第6話 掲示板の噂
【目撃】新宿で霊力ゼロの退魔師見たんだけど
1:名無しの退魔ウォッチャー
昨日の夕方、新宿三丁目の路地裏で退魔やってるの見た。黒コートの兄ちゃんが妖怪を素手で殴って倒してた。霊術一切なし。マジで物理オンリー。免許はD級らしい
2:名無しの退魔ウォッチャー
>>1
嘘松。霊力なしで退魔とかできるわけないだろ
3:名無しの退魔ウォッチャー
>>2
いや俺も見た。中野のほうでも目撃情報出てる。妖怪速報のまとめスレにも上がってた。隣に女の子がいて、あの子が何か指示出してたぞ
4:名無しの退魔ウォッチャー
御三家が手出さない案件ばっか回されてるフリーの退魔師だろ? 最近やたら依頼こなしてるって退魔局の窓口で聞いたわ。D級なのに処理速度おかしい
5:名無しの退魔ウォッチャー
>>4
霊力ゼロで退魔師やってる時点で頭おかしいけど、結果出してるなら本物じゃね。次見かけたら動画撮るわ
スマホの画面を凛が差し出してきた。
「神崎さん、バズってますよ」
朝九時。事務所のデスクに座ったまま、コーヒーを飲んでいた。窓から差し込む四月の光が書類の山を白く照らしている。
「五件もスレ立ってます。この投稿、昨日の中野の案件のことですよね」
「見てたのか」
「妖怪速報は毎朝チェックしてます。依頼が来たときの事前情報になりますから」
「お前が勝手にやってるだけだろ」
「勝手にって……効率いいじゃないですか。昨日の中野の案件も速報で事前に情報拾えてたから早かったんですよ」
反論が正確だった。コーヒーを一口飲んだ。
凛がスマホをしまって、デスクの上の台帳に手を伸ばした。依頼管理欄が凛の字で一行ずつ埋まっている。几帳面な文字。最終行の日付は今朝だ。
「今日の依頼、三件入ってます。全部下級です」
「どこだ」
「中野と新宿で各一件、最後に杉並。午前中に二件は回れます」
「お前、いつからスケジュール管理まで始めた」
「暇だったので」
「嘘つけ。色分けまでしてるだろ」
「色分けは見やすいからです。赤が緊急、青が通常、黄色が保留。覚えてください」
暇な人間の仕事じゃない。
凛が席を立った。壁際の棚に向かう。霊具のケースを一つずつ確認して、手元のリストと照らし合わせている。
「破魔の札、残り十二枚です。補充しますか」
いつ数えた。三日前の案件で使った分まで把握している。
「……まだ持つ。二十枚切ったら発注する」
「わかりました。鬼切丸は異常なし。霊喰いの鎖、少し伸びてます」
「伸びてる?」
「使ったあと毎回引っ張ってるからだと思います。金属疲労かもしれません」
鎖の伸びまで見ている。
「鎖は手入れする。行くぞ」
「はい」
コートを掴んで立ち上がった。凛が鞄を肩にかける。もう準備が終わっている。
◇◇◇
中野区。住宅街の空き地。
取り壊し途中の建物跡地にフェンスが張られていた。内側に古い柱が一本残っている。表面に瘴気の黒い染みが這っていた。空気が淀んでいる。付喪神系の下級。
凛が目を細めた。瞳の色がわずかに変わる。
「核にひびが見えます。あの柱の表面から二十センチくらい奥です」
「了解」
踏み込んだ。拳でコンクリートの表面を叩き割る。ひびが走り、断面から黒い塊が露出した。霊喰いの重りを振り下ろす。核が砕ける乾いた音。瘴気が四方に散って消えた。
依頼人の男性がフェンスの向こうで目を丸くしている。
「あの、ほんとに終わりですか? 三十秒もかかってないですけど」
「終わりです。退魔局への報告書にサインだけお願いします」
凛が駆け寄って書類を差し出した。男性がぎこちなくペンを取る。
「いやあ、噂は聞いてたけど。本当に霊術なしなんだな」
「行くぞ」
背を向けた。凛が頭を下げてから追いかけてくる。
二件目。商店街の裏路地。排水溝の蓋の隙間から白い霧が漏れていた。下水の匂いに混じって、腐った草のような瘴気の臭い。
凛が排水溝を覗き込んだ。目を細める。瞳がわずかに金色に光る。
「ひびが見えます。霧の中心から少し右寄り、三メートル先です」
蓋を引き剥がした。金属が地面を擦る音が路地に響く。飛び降りる。膝まで水に浸かった。暗い排水路の奥で霧状の妖怪が蠢いている。破魔の札を一枚投げた。札が青白く光り、霧が収縮する。凛が示した位置に霊喰いを叩き込んだ。水飛沫が上がって、霧が弾けた。静かになる。
地上に戻った。ズボンの裾が濡れている。
「お疲れさまです。はい、タオル」
凛がタオルを差し出してきた。鞄から出したらしい。
「いつの間に入れた」
「今朝です。排水溝系は濡れるかなって」
受け取った。
「あの、もしかして掲示板の退魔師さんですか? あの、霊力ゼロの」
商店街の八百屋の女主人が身を乗り出している。
「知らん」
「すみません、急いでるので。退魔局に報告書が届きますのでご確認ください」
凛が笑顔で対応している間に歩き出した。半歩後ろの足音が追いついてくる。
「連携、早くなりましたね。二件で四十分かかってないです」
「お前の分析が正確だからだ」
「……褒めてます?」
「事実を述べた」
「事実って言いながら褒めてるじゃないですか」
「黙って歩け」
凛が小さく笑った。ポニーテールが揺れる。商店街の人通りを縫って駅に向かう。四月の陽射しが首の後ろを温めていた。
◇◇◇
事務所に帰還。午後一時。
凛が報告書を書いている。ペンの先が紙の上を走る小さな音。窓から入る光がデスクの書類を照らしていた。
コーヒーを淹れた。二杯分。凛の分には砂糖を一つ落とす。デスクの端に置いた。
「ありがとうございます」
「今月の件数、先月の倍に近い」
「ですよね。退魔局経由が特に増えてます。掲示板で名前が広まった影響もあると思いますけど、依頼ごとに速報で事前情報拾えるようになったのが大きいかと」
「お前がそう言うならそうだろ」
「自画自賛みたいに聞こえるんですけど」
「事実だ」
「さっきもそれ言いましたよね」
台帳をめくった。凛がペンを止めてスマホを確認する。
「今日の依頼人も掲示板見てましたよね。『霊力ゼロの退魔師』って」
「余計な注目は面倒だ」
「でも依頼は増えてます」
「金が増えるならいい」
凛がコーヒーを一口飲んで、スマホに目を落とした。画面をスクロールしている。
「あ、新しいスレ立ってます。……あと、依頼も一件」
「どこからだ」
「退魔局経由です。渋谷区の商業ビル。低温異常と霜の発生で、テナントから苦情が出てるみたいです」
「下級か」
「それが……」
凛が速報データを引っ張り出した。画面に気温グラフが表示されている。眉が寄った。
「気温データ見てください。ビル屋上付近の外気温がこの三日で十五度下がってます」
「下級の冷気でその降下速度は出ない」
「はい。資料だと中級以上の特徴です。三日前は周辺ビルと差がなかったのに、急に乖離してます」
「どこでそんな読み方覚えた」
「退魔局の公開データベースです。先週の案件の後に調べました」
教えた覚えはない。全部自分でやっている。
「報酬は?」
「中級相場です」
「行くぞ」
立ち上がった。蔵の腕輪に触れる。鬼切丸、霊喰い、破魔の札の残りは十一枚。
凛が報告書のペンを置いて鞄を掴んだ。三秒。もう準備が終わっている。窓の外では午後の陽射しが傾き始めていた。
◇◇◇
渋谷区。商業ビル。
営業時間外のエントランスを抜け、非常階段に入った。凛が半歩後ろについてくる。足音を殺している。
三階。空気は普通だ。五階。吸い込むと肺の奥が痛い。冷たさが喉に刺さる。七階。吐く息が白くなった。四月なのに。壁に薄く霜が張っている。踊り場の蛍光灯が点滅していた。
凛が腕をさすった。息が白い。
「冷えてきましたね……」
「黙ってろ。集中しろ」
九階。階段の手すりに氷の結晶がびっしりとついていた。足元のコンクリートが凍って滑る。どこかで金属が軋む音が響いている。配管が凍結して膨張する音だ。冷気の密度が変わった。上だ。
屋上への扉。ドアノブが凍結していた。掴む。指の皮が金属に張りつくほど冷たい。力を込めて引き開けた。
氷の粒が舞っていた。
屋上の床が一面、白く凍結している。空気が針のように肌を刺す。四月の渋谷のビルの上で、吹雪の中に立たされたような冷たさだった。フェンスの金属が霜で白くなり、室外機が氷に覆われて沈黙している。
中央に、女の形をした何かが立っていた。
白い肌。腰まで伸びた長い黒髪が風もないのに揺れている。裸足。足元から冷気が這い出して床を覆っていた。顔の輪郭は人間に近い。だが目の位置に瞳がない。薄い氷の膜が貼りついている。
中級。雪女だ。
蔵に手を伸ばした。鬼切丸の柄を掴む。
——冷たい。
いつもと違う。金属が芯まで凍えている。手に持っているだけで指先の感覚が消えていく。鬼切丸が小刻みに震えている。刃まで冷気が侵食しているのか。
凛が背後で息を呑んだ。
「神崎さん、あれ——」
「見えてるか」
「……はい。でも、まだ遠くて。もう少し近づかないと」
雪女が顔を上げた。氷の瞳がこちらに向く。冷気の圧が一段跳ね上がった。コートの表面に霜が降り始める。
鬼切丸が震えている。寒さじゃない。




