第8話 御三家の影
退魔局東京支部からの着信だった。
朝八時。事務所のデスクでコーヒーを飲んでいたところに、非通知でかかってきた。退魔局が民間事務所に直接電話をかけてくることは滅多にない。通常は依頼管理システム経由で案件が回ってくる。
「台東区の神社周辺で上級妖怪の予兆が検出されています。調査をお願いしたい」
電話口の声は事務的だった。報酬額を聞く。上級調査の相場。悪くない。
「フリーに上級案件を直接?」
「人員が不足しておりまして」
(嘘だろ。上級案件は御三家に優先で回る。フリーに来る時点で何かある)
引き受けた。電話を切る。凛がデスクの向こうで顔を上げていた。
「退魔局の直接依頼ですか」
「台東区の古い神社。上級妖怪の予兆調査だ」
凛がスマホを操作した。妖怪速報のデータベースを引いている。指先が画面を滑る速度が三日前より上がっている。
「この神社、一週間で目撃報告が三件出てます。全部夜間です」
「報酬は上級相場だ。行くぞ」
「はい」
凛が鞄を掴んで立ち上がった。三秒で準備が終わる。もう慣れた。
◇◇◇
退魔局東京支部。蛍光灯の白い光が薄暗い廊下を照らしている。書類の匂い。インクと古い紙が混じった独特の空気。職員が無表情で行き交う。
受付窓口で免許証を提示した。D級。職員の女性が画面を確認し、一瞬だけ手を止めた。
「神崎迅さん……ですね。案件資料をお渡しします」
封筒を受け取る。職員がもう一度画面に目を落とした。画面の文字を確認してから、かすかに息を吸う気配がした。隣に立っていた凛の耳には届いたかもしれない。「空転体……」と、唇が動いた。
「この案件、別のチームにも依頼が出ています。現場で被らないようにご注意ください」
「別のチーム?」
「はい。詳細はお伝えできませんが」
(上級調査を複数チームに同時依頼。御三家が動いているのに、フリーにも声をかけた。退魔局が勝手にやったのか、それとも——)
封筒をコートの内ポケットにしまった。凛が半歩後ろについてくる。支部の自動ドアを出たところで、凛が口を開いた。
「退魔局が上級案件をフリーに直接出すのって、珍しいんですよね」
「珍しいな」
「じゃあ何で——」
「さあな。報酬は出る。それだけだ」
◇◇◇
台東区の古い神社に着いた。
石段を上がった。三十段ほど。古い石が苔に覆われて滑る。鬱蒼とした木立が空を覆い、四月の陽射しを遮っている。苔の匂い。湿った土。落ち葉が踏み場を腐葉土に変えていた。鳥居の朱が褪せて木目が剥き出しになっている。注連縄の端がほつれて垂れ下がっていた。石灯籠の表面に黒い染みが走っている。瘴気だ。薄いが、密度が違う。下級のものではない。
空気が重い。肺に圧がかかる感覚。鼻の奥で鉄錆びの匂いがした。上級の残留痕だ。
凛が目を細めた。瞳の色がわずかに変わる。金色の光が薄く浮かぶ。
「何か大きなものが通った痕があります。木の幹に黒い筋が——」
境内を抜けて裏山に回った。土が踏み荒らされていた。足跡ではない。何かが這った痕だ。幅が広い。地面の草が黒く変色している。
(上級の移動痕。ここを通過しただけか。それとも留まっているのか)
凛が木の幹に手を伸ばしかけて、止めた。触れない判断。正しい。
「幹の筋、全部同じ方向に走ってます。奥に向かってる」
裏山の奥に目を向けた。木々の隙間が暗い。瘴気の濃度が奥に行くほど上がっている。鼻の奥に金属質の匂いが届く。
そのとき。反対方向から、人の気配がした。
三人。足音を殺す気がない。装備の金属が擦れる音。木立の隙間から現れたのは、紋章入りのコートを着た退魔師だった。胸元に刺繍された鳳凰の紋章。鳳凰院家だ。
先頭の男が足を止めた。三十代。鋭い目。短く刈り込んだ髪。視線が俺を捉えて、一拍遅れて凛に移った。
「フリーか。この案件に?」
「退魔局の依頼だ」
「退魔局が……ああ、人手不足か」
蔑みを隠す気がない。後ろの二人も同じ目をしていた。凛が俺の後ろで肩を固くしている。空気が張り詰めた。
「調査結果はこちらで取りまとめる。報告書はうちの名前で出す」
男が腕を組んだ。
「お前はこの区画だけ見て帰れ」
何も言わなかった。背を向けて歩き出した。男が指定した区画に向かう。背中に三人分の視線を感じた。凛の足音が半歩遅れてついてくる。
裏山を回り込んで、鳳凰院家のチームが見えなくなった。木々の間を抜ける風が首筋に冷たい。凛が口を開いた。
「あの人たち……なんであんな態度なんですか」
「御三家は上級案件の独占権を持っている。人手が足りなくても、フリーに渡す気はない」
「でも退魔局が依頼を出したんですよね」
「御三家にはシステムで出した。俺には直接電話だ。システムでフリーに回すと御三家が弾く」
「弾く……って、依頼そのものを?」
「調査範囲を指定して、フリーには末端だけやらせる。さっきのあれだ」
凛が黙った。足音だけが林の中に響く。木漏れ日が足元を斑に染めていた。
「退魔師って……そういうものなんですか」
「退魔師はただの仕事だ。御三家の政治は別の話だ」
指定された区画に入った。瘴気の残留痕を確認する。痕跡は薄い。だが——
目を凝らした。濃度分布が不自然だ。通過しただけなら均一に拡散するはずが、偏りがある。どこかに集中している。
凛が木の幹の前で足を止めた。
「この黒い筋、方向が変です」
「変?」
「さっきの区画では全部奥に向かってたのに、ここでは——放射状に広がってます。ここを中心に」
見た。凛が指さした木の幹。確かに筋の方向が周囲の幹と違う。中心から外側に向かって走っている。
「中心点がここってことか」
「はい。上級妖怪がここに留まっていた痕跡だと思います」
(鳳凰院のチームが先に来ていた。だがこの区画は調べていない。中心点を含む区画を、だ)
凛がこちらを見た。
「あの人たち、こっちの区画は調べてなかったですよね」
「ああ」
「中心点がここなのに」
見落としたのか。それとも——見つけていて、報告書に書かないつもりなのか。
(今ここに妖怪はいない。痕跡だけだ。戦えない。だが中心点は押さえた。あとは誰が先に退魔局に出すかだ)
目を細めた。
「帰るぞ。報告書は退魔局に直接出す。鳳凰院の名前じゃなく、うちの名前で」
───
帰りの電車。座席に並んで座った。夕方の車両は空いていた。窓の外を住宅街の屋根が流れていく。
凛が窓の外を見ていた。ポニーテールが肩にかかっている。
「神崎さん」
「何だ」
「退魔師って……こういうものなんですか」
二度目の問い。さっきとは声の温度が違った。現場で見たものを噛み砕いた後の声だ。
「退魔師は妖怪を祓うのが仕事だ。御三家の政治とは違う」
「でも、あの人たちがいると、フリーの退魔師は——」
「正面から戦っても勝てない。だから俺は裏口から行く」
凛がこちらを見た。何か言いかけて、口を閉じる。
スマートフォンを取り出した。画面を開いて、短いメッセージを打つ。送信先は登録名なしの番号。
『台東区。鳳凰院が上級の予兆調査に動いてる。中心点を意図的に外した可能性あり。情報求む』
送信した。画面を消してポケットに戻す。
凛の視線が一瞬、スマートフォンに向く。前にも同じことがあった。新宿御苑の案件の帰り。あのときも凛は何も聞かなかった。今も、聞かない。
事務所に着いた。報告書を書いた。退魔局に直接送信する。鳳凰院家の名前は使わない。神崎退魔事務所として提出した。
凛がデスクでファイルを整理している。手が止まった。
「神崎さん」
「何だ」
「さっき退魔局の受付で、職員の人が画面を見てたじゃないですか」
「ああ」
「あの人、小さい声で何か言ってたの、聞こえました。『空転体』って」
手を止めなかった。報告書の最終行を書き終えて、ペンを置いた。
「空転体——神崎さんが前に、『俺だけの欠陥品』って言ってた体質ですよね」
「ああ」
「あれって、自分でつけた名前だと思ってたんですけど。退魔局の公式ファイルに載ってるんですか」
「載ってるな」
「じゃあ退魔局は、神崎さんの体質を——把握してるってことですか」
立ち上がった。コーヒーカップを流しに持っていく。
「報告書、送っとけ。明日は通常案件が三件入ってる」
凛が何か言いかけて、口を閉じた。ファイルに視線を戻す。ペンを持つ指先が白い。
流しに水を流した。窓の外が暗くなっている。新宿の街灯がオレンジ色に歩道を染めていた。遠くでサイレンが鳴っている。
退魔局のファイルに載っている名前。空転体——俺だけの欠陥品。
欠陥品を、退魔局は管理している。




