第5話 勝手にしろ
渋谷区の案件が届いたのは、朝九時だった。
退魔局経由。地下駐車場に水系の下級妖怪。目撃報告は昨夜二件。報酬は下級相場の固定額。手数料を引いて四万二千円。
凛が速報データをめくりながら立ち上がった。
「渋谷の案件、行きますよ」
行きますよ、と来た。ついてきていいですか、じゃない。
「ついてくるな」
先に歩き出した。背後で凛が鞄を掴む音がする。
「弱点は乾燥か光のはずです。地下駐車場は換気が悪くて水気が溜まりやすいので」
「聞いてない」
「懐中電灯、持ちましたか」
蔵に触れた。腕輪の金属が冷たい。格納済みだ。
「持ってる」
「よかったです。前に忘れたことあったから」
「一回だ」
「二回です」
事務所の鍵を閉めた。階段を降りる。凛の足音が半歩後ろで鳴っている。
いつからだ。この配置が普通になったのは。
◇◇◇
渋谷区、地下駐車場。B2フロア。
蛍光灯が二本切れている。天井から水滴が落ちる音が反響していた。コンクリートの壁に水の染みが広がっている。湿った空気が肌に張りつく。排気と埃の混じった匂いが鼻の奥に溜まる。
管理員が入口で待っていた。五十代の男。制服の襟が汗で濡れている。
「昨日の夜から3番柱のあたりに霧みたいなのが出て。車が二台、エンジンかからなくなってまして」
「分かった。離れてろ」
奥に進んだ。凛が三歩後ろについてくる。足音を殺している。教えた覚えはない。
3番柱。コンクリートの表面が結露している。柱の陰に霧状の塊が蠢いていた。下級。水系。体積は犬一匹分くらいだが、形が定まらない。
凛が目を細めた。
「3番柱の陰です。光を当ててください」
蔵から懐中電灯を出した。スイッチを入れる。白い光が霧の塊を貫いた。
霧が収縮した。光を嫌がっている。凝縮された核が一瞬、半透明の塊の中心に露出する。
踏み込んだ。霊喰いの重りを核に叩き込む。硬い手応え。砕ける感触が左手に伝わった。
霧が弾けた。水滴になって床に散る。天井から落ちていた水音が止まった。蛍光灯の低い唸りだけが残る。
振り返った。管理員が入口から恐る恐る顔を出している。
「え、もう終わりですか」
「終わり」
「いや、ほんとに? さっき来た退魔師さんと違って、あっという間で」
「さっき?」
「あ、いえ。昨日、別の退魔師さんにも来てもらったんですけど、手に負えないって帰っちゃって」
「それで退魔局に回ったのか」
「はい」
下級一匹で手に負えない退魔師もいる。霊力があっても使い方を知らなければ同じだ。
凛が懐中電灯を受け取って蔵に戻す。退魔局への報告書類に管理員のサインをもらった。凛が書式を確認している。記入漏れを指で示して管理員に渡し直した。
「お嬢さん、助手さんですか」
「事務担当です」
凛がそう答えた。管理員が頭を下げる。
地上に出た。四月の日差しが眩しい。渋谷の雑踏が遠くで鳴っている。
「二分かかってないですね」
「下級なら普通だ」
「普通じゃないと思いますけど」
「行くぞ。報告書は事務所で書け」
「はい。あ、神崎さん、コート濡れてますよ」
「地下だからな。乾く」
◇◇◇
事務所に戻った。午後一時。
凛が退魔局への報告書を書いている。ボールペンの先がデスクの上で動く小さな音。窓から入る光が書類の白い紙面を照らしていた。
コーヒーを淹れた。二杯分。凛の分は砂糖を一つ。何も言わずにデスクの端に置く。
「ありがとうございます」
「事務的なものだ」
「砂糖の量、覚えてくれてますよね」
「コスト管理だ。無駄に入れたくない」
自分の椅子に座った。缶コーヒーのほうが楽だが、豆で淹れるほうが安い。経費の問題だ。
凛がペンを止めた。報告書の数字を指で追っている。
「今日で何件目ですか、うちの」
「何が」
「案件です。わたしが来てからの」
引き出しを開けた。依頼管理の台帳を引っ張り出す。ページをめくった。
「十七件目だ」
「十七……そんなに」
「二週間で十七件は多いほうだ。御三家が断った案件が流れてくるからな」
「わたしが来る前は月に何件くらいでした?」
「十件前後」
「増えてるじゃないですか」
「お前が依頼ごとに速報で事前情報を拾うようになったからだ。現場に着いた時点で状況が分かってる」
凛がコーヒーを一口飲んだ。カップを両手で包んでいる。
「気がついたら、そんなに」
「数えてなかったのか」
「……はい。毎日が早くて」
報告書に目を戻した。凛も書類に戻る。ペンの音がまた始まった。
しばらくそうしていた。
台帳を閉じた。数字は合っている。計算は昨夜のうちに済ませていた。
「そういえば」
凛がペンを止めた。顔を上げる。
「お前の残金、今日で清算された。十七件分でちょうどだった」
凛の手が止まった。ペンを握ったまま動かない。
「え」
「母親の除霊費の残り。お前が事務を手伝った分で相殺した。計算したら今日ので帳尻が合った」
書類に目を落とした。
「明日から来なくていい。借りはもうない」
沈黙が落ちる。
蛍光灯の音だけが鳴っている。低い、一定の唸り。窓の外を車が通り過ぎていく。
凛が動かない。椅子に座ったまま、ペンを握ったまま。口を開きかけて、閉じる。
視線が止まった。
じっとして、動かない。声にならない何かを飲み込んでいる。
——小春も、こうだった。
台帳を引き出しに戻す。閉める音が、静かな事務所に響く。
凛が口を開いた。
「引き続き、働かせてもらえませんか」
顔を上げた。凛がこちらを見ている。目が真っ直ぐだ。
「なんで。借りはもうないぞ」
「わかってます」
凛がペンをデスクに置いた。両手を膝の上に揃える。背筋が伸びている。
「自分の目が何なのか、ここにいれば分かる気がするんです」
「……」
「わたしの目は、普通じゃない。妖怪を見るとひびが入って見える。でも、それが何なのか、どこまでできるのか、自分でもまだ分からなくて」
「それは、ここにいなくても調べられるだろ」
「一人じゃ無理です。妖怪の前に立たないと分からないのに、一人で妖怪の前に立つ方法がない」
正論だった。
「あと、続けたいんです。この仕事を」
椅子の背もたれに体を預けた。天井を見る。蛍光灯の光が白い。
十七件。二週間で、こいつは事前情報の整理を覚え、書類の書式を覚え、現場で声を出せるようになった。戦闘の二分前に弱点を特定する。依頼の粗利が上がっている。
使えることは確認済みだ。
「わかった、勝手にしろ」
凛が息を吐いた。小さく、一度だけ。肩の力が抜けている。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。給料は出ない。報酬の分配は案件ごとに計算する。前と同じだ」
「はい」
「あと、書類の誤字が多い。退魔局に突き返されたら手間が増える」
「……気をつけます」
「現場では俺より前に出るな。条件は前と同じだ」
「分かってます」
「分かってるなら、さっさと報告書を仕上げろ。今日の分がまだだ」
「もう半分書いてあります」
凛がペンを取り直した。報告書の続きを書き始める。
窓から差し込む光が少しだけ傾いていた。午後の日差しが事務所の床に四角い影を落としている。
コーヒーを飲んだ。ぬるくなっていた。
ペンの音が続いている。蛍光灯の唸り。窓の外の車の音。それだけだった。




