゃない。影鬼に従う下位の妖怪だ」
「信憑性は」
「五分五分。目撃者はどっちも中級退魔師だ。嘘をつく理由はないが、見間違いの可能性は残る」
右手が拳を握っていた。指の関節が白い。息が浅くなっている。胃の底が冷たい。周囲の喧騒が遠くなった。煙草の煙も、金属の匂いも、何も届かない。
「場所は」
「新宿と品川。間隔は五日。次がいつかは読めない」
金をもう一枚置いた。
「続報が入ったら連絡しろ。番号はこれだ」
名刺を出した。事務所の番号だけが書いてある。名前はない。情報屋が名刺を受け取って、表裏を見た。
「了解」
背を向けた。歩き出す。凛が半歩遅れてついてくる。足音が小さい。何も言わない。さっきまでの好奇心に満ちた足取りが消えていた。
───
地上への階段を上がった。
夜風が頬に当たった。地下の湿った空気から、四月の夜の冷たさに切り替わる。街灯がオレンジ色に歩道を照らしていた。車の音が遠くから聞こえる。
歩いた。凛が隣を歩いている。闇市場に入る前より、半歩近い。
「神崎さん」
答えなかった。歩き続ける。
「さっきの——影鬼って」
足を止めなかった。信号が赤に変わった。横断歩道の手前で立ち止まる。信号のせいだ。それだけだ。
「あの名前を聞いた時、手が震えてました」
信号が赤い。点滅もしない。動かない。
「鶴丸を買った時は値切ってたのに、影鬼の情報には値切りませんでした」
凛の声は静かだった。分析している。観察して、差異を抽出して、結論を出そうとしている。退魔師の分析者ではなく——隣にいる人間として。
信号が青に変わった。
歩き出さなかった。
「……俺が退魔師を続けている理由は、金だけじゃない」
声が出ていた。言うつもりはなかった。自分でも分からない。夜の空気に吐き出された言葉が、白く霧になって消えた。
凛が立ち止まっている。視界の端に、凛の指先が見えた。鞄の紐を握る力が強くなっている。
それ以上は言わなかった。信号を渡る。凛の足音が二拍遅れてついてきた。
新宿の夜が深い。ビルの隙間から見える空に、星はない。
拳を開いた。爪の痕が、掌に四つ残っていた。




