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第7話 氷の依頼

 刃が食い込んだ。手応えがあった——が、止まる。


 鬼切丸の刃先が白く変色している。氷だ。刃と雪女の体表が一体になって凍りついていた。柄を握る指の感覚が消えていく。


 力を込めた。腕の筋肉が軋む。刃が氷の中で甲高い悲鳴を上げた。引けない。凍結が柄を這い上がってくる。手首に霜が降りた。爪の先が白くなる。


 手を離した。


 鬼切丸が雪女の体表に刺さったまま宙に残った。刃全体が氷に呑まれていく。俺の主力武器が、目の前で凍結していく。


 雪女が首を傾げた。人間のような所作。だが瞳のない目は笑っているように見えた。口元が動く。声はない。冷気だけが吐き出される。吐く息が凍って白い粒になり、足元に落ちた。


「神崎さん、胸の中央に核が見えます。でも氷の層が分厚い——直径二十センチくらいあります」


 凛の声が背後から飛んでくる。震えている。だが途切れない。河童のときとは違う。あのときは声が出なかった。今は出ている。


「了解。距離は保て」


「はい」


 雪女の右腕が持ち上がった。指先に氷柱が形成される。三本。長さは腕一本分。根元が青白く光り、先端が鋭い。


 跳んだ。


 氷柱が通過した場所のコンクリートが砕けた。破片が顔を掠めた。着地した足が滑る。床が凍結している。膝をついて堪えた。掌に氷の粒が食い込む。冷たさが骨の奥まで染みた。


「右です」


 凛の声で転がった。二射目の氷柱が肩の上を通過してフェンスに突き刺さる。金属が歪む音。支柱ごと氷に覆われていく。


 室外機の残骸に背を預けて体勢を立て直した。息が白い。肺が痛い。四月の夜に吸い込む空気が真冬の山頂のようだった。


(鬼切丸は使えない。残りは霊喰いと破魔の札が十一枚。破魔の札は対物理だ。こいつには効かない。霊喰いの一択)


 蔵に手を伸ばした。腕輪の金属が凍えている。霊喰いの鎖を引き出す。重りの冷たさが掌を焼いた。だが鬼切丸と違って接触時間が短ければ凍結しない。投擲武器だ。握り続ける必要がない。


「凛、下がってろ。鎖を回す」


「はい。——核の位置、伝え続けます」


 短い返答。余計な言葉がない。戦闘中の凛はこれでいい。


 鎖を回した。遠心力が重りを加速させた。金属が冷えた空気を裂く音が唸りに変わる。腕一本分の間合いしかなかった鬼切丸と違い、鎖の長さが距離を作った。


 踏み込んだ。凍った床を蹴る。足裏が滑るが、脚の筋力で無理やり体を前に押し出した。


 重りを叩きつけた。雪女の胸——核のあたり。


 硬い。


 表面の氷が厚すぎる。重りが弾かれた。鎖が手の中で暴れる。振動が肘まで走った。


 雪女が腕を振った。冷気の波が押し寄せる。全身の体温が二度は下がった感覚。後退した。コートの表面が白く凍る。呼吸が荒い。吐く息が氷の粒になって散った。


「核に届いてません。表面の氷が防いでます」


 凛の声が飛ぶ。


「分かってる」


「あの——薄い部分がないか探します。少し待ってください」


 待つ余裕があるかどうかは別の問題だった。雪女が右腕を振り上げている。氷柱が三本、新たに形成される。


 左に跳んだ。氷柱が足元を掠めてコンクリートを穿つ。衝撃で床が割れる。破片が脛に当たった。鈍い痛み。凍った空気の中で汗が額を伝う。体が冷えているのに汗が出るのは、全力で動いているからだ。


「見えました」


 凛の声が変わった。恐怖が消えている。分析に集中した声。


「核の周りに薄い部分があります。右鎖骨の下——指二本分くらいの範囲です。そこだけひびが大きく見えます」


 指二本分。最初は「分厚い」としか言えなかった。それが今は位置と範囲を示している。


「右鎖骨の下だな」


「はい。そこだけ氷の密度が低い。狙うならそこです」


 鎖を回し直した。狙いを絞る。右鎖骨の下。指二本分。


 二投目。


 重りが薄い部分を貫いた。氷が砕ける音。核に触れた手応えが鎖越しに伝わる。硬い。割れかけている感触——だが、砕けきらない。中級の核は頑丈だ。


 雪女が悲鳴を上げた。人間の声に似た高い音が屋上に反響する。


 冷気が爆発した。


 屋上全体が一瞬で凍結した。足元の水たまりが氷に変わる。フェンスの金属に氷柱が這い上がっていく。室外機が氷の塊になった。空気そのものが凍える。肺の奥まで刺さる冷たさ。視界の端が霧で白む。


 手が震えている。指が動かない。体温が奪われていく。コートの袖口に氷の結晶が花のように広がった。


「ひびが——広がってます」


 凛が叫んでいる。声が震えているが、情報は正確だった。


「同じ場所です。右鎖骨の下。ひびがさっきより大きくなってます。今なら——」


 足場が凍結している。踏ん張りが効かない。膝が沈む。立てるか。


 立てる。


 体を捻った。腰から回転を生む。鎖が弧を描いた。重りが加速する。凍った空気を切り裂いて白い軌跡が残る。


 三投目。右鎖骨の下。同じ場所。


 核に直撃した。


 砕ける感触が鎖越しに伝わった。硬いものが割れる振動。指先まで響く。


 雪女の体が崩れた。


 氷の粒になって散る。白い破片が夜風に巻き上げられて、渋谷の空に溶けていった。光を受けて一瞬だけ輝く。霊喰いの重りが鎖の先で揺れている。手首に重さが残った。


 屋上を覆っていた冷気が緩んだ。凍った水が溶けて流れ始める。水の音が四方に広がる。遠くでビルのエアコン室外機が再起動する唸り。渋谷の街灯がフェンスの向こうに見える。四月の夜の空気が、ゆっくりと戻ってきた。


 膝をついた。


 手が震えている。寒さだ。体温が低い。指先の色が白い。コートの霜が溶けて水滴になり、膝の前の地面に落ちた。肩で息をしている。肺がまだ冷たい。


◇◇◇


 鬼切丸を回収した。雪女が消えたことで凍結は解けている。


 刃を確認した。細かいひびが走っている。光に透かすと、刃紋の間に亀裂が見えた。折れてはいない。だが刃の強度が落ちている。次に同じ冷気を受けたら保たない。


 蔵に戻した。腕輪が冷たかった。


「大丈夫ですか。手、震えてます」


 凛が横に立っていた。顔色が悪い。唇の色が薄い。寒さと緊張の両方だろう。


「寒いだけだ」


「嘘ですよね。さっき膝ついてたじゃないですか」


「寒くて膝をついた。嘘じゃない」


 凛が何か言いかけて、やめた。反論しても無駄だと学習したらしい。


 立ち上がった。膝が軋む。屋上のドアに向かって歩き出した。凛が半歩後ろについてくる。階段に入ると、二人分の足音が反響した。


 九階、七階、五階。降りるごとに空気が温くなる。凍結していた手すりの氷が下の階では消えていた。三階まで降りたところで、凛が上着のポケットからカイロを差し出してきた。


「使ってください。朝の残りですけど」


「……いつ入れた」


「渋谷に来る前です。低温異常の案件だったので、念のため」


 受け取った。掌に温みが広がる。


「さっきの指二本分ってのは正確だった」


「え」


「お前の分析がなかったら、もう二投は増えてる。体温が持たなかった」


 凛が数秒黙った。足音だけが階段に響く。


「……ありがとうございます」


「礼を言うな。報告だ」


「報告を褒めてるじゃないですか」


「事実を述べた」


 凛が小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。暗い階段ではよく見えない。


 非常階段を降りきった。エントランスに出る前に、凛が口を開いた。


「雪女みたいな相手が増えたら、鬼切丸だけじゃ——」


 途中で止めた。言いかけた言葉を飲み込んでいる。俺が分かっていることを察したのか。


 分かっている。


 蔵の中身は三つ。鬼切丸、霊喰い、破魔の札。全部物理に特化した装備だ。属性攻撃を受けたら鬼切丸は凍る。次は折れるかもしれない。霊喰いで今回は何とかなったが、核がもっと深い位置にあったら届かなかった。


 空きスロットが二つある。


 エントランスを出た。渋谷の夜の空気がぬるく感じた。さっきまで氷点下にいたせいだ。歩道の街灯がオレンジ色に光っている。遠くでタクシーのクラクションが鳴った。


「退魔局に報告書出しておきます。中級雪女、撃破。霊具の損傷については——」


「書いとけ。鬼切丸に亀裂。要修理か交換」


「……交換って、新しい霊具をどこかで手に入れるんですか」


「さあな」


「鬼切丸は近接武器ですよね。今日みたいに近づくと凍る相手には——」


「分かってる」


 凛が口を閉じた。それ以上は踏み込まない。俺が考えていることを察している。


 駅に向かう道を歩いた。四月の夜風が首筋を撫でる。温い。指先の感覚がゆっくり戻ってくる。

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